黒雪姫は春を待つ
その日、王都に黒い雪が降った。
春告げの鐘が鳴るはずの朝だった。南の丘では白杏の花がひらき、王城の尖塔には金糸の旗が掲げられ、石畳の大通りには祝いの絹が垂らされていた。王太子レオンハルト殿下と、辺境伯家の娘オフィーリア・クロウベルの婚約披露が行われる日だったからだ。
けれど空は、夜明けから妙に低かった。
雲は煤を溶かしたような黒だった。陽は昇っているはずなのに、王都の屋根瓦は光を返さず、広場に集まった貴族たちの宝石だけが、濁った水底の石のように鈍く瞬いていた。
やがて、雪が落ちてきた。
ひとひら。
また、ひとひら。
それは白くなかった。
黒い雪だった。
「またか」
王太子レオンハルト殿下が、吐き捨てるように言った。
大聖堂の階段の下で、私は静かに顔を上げた。黒雪が頬に触れる。冷たく、けれど痛みはない。幼い頃から慣れた感触だった。
私のそばにいると雪が黒くなる。
それが、オフィーリア・クロウベルという女に与えられた呪いなのだと、誰もが信じていた。
「オフィーリア。今日という日まで穢すつもりか」
「私は何もしておりません」
「嘘をつけ。お前が来る場所には、いつも黒い雪が降る」
「はい。けれど、それは――」
「言い訳は聞き飽きた」
殿下の声が、広場に響いた。
「オフィーリア・クロウベル。お前との婚約を、ここに破棄する」
ざわめきが起こった。
けれど驚きの声は少なかった。むしろ、ようやくか、という安堵の気配があった。
黒雪姫。
そう陰で呼ばれてきた私が、王家から退けられることを、貴族たちは待っていたのだろう。
私は殿下を見つめた。
「本気で、そうおっしゃるのですね」
「王太子の言葉を疑うのか」
「いいえ」
私は膝を折り、深く礼をした。
「承知いたしました。婚約破棄、謹んでお受けいたします」
あまりに素直だったからか、殿下はわずかに眉をひそめた。
殿下の隣には、薄桃色のドレスをまとった令嬢がいた。セレスティア・ルベール男爵令嬢。つい半年前に王宮へ上がり、癒やしの魔法で王妃陛下の頭痛を和らげたという少女だ。
彼女は怯えたように殿下の袖を握り、私を見ていた。
「……怒らないのですか。オフィーリア様は、殿下をお慕いしていたのでしょう」
「いいえ」
私は顔を上げた。
「王命でしたので、お受けしていただけです」
広場が静まり返った。
殿下の顔が赤くなる。
「お前、最後まで可愛げのない女だな」
「申し訳ございません」
「その冷たい目が昔から嫌いだった。雪女のような女め」
雪女。
その言葉に、胸の奥がほんの少しだけ軋んだ。
けれど、もう痛むほどのものは残っていなかった。
「では、私はこれで失礼いたします」
「待て」
殿下が私を呼び止めた。
「クロウベル辺境伯領の北嶺一帯は、本日をもって王家の管理下に置く」
広場がざわめいた。
私は、初めて殿下を真正面から見た。
「北嶺を、でございますか」
「そうだ」
殿下は胸を張った。
「クロウベル家は、代々北嶺の結界を管理する役目を負ってきた。だが今朝、王都に黒雪が降った。これは結界の乱れにほかならない。王都にまで不吉な雪を降らせた以上、お前たちに北嶺を預けておくことはできない」
なるほど。
そう来たのか。
私は、殿下の隣に立つセレスティア嬢を見た。
彼女は怯えたように目を伏せていた。けれど、その目にはどこか、自分は正しいことをしているのだと信じている無邪気な光があった。
「恐れながら、殿下。黒雪は結界の乱れではございません」
「黙れ。セレスティアから報告は受けている」
「セレスティア様から」
「ああ。お前は近頃、黒雪の儀を私的に用いていたそうだな」
その言葉に、広場のざわめきが大きくなった。
「王家に自分の価値を認めさせるため、わざと北嶺の封印を緩め、王都に黒雪を降らせた。違うか」
「違います」
「では、なぜ王都に黒雪が降った」
「王都に影が近づいていたからです」
