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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第81話 “どう読むべきか”を返したあとで、彼女は初めて王城の向こうにいる人々まで想像した

 グレゴールの言葉は、便箋が持ち去られたあとも、しばらく閲覧室の中に残っていた。


 ――読む人ではなく、王城がどう読むべきかを返す人。


 アリアは机の前に座ったまま、静かにその響きを胸の中で反芻した。


 少し前までの自分なら、その言葉をまともに受け取れなかっただろう。

 買いかぶりだと思ったかもしれない。

 たまたま噛み合っただけだと、すぐに小さくしようとしたかもしれない。


 でも今は違う。


 違うと分かっているのに、それでも胸の奥が静かに熱くなる。

 嬉しいからというより、ようやく言葉が実感に追いついたからだ。


「少し、休みますか」


 レオンハルトの声は穏やかだった。


 アリアは顔を上げる。

 窓の外では、午後の光がさらに低くなっていた。いつの間にか長く伸びた影が、庭の石畳をゆっくり横切っている。


「……いえ、もう少しだけ」


「まだ見ますか」


「はい。でも」


 少しだけ言い淀んでから、正直に言う。


「今日は、少し違う気分です」


「どう違いますか」


 アリアは、広げたままの三問の紙へ目を落とした。


 人は残っているか。

 暫定接続は効くか。

 市場はまだ可逆域内か。


「今までは、帳簿の中の言葉と、こちらの机と、向こうの制度ばかり見ていた気がするのです」


「ええ」


「でも今は、その向こうでこの紙を読む人たちのことまで、少し想像できるようになってしまって」


 言葉にした瞬間、自分で少し驚いた。

 けれど、それが今の感覚にいちばん近かった。


 王城は机の集まりだ。

 整った文字と、綺麗な文書と、判断を下す人々のいる場所。

 そう思っていた。


 でも違う。

 いま自分が返している便箋は、誰かの手に渡る。

 夜のうちに読まれ、朝の会議で机の中央へ置かれ、誰かが眉を寄せ、誰かが異論を言い、誰かが“たしかに”と頷く。

 そういう、人のいる場所へ届いている。


「……不思議です」


 アリアは小さく笑う。


「今まで王城は、遠い建物のようにしか思えなかったのに」


 レオンハルトは少しだけ目を細めた。


「今は違う」


「はい。遠い建物ではなく、向こう側にも紙を前にして困ったり悩んだりしている人がいるのだと分かる」


 その認識は、妙に大きかった。


 制度は冷たい。

 王城は遠い。

 そう思っていた頃の方が、たぶん楽だった。

 でも今はもうそうではない。


 向こうにも人がいる。

 正しく読みたいのに読めない人。

 現場を知らずに均してしまった人。

 均しすぎた結果を、今ようやく戻そうとしている人。

 その人たちの机へ、自分は便箋を返している。


「それは、よい変化でしょう」


 レオンハルトが静かに言う。


「なぜですか」


「制度がただの壁に見えているうちは、壊すか、諦めるかしかなくなります」


 その言葉に、アリアははっとする。


「ですが、向こうに人がいると分かれば」


 彼は机上の紙へ視線を落とした。


「戻す、という選択が現実になる」


 戻す。


 その一語が、ひどく深く胸へ入った。


 そうだ。

 自分がいまやっているのは、まさにそれなのだ。

 壊すことでも、勝つことでも、覆すことでもない。

 止まっていたものを、戻すこと。

 順番を戻し、読み方を戻し、現場の息を戻し、制度が制度であるための条件を戻すこと。


 それは壁に向かってする仕事ではない。

 向こうにも人がいるからこそできる仕事だ。


 しばらくして、アリアは再び三冊目の帳簿を開いた。

 今度は新しい“見つける”ためではなく、どの記述が向こうの人の手でどう読まれるのかを想像しながら、ゆっくり頁をめくる。


 ――人足二日残し、呼び戻しに当てよ。


 この一行を、交通管理局の誰かはどう読むだろう。

 人数の管理として読むのか。

 それとも“再集合の核”として読むのか。