「影だと」
殿下は鼻で笑った。
「またそのような古い迷信を。北嶺には魔鉱石が眠っている。王国の発展に必要な資源だ。それを守護だの封印だのと言い立て、クロウベル家は王家の調査を拒み続けてきた」
「北嶺を掘れば、封じられたものが目覚めます」
「そうやって脅すのだな」
殿下の声が鋭くなった。
「結界管理に失敗し、王都に黒雪を降らせた。そのうえ、王家の調査まで拒む。これ以上の落ち度があるか」
セレスティア嬢が、殿下の袖をそっと握った。
「殿下。どうかお怒りをお鎮めくださいませ。オフィーリア様も、きっと悪気があったわけではないのです。ただ……ご自身の力を認めてほしくて、少しだけ儀式を誤ったのかもしれません」
優しい声だった。
けれど、その優しさは刃だった。
私は静かに目を伏せた。
「さようでございますか。たいそうよく整えられた筋書きにございますね」
「何」
「いいえ。殿下のご判断、このオフィーリア、しかと承りました」
老宰相だけが、青ざめていた。
彼は知っているのだ。
黒雪が何のために降るのかを。
「では、北嶺の管理権を王家へお返しいたします」
殿下は勝ち誇ったように笑った。
「当然だ」
「以後、クロウベル家は北嶺における黒雪の儀を行いません」
宰相が一歩前へ出た。
「お待ちください、オフィーリア様。それだけはなりません」
「なぜ止める」
殿下が宰相を睨んだ。
「これは王太子たる私の決定だ。結界管理に失敗した者から権限を取り上げる。当然の処分であろう」
「しかし、殿下」
「黙れ」
宰相は唇を噛み、言葉を失った。
私は膝を折り、最後の礼をした。
「王太子殿下のご命令、謹んでお受けいたします」
そして私は、広場を去った。
黒い雪が、私の歩く道にだけ静かに降り積もっていく。
誰も知らない。
黒雪は、失敗の証ではない。
守護が間に合った証なのだ。
そして北嶺の魔鉱石は、宝ではない。
眠れる災厄の骨である。
掘り起こせば、王国の春は終わる。
*
クロウベル辺境伯領は、王国の最北にある。
地図で見れば、そこは白く塗られた山脈と、細い川と、いくつかの寒村に過ぎない。けれど実際には、王国と魔境を隔てる最後の境界だった。
北嶺は、昼でも暗い。
針葉樹の森は風を抱き込み、幹の奥で獣のように唸る。谷底には青黒い氷が張り、春になっても溶けきらない。山肌を覆う雪は、光を吸うように鈍く、夜になると遠くから無数の目がこちらを見ているようだった。
その山の向こうに、魔物がいる。
正確には、魔物だったものがいる。
古い戦で死にきれなかった兵。名を失った獣。飢えた精霊。恨みだけで形を保つ影。
それらは春を嫌い、命を憎み、温かなものに寄ってくる。
クロウベル家は代々、その影を北へ押し戻す役目を負ってきた。
黒雪は、そのための魔法だった。
白い雪は命を眠らせる。
黒い雪は、死を眠らせる。
祖母はそう教えてくれた。
けれど王都の人々には、理解されなかった。私が幼い頃、初めて王宮へ上がった日に中庭で黒雪が降った。貴族の子どもたちは泣き、大人たちは眉をひそめ、王妃陛下は扇で口元を隠した。
それ以来、私は黒雪姫と呼ばれた。
殿下も、私を嫌っていた。
何度説明しても無駄だった。黒い雪は気味が悪い。お前の目は冷たい。笑顔が少ない。セレスティアのように愛らしく振る舞えない。
だから私は、やがて説明をやめた。
理解されないものを守り続けるのは、思っているより疲れる。
だから婚約破棄を告げられた時、悲しみより先に、安堵してしまった。
もう、差し出さなくていいのだと。
*
じつのところ、北嶺はその朝はじめて王家に侵されたのではなかった。
婚約披露の前夜、王太子の私命を受けた先遣調査隊が、すでに北嶺へ入っていた。
彼らはクロウベル家の封印標を古い迷信の札だと笑い、雪に埋もれた祠をどけ、黒い岩肌に鑿を入れた。
そこに眠っていたのは、魔鉱石だった。
黒く透きとおる石は、火を近づけると青く光った。魔導灯の十倍の力を宿すと、技師たちは歓声を上げたという。
けれど、その夜。
鉱脈が泣いた。
坑道の奥から、赤子とも獣ともつかぬ声が響き、馬は一斉に暴れ、火の入っていない炉から灰が噴き出した。井戸の水は墨のように濁り、掘り出した魔鉱石は、箱の中で脈打ちはじめた。
夜明け前、調査隊は掘り出した魔鉱石の一部を王都へ運ばせた。
鑑定のため。
献上のため。
そして、王太子の正しさを証明するため。
その石が王都へ近づいたから、黒雪は降った。
黒雪は、王都を呪うためではない。
影が都に触れる前に、眠らせるために降ったのだ。
けれど王都の者は、それを見誤った。
一日目の朝、私は婚約を破棄された。
一日目の昼、北嶺は王家の管理下に置かれた。
一日目の夜、封印は大きく裂けた。
そして二日目の昼、北嶺のふもとの村が凍った。
雪は降っていなかった。
それなのに、井戸の縁から黒い霜が伸び、家畜は立ったまま動かなくなり、眠っていた子どもたちは北の言葉でうわごとを言った。夕暮れには村の鐘がひとりでに鳴り、音を聞いた者の影が、足元から剥がれて歩き出した。
魔鉱石は、ただの鉱石ではない。
災厄の骨なのだ。
削れば力になる。
けれど、削られたものは、自分の骨を取り戻そうとする。
影は南へ流れた。
王都へ運ばれた骨を追って。
*
王都を出たのは、一日目の昼だった。
私は大通りを抜け、城門を過ぎ、北へ続く街道へ出た。供は最小限だった。王宮へ置いていた荷など、惜しいものはほとんどない。
普通の馬車なら、王都からクロウベル領まで丸二日かかる。
けれど私は夜も止まらなかった。
王都から離れるほど空は暗く、北へ近づくほど雪は深くなった。街道沿いの村では、まだ誰も本当の危機を知らず、ただ春先にしては冷えると戸を閉ざしていた。
二日目の夕刻、私はクロウベル領へ戻った。
屋敷は北嶺の麓にある。黒い石で築かれた古い館で、尖った屋根には年中雪が残る。王都の宮殿のような華やかさはない。けれど分厚い壁も、軋む扉も、暖炉に積まれた薪の匂いも、私にとっては何より安らかなものだった。
「お嬢様」
玄関の前で、老執事のグレイヴが待っていた。
白髪の混じった初老の男で、父が死んでからは家令として領地を支えてくれている。背筋はまっすぐで、深く刻まれた皺の奥に、雪山のような厳しさと温かさを併せ持っていた。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ。北嶺の監視所から急報が二通届いております」
王都からではない。
北からだった。
それだけで、私は事態の重さを悟った。
グレイヴは封を切った書状を差し出した。
一通目には、王家の調査隊が前夜に封印標を抜き、魔鉱石を掘り出したことが記されていた。
二通目には、ふもとの村が凍り、影が南へ流れはじめたことが記されていた。
私は書状を握りしめた。
「王都まで、どれくらい進んでいるのかしら」
「王家が持ち去った魔鉱石を核にすれば、早ければ四日目の夜明けには根づきます」
グレイヴは低く答えた。
婚約破棄の日を一日目とすれば、今は二日目の夕刻。
残された時間は、一日と半分もない。
私は窓の外を見た。
北の山が黒い。
雲ではない。
影が、山を越えようとしている。
その時、廊下の奥から低い声がした。
「戻ったか」
振り向くと、黒い軍服の青年が立っていた。
背が高く、肩に雪を乗せている。銀灰色の髪。氷湖のような淡い瞳。腰には北方騎士団の長剣。
エリオット・ヴァレンシュタイン。
北方騎士団長であり、私の幼馴染だった。
「エリオット。帰っていたの」
「監視所からの急報を受けて戻った」
「婚約を破棄されたわ」
エリオットは淡々と言った。
「知っている。あの男は、いつか君の価値を見誤ると思っていた」
私は言葉に詰まった。
グレイヴがそっと咳払いをした。