 ――二日痩せ許す。三日越えれば戻らず。


 これを読む政務調整局の誰かは、数字の閾値としてだけ見るのか。

 それとも、その向こうにある市の空気まで想像できるのか。


 ――橋直せど、人戻らねば道は痩せる。


 この一文を見た時、誰かは苛立つだろうか。

 綺麗に分類できないことを面倒に思うだろうか。

 それとも逆に、ようやく自分たちが見落としていた中心に触れたと感じるだろうか。


「……たぶん、両方ですね」


 思わず独り言が漏れる。


「何が」


 レオンハルトが問う。


「向こうの読み方です。すぐに分かる人と、たぶん最後まで抵抗する人と」


 彼は頷いた。


「ええ。どこの机でもそうでしょう」


「でも、今はそれでもいい気がします」


「なぜですか」


 アリアは帳簿を閉じ、静かに答える。


「前は、誰かが分かってくれなければ終わりだと思っていました。伯爵家でも、侯爵家でも。でも今は違う」


 便箋の控えを指先で軽く押さえる。


「向こうにいる人たち全員が同じ速さで分かる必要はないのだと思います。読める人の机へ届けば、そこから少しずつ戻せる」


 その言葉を口にした瞬間、自分でも不思議なくらい腑に落ちた。


 全員に分かってもらう必要はない。

 最初に読める人がいて、そこから表が変わり、見出しが変わり、順番が変われば、いずれ制度の読み方そのものが変わる。


 それは、婚約の中にいた頃には持てなかった感覚だった。

 あの頃は、誰か一人に分かってもらえなければ、自分の世界ごと終わるように感じていたから。


 いまは違う。

 紙は一人の手に届き、次の手へ渡り、会議を通り、表になり、見出しになる。

 その流れの中へ、自分の言葉はもう入っている。


「なら」


 レオンハルトが静かに言う。


「次に必要なのは、誰が最初に読めば動くか、も見えてくることでしょうね」


 アリアは目を瞬いた。


「そこまで、ですか」


「ええ。向こうの机に人が見えてきたのなら」


 彼は少しだけ口元を和らげた。


「どの人が何を起点に動くかも、そのうち見えてくるはずです」


 その言葉に、アリアはしばらく返事ができなかった。


 どの人が、何を起点に動くか。

 たしかに、それが見えるようになれば、自分の便箋はもっと正確に届くのかもしれない。


 フェリクス・ドーレンは、構造より整理の論理へ反応した。

 ザイスは、表の組み替えと基準の言い換えに強く動いた。

 合同整理会議は、“固定序列化を避ける読み方”に困っていた。

 そう考えれば、もうすでに少しずつ見え始めているのだ。


「……本当に、人のいる場所なのですね」


 ぽつりとそう言うと、レオンハルトはただ頷いた。


 その後、二人はしばらく何も言わなかった。


 必要がなかったからだ。

 帳簿も、紙も、王城からの返書も、いま自分たちがどこにいるかを十分に示していた。


 夕方近く、グレゴールが戻ってくる。

 今度は返書ではなく、向こうの試作統合表の新しい写しを持っていた。


「もう反映されています」


「え」


 アリアは思わず立ち上がりかけた。


 紙を受け取り、目を走らせる。

 そこには昨日までなかった変化があった。


 上段には、たしかに翌日接続条件。

 その下に、今朝返したばかりの三問が短く整えられて並んでいる。

 さらに三類型表の注記には、こうある。


 本類型は固定順位にあらず。毎回、翌日接続条件および追回可能性比較を先に照合すべし。


「……もう入ったのですか」


「ええ」


 グレゴールは答える。


「向こうは、今はとにかく止めずに組み替えている」


 その一言を聞きながら、アリアは静かに写しを撫でた。


 自分の返した読み方が、もう向こうの表の上段に入り、注記になり、会議で読む人の目に入る場所に置かれている。


 それは、思っていた以上に実感のあることだった。


 王城はもう、遠い建物ではない。

 自分の紙が届き、人が読み、書き直し、また返ってくる机の集まりだ。

 そしていま自分は、その流れの中で息をしている。


 それを、アリアははっきりと感じていた。

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