「お嬢様。王都からの使者はまだ到着しておりません。おそらく、王都は今ごろ黒霜の対応に追われております」
「でしょうね」
「ただし、使者が来れば、戻れと命じるでしょう」
エリオットが私を見た。
「王都へ戻る気はあるか」
「ない、と言いたいところだけれど」
私は書状を見下ろした。
凍った村。
動かなくなった家畜。
眠ったまま目覚めない子どもたち。
そして、何も知らず王都で朝を待つ民。
「あのままでは、民が巻き込まれる」
「分かっている。救援は出す。だが、君を差し出す必要はない」
その言葉に、胸の奥が静かに温かくなった。
差し出す。
私はずっと、そういうものだった。
王家のために差し出される婚約者。
国のために差し出される黒雪の姫。
不吉だと忌まれながら、必要な時だけ呼ばれる道具。
けれどエリオットは、いつもそうは言わなかった。
「王都へは行くわ」
私は言った。
「けれど、命じられたからではない。私が守ると決めたものを守るために行く」
エリオットは短く頷いた。
「なら、俺も行く」
*
二日目の夜半、王都からの使者が来た。
使者は凍りついた外套をまとい、玄関先で震えていた。馬は泡を吹き、脚には黒い霜が絡んでいる。普通の早馬ではない。王家の伝令用の魔導馬だった。それでも、ここまで来るのがやっとだったのだろう。
グレイヴが書状を受け取り、眉をひそめた。
「王太子殿下からでございます」
「読み上げて」
「婚約破棄は一時の行き違いであった。王都へ戻り、黒雪を降らせよ。戻るなら側妃にしてやってもよい、と」
私は、しばし言葉を失った。
「側妃、ですか」
「はい」
「婚約者から側妃へ降格したうえで、命じておいでなのですね」
「そのようでございます」
グレイヴは真顔だった。
「なお、セレスティア嬢を正妃に迎えるご予定は変わらないそうです」
「まあ」
私は静かに微笑んだ。
「たいそう寛大なお慈悲ですこと」
「まことに。王都の方々のご発想は、我々辺境の者にはなかなか及びもつきません」
エリオットが低く言った。
「笑って済ませるには、あまりに無礼だな」
私は暖炉の火を見つめ、王太子からの書状を閉じた。
「返事は不要でしょう」
*
三日目の夜明け前、国王陛下から書状が届いた。
今度は早馬ではなかった。
王家の緊急伝令鳥が、黒い霜に片翼を焼かれながら、クロウベルの塔へ落ちてきたのだ。
封は国王陛下の直筆だった。
『クロウベル辺境伯令嬢オフィーリア殿。
王家は北嶺結界の重要性を見誤った。
王太子レオンハルトによる婚約破棄と北嶺接収の宣言は、重大な瑕疵を含むものとして撤回する。
どうか王都を救ってほしい。
条件は、可能な限りそちらに委ねる。』
私は書状を読み終え、グレイヴに渡した。
「条件は、可能な限り、だそうです」
「では、まず王太子殿下の廃位だな」
エリオットが即答した。
グレイヴも頷いた。
「妥当でしょう」
「二人とも、早いわね」
「お嬢様が慎み深すぎるのです」
私は羽根ペンを取った。
時間はない。
四日目の夜明けまでに、王都へ入らねばならない。
「返書を」
私は言った。
「一つ、王太子レオンハルト殿下を廃位し、王位継承権を剥奪すること。
一つ、クロウベル領の自治権と、北方騎士団の独立指揮権を正式に認めること。
一つ、北嶺における魔鉱石採掘を、今後百年間禁ずること。
一つ、黒雪の儀を王家の命令で強制しないこと。今後、黒雪を降らせるか否かは、クロウベル家当主の判断に委ねること」
グレイヴは真顔で頷いた。
「大変よろしいかと存じます」
私は外套を取った。
「夜明けを待たずに発ちます」
「お嬢様」
「四日目の夜明けまでに王都へ入らなければ、間に合わないわ」
エリオットはすでに剣を帯びていた。
「雪馬は用意してある。北方騎士団の馬なら、王都まで一日で駆けられる」
「無茶な道ね」
「君ほどではない」
「言うようになったわね」
「昔からだ」
*
三日目の朝、私たちはクロウベル領を発った。
普通の馬車なら二日かかる道を、北方騎士団の雪馬で駆けた。雪馬は北嶺の冷気に慣れた軍馬で、蹄に魔銀を打っている。凍った道でも足を取られず、夜を徹して走ることができる。
けれど、それでも王都は遠かった。
王都に近づくほど、災いは濃くなった。
最初の宿場町では、通りの両側に青い火が灯っていた。誰も火をつけていない。灯火は窓の内側で揺れ、眠っている人々の影だけが壁を這っていた。
二つ目の村では、井戸から黒い腕が伸びていた。水を汲みに来た娘の名を呼び続けるその声を、エリオットが剣で断ち切った。腕は霜となって砕け、井戸の底から幼子の泣き声がした。
三つ目の橋では、王家の調査隊の馬車が横転していた。
積み荷の箱が壊れ、黒い魔鉱石が道へ散らばっている。
その石は、脈打っていた。
青黒い光を放ちながら、まるで心臓のように、どくり、どくりと。
「これが、魔鉱石か」
エリオットが低く言った。
「ええ」
私は馬を降り、石へ近づいた。
途端に、耳の奥で声がした。
寒い。
寒い。
返せ。
返せ。
骨を返せ。
私は黒雪を呼んだ。
指先から舞った黒い雪が、魔鉱石を包む。石は悲鳴のような音を上げ、やがて静かに凍りついた。
「鉱石ではないのだな」
「ええ」
私は凍った魔鉱石を見下ろした。
「災厄の骨よ。削れば力になる。けれど、削られたものは自分の骨を取り戻そうとする」
「そのために王都へ向かっているのか」
「王都には、調査隊が運び込んだ魔鉱石があるはず。おそらく、魔導院か王城に」
エリオットの表情が険しくなった。
「それが核になる」
「ええ。四日目の夜明けに、影は王都を根にする」
根づけば終わりだった。
黒雪でも、もう眠らせることはできない。
王都そのものが、北嶺の影の巣になる。
*
四日目の夜明け前、私たちは王都へ着いた。
城壁の上には、黒い霜が張りついていた。
北門は半ば凍り、門番たちは立ったまま眠っていた。息はある。けれど瞼の下で、眼球だけが忙しく動いている。悪い夢を見ているのだ。
王都の空は暗かった。
朝が来るはずの東の空に、光はない。
代わりに、黒い雲が渦を巻いていた。大聖堂の鐘楼から影が伸び、王城の尖塔へ絡みつき、貯水池へ根を下ろしている。
あと半刻。
それで王都は落ちる。
城門の前には、青ざめた貴族たちが並んでいた。レオンハルト殿下もいた。四日前の傲慢さは消え、疲れ切った顔で私に歩み寄ってくる。
「オフィーリア、戻ってくれたのか。やはり君は私を――」
エリオットが無言で私の前に立った。
殿下の足が止まる。
私は馬上から、静かに告げた。
「殿下。私は王都を救いに参りました」
殿下の顔が明るくなる。
「そうか。ならば婚約破棄は――」
「王命による救援です。私情ではございません」
「オフィーリア」
「それと、私はもう殿下の婚約者ではございません」
広場に、黒い雪が降り始めた。
けれど今度は、誰も悲鳴を上げなかった。
王都の上空を覆っていた影が、雪に触れて剥がれ落ちていく。屋根の霜が溶け、貯水池の氷が割れ、大聖堂の鐘がひとりでに鳴った。
人々は初めて、黒雪を見上げた。
不吉なものとしてではなく、救いとして。
国王陛下が、城門の内側から歩み出てきた。
老いた王は、私の前で深く頭を下げた。
「オフィーリア・クロウベル。王家はそなたを不当に扱った。そなたの忠義を疑い、クロウベル家の務めを軽んじた。その責は、王家にある」
私は礼を返した。
「陛下。王都の結界を張り直します。ただし、条件をお忘れなきよう」
「すべて認める」
国王は、はっきりと言った。
「王太子レオンハルトを廃位し、王位継承権を剥奪する。北嶺の接収も撤回する。魔鉱石採掘は百年間禁ずる。クロウベル領の自治権と北方騎士団の独立指揮権を、王家の名において保証する」
「父上」
レオンハルト殿下が叫んだ。
「お待ちください。私の王位継承権を剥奪するなど」
国王陛下は、息子を見なかった。
「王国の守護者を侮り、確かめもせず虚偽に近い進言を信じ、北嶺を利権として扱い、王都を危機に晒した。王となる資格はない」
「私は、国の発展を考えて」
「王は、欲しいものを奪う者ではない。守るべきものの価値を見誤らぬ者だ」
殿下は言葉を失った。
その日、レオンハルト殿下は王太子ではなくなった。
セレスティア嬢は、殿下の少し後ろで震えていた。
薄桃色のドレスは泥に汚れ、髪に飾られた真珠は片方失われている。けれどその瞳には、まだどこかで自分だけは許されると信じている甘さが残っていた。
「オフィーリア様、私、知らなかったのです」
彼女は泣きそうな声で言った。
「黒雪が結界だなんて、誰も教えてくださらなかったから。私はただ、殿下のお力になりたかっただけで」
「そうですか」
「だって、北嶺の魔鉱石があれば、王都はもっと豊かになると聞きました。私の癒やしの力があれば、少しくらい魔物が出ても大丈夫だと……。だから、殿下にそう申し上げただけなのです」
その言葉に、広場の空気が冷えた。
彼女は気づいていない。
それこそが、罪なのだと。
「セレスティア様」
私は静かに言った。
「あなたが知らなかったことは、罪ではありません」
彼女の顔が、ぱっと明るくなった。
「では――」
「けれど、知らぬまま王太子殿下へ進言し、北嶺の封印を軽んじ、黒雪の儀を呪いだと広め、結果として王都を危機に晒したことは、罪です」
「そんな。私は悪気があったわけでは」
「悪気がなければ、王都を危険に晒しても許されるのですか」
セレスティア嬢は、言葉を失った。
国王陛下が、重い声で告げた。
「セレスティア・ルベール」
「は、はい、陛下」
「そなたの癒やしの力を、王家は聖女の徴として扱ってきた。だが、聖女とは力を持つ者の名ではない。力の重さを知る者の名だ」
セレスティア嬢の顔が青ざめていく。
「そなたは己の力を過信し、北嶺の封印を軽んじ、王太子の判断を誤らせた。その責は軽くない」
「陛下、私は、本当に国のためを思って」
「国のためを思う者は、知らぬことを知ったように語らぬ」
その一言で、彼女は完全に黙った。
国王陛下は近衛兵へ命じた。
「セレスティア・ルベールの聖女認定を剥奪する。あわせて貴族籍を剥ぎ、ルベール男爵家は爵位返上のうえ、領地を王家預かりとする」
「そんな」
セレスティア嬢が、悲鳴のような声を上げた。
「お待ちください。私は聖女です。皆さまを癒やせます。殿下も、私を必要だと――」
「その力は、今後、北方修道院にて民の救護にのみ用いよ」
国王陛下の声は揺るがなかった。
「社交界への復帰、王宮への出入り、婚姻による貴族籍の回復を、生涯禁ずる」
広場が静まり返った。
セレスティア嬢は、その場に崩れ落ちた。
「いや……そんなの、嫌。私は、ただ、選ばれたかっただけなのに」
その声には、まだ自分の罪を理解しきれない幼さが残っていた。
けれど近衛兵は、もう彼女に手を貸さなかった。
彼女が望んだのは、愛される聖女として王宮に立つ未来だった。
与えられたのは、名も飾りも失い、北の修道院で癒やし続ける一生だった。
悪意がなかったとしても。
無知を盾にして、誰かを踏みつけた代償は、あまりに重い。
*
空が震えた。
猶予は尽きようとしていた。
大聖堂の尖塔の上で、大きな黒い獣が姿を現した。
角のある狼のような形をしていた。目はなく、口だけが裂けている。喉のあたりには、青黒い鉱石のようなものが幾つも突き出ていた。
私は、それを見て理解した。
あれは北嶺で眠っていた影の一部だ。
王家の調査隊が掘り出した魔鉱石を、王都へ運んだのだ。魔導院で鑑定するためか、あるいは王太子へ献上するためか。封印から切り離された影の骨は、都の熱と人の欲に触れて目を覚ました。
石ではない。
骨だった。
資源ではない。
災厄の欠片だった。
黒い獣は、喉の奥で石を軋ませるような音を立てた。広場の魔導灯が一斉に割れ、青い火花が雨のように降る。石畳には霜が走り、逃げ遅れた兵の影が、足元から黒く染まっていく。
あれを放置すれば、王都は凍る。
人々は死ぬのではない。
眠ったまま、影の中へ取り込まれる。
北嶺で何百年も封じてきたものが、都の中心で目覚めようとしていた。
「オフィーリア」
背後でエリオットが名を呼んだ。
「無理をするな」
「大丈夫」
「大丈夫ではない顔をしている」
私は少しだけ笑った。
「では、支えてくれる?」
「もちろん」
エリオットが私の背に手を添えた。
その温かさに、震えていた体が少し落ち着く。
私は広場の中央へ進み出た。
そこには、大聖堂へ続く白い石段があった。四日前、私はその下で婚約を破棄された。黒い雪の中で、不吉だと罵られ、北を奪われかけた。
今、同じ場所に立つ。
私は両手を広げた。
「眠りなさい」
黒い雪が、降る。
ひとひら。
また、ひとひら。
やがてそれは吹雪となり、王都全体を包み込んだ。けれど誰も凍えなかった。黒雪は人を傷つけない。生きているものの温かさを避け、死に損なった影だけを探し当てる。
鐘楼に巣食っていた影が、悲鳴を上げて剥がれ落ちた。
貯水池に沈んでいた黒い霜が砕けた。
王城の地下へ伸びていた影の根が、雪に触れて細く縮み、やがて灰のように消えた。
黒い獣が吠えた。
その声は、地の底から響く鐘のようだった。広場の窓が割れ、人々が耳を塞ぐ。けれど私は目を逸らさなかった。
「北へお帰りなさい」
雪が渦を巻く。
黒い花弁のように、王都の空を埋め尽くす。
「眠りなさい」
黒雪が獣を包んだ。
黒い毛並みが凍り、裂けた口が閉じ、喉から突き出ていた魔鉱石がひとつ、またひとつと砕けていく。巨大な体は少しずつ小さくなり、やがて一片の黒い結晶となって、私の手のひらへ落ちた。
冷たい。
けれど、もう動かない。
その瞬間、東の空が白んだ。
四日目の夜明けだった。
王都の空から、影が消えた。
雲の裂け目から光が差す。
広場にいた人々が、息を呑んだ。
黒い雪が、光を受けて輝いていた。
それは闇の色ではなかった。
夜明け前の、もっとも深い青に近い色だった。
*
王都の混乱は、三日で収まった。
レオンハルト元王太子は、正式に廃位され、王位継承権を永久に剥奪された。表向きには北方離宮での静養とされたが、貴族たちは真実を知っている。彼が王位に近づくことは、もう二度とない。
セレスティア嬢は、聖女認定を剥奪され、貴族籍を失った。ルベール男爵家は爵位を返上し、領地は王家預かりとなった。彼女は北方修道院へ送られ、その癒やしの力を民の救護にのみ使うことを命じられた。社交界へ戻ることも、王宮へ出入りすることも、生涯許されない。
北嶺の魔鉱石採掘は禁じられた。
クロウベル領の自治権は強化され、北方騎士団は王都の命令系統から独立した。
そして黒雪姫という名は、王国の記録に新たな意味で刻まれた。
王都を救った北の守護者。
災いを眠らせる雪の姫。
もっとも、私はその呼び名をまだ好きにはなれなかった。
王都でのすべてを終え、北へ戻る朝。
大聖堂の鐘が鳴った。
四日前とは違い、空は晴れていた。白杏の花は半分ほど散ってしまったが、残った花びらは春の光を受けて柔らかく揺れていた。
城門の前には、国王陛下と貴族たちが並んでいた。
その中に、レオンハルト元殿下の姿もあった。
彼は以前より痩せたように見えた。華やかな金髪も、今日はどこか色褪せている。
「オフィーリア」
彼は私を呼んだ。
エリオットが一歩前に出ようとしたが、私は軽く手で制した。
「何でございましょう」
「私は、本当に間違っていたのだな」
「ええ」
元殿下は苦しげに笑った。
「君は、昔からそうだった。正しくて、冷たくて、私を責めるような目をしていた」
「殿下」
私は静かに言った。
「私は、殿下を責めたかったのではありません。国を守るために、そうあるしかなかったのです」
彼は黙った。
「あなたが私を嫌うのは自由です。けれど、嫌いな相手の言葉にも、聞くべきものはございます。それを聞けなかったことが、殿下の過ちです」
「……そうか」
彼は深く息を吐いた。
「君はもう、私のもとへは戻らないのだな」
「戻らない」
私が答えるより先に、エリオットが言った。
私は彼を見上げた。
「エリオット」
「当たり前だろう」
「そうだけど、私が言うことよ」
「すまない」
レオンハルト元殿下は、私たちを見て、ようやく何かを理解したようだった。
「そうか。君には、君を見る者がいたのだな」
私は何も答えなかった。
元殿下は一歩下がり、ぎこちなく頭を下げた。
「王都を救ってくれたこと、感謝する」
「王国の民を救ったまでです」
「それでも、感謝する。そして、申し訳なかった」
それが、私が聞いた最初で最後の、彼のまっすぐな謝罪だった。
私は礼を返し、馬車へ向かった。
城門を出ると、王都の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
北へ向かう道は、まだ長い。
けれど心は、来た時よりも軽かった。
*
それから一年後。
北嶺の麓には、小さな春が来ていた。
王都よりひと月遅い春である。雪解け水は谷川へ流れ、凍っていた土の隙間から、白い小さな花が顔を出す。花の名を、北の民は雪明かり草と呼ぶ。
黒雪がよく降った年ほど、その花は多く咲く。
王都の学者たちは不思議がったが、北の者たちは昔から知っていた。
黒雪は死を眠らせる。
眠った死の上に、春が来る。
私はその朝、丘の上に立っていた。
足元には、雪明かり草が揺れている。遠くにはクロウベルの館が見え、その向こうに北嶺が連なっていた。空は高く、冷たい青だった。
隣には、エリオットがいる。
「王都から贈り物が届いていた」
「何が届いたのかしら」
「黒雪姫へ、と書かれた銀の冠だ」
「倉庫へ」
「そう言うと思った」
エリオットは笑った。
「それと、国王陛下から書状がある。王都で黒雪祭を開きたいそうだ」
「黒雪祭」
「君の功績を称えるためらしい」
「お断りするわ」
「そう言うと思った」
私は少し考えた。
「ただし、北嶺の雪かきを終えた方々だけ、参加を許可するとお伝えして」
「王都の貴族が全滅するな」
「体力作りになるわ」
エリオットは声を立てて笑った。
その笑い声は、北の空によく響いた。
私は山を見上げる。
ふいに、黒い雪がひとひら落ちてきた。
春なのに。
空は晴れているのに。
けれど私は、もう怯えなかった。
掌を差し出すと、黒い雪はそこへ静かに降りた。冷たく、澄んでいて、夜の欠片のように美しかった。
「影が動いたのか」
エリオットが尋ねた。
「いいえ」
私は首を振った。
「これは、たぶん挨拶よ、北嶺からの」
雪はすぐに溶けた。
掌には、何も残らなかった。
けれど確かに、何かが変わっていた。
かつて私は、黒雪を呪いだと思っていた。
王都の人々も、そう呼んだ。
けれど呪いとは、誰かがそう名づけたものに過ぎないのかもしれない。
不吉と呼ばれても。
恐ろしいと遠ざけられても。
その奥に、誰かを守る力があるのなら。
それはきっと、祝福にもなれる。
「オフィーリア」
エリオットが私の名を呼ぶ。
「寒くないか」
「少し」
「戻ろう」
「ええ」
私は彼の差し出した手を取った。
丘を下りる途中、黒い雪がもう一度だけ舞った。
それはすぐに白い花の上へ落ち、朝の光を受けてきらめいた。
王都の者たちは、今でも私を黒雪姫と呼ぶ。
けれどその声に、もう恐れだけがあるわけではない。
北の民は、少し違う名で呼ぶ。
春を連れてくる姫、と。
黒い雪は今日も降る。
死を眠らせ、影を鎮め、守るべきものの上に静かに降る。
そして雪が解けたあとには、必ず春が来る。
たとえそれが、誰より遅い春であっても。




