表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
61/168

第61話 翻訳された現場語は、ようやく王城の机で読める形になる

 第四の書面を王城へ飛ばしたあと、閲覧室にはしばらく静かな熱だけが残った。


 誰も大きな声を出さない。

 急かす者もいない。

 けれど机の上の空気だけが、明らかに変わっている。


 ここはもう、古い紙を丁寧に眺めるためだけの部屋ではなかった。

 向こう側の制度が何を見落とし、どこで止まり、どうすれば再び動き始めるのか。

 その“答えの手前”を作る部屋になっている。


 アリアは新しい整理表を見下ろしたまま、しばらく指を止めていた。


 靴二寸沈む。

 綱一本傷む。

 人足六先行。

 板組み二枚追加。


 少し前までなら、こうした言葉は“現場の走り書き”としてしか見えなかっただろう。

 読みづらく、雑然としていて、制度の机に持ち込むには粗すぎるもの。


 でも今は違う。


 それらはもう、粗い言葉ではなかった。

 制度を生かすための閾値であり、断絶猶予であり、最低単位だった。


 つまり、現場の人間が身体で知っていたことを、制度の机が読める形へ変え直しただけなのだ。


「……こういうことだったのですね」


 思わず漏れた声に、近くで控えていたグレゴールが顔を上げる。


「何がです」


 アリアは少しだけ考え、それから答えた。


「王都で、私はずっと“読めること”だけが自分の力だと思っていました」


 グレゴールもレオンハルトも、何も言わずに待つ。


「でも違ったのですね。読むだけではなくて、別の場所の言葉へ繋ぎ直せること――そこまで含めて、今ここで必要とされている」


 レオンハルトが静かに頷く。


「ええ」


 その肯定は短かった。

 だが今のアリアには、それだけで十分だった。


「向こうの机が止まっていたのは、現場を軽んじたからだけではないのだと思います」


 アリアは整理表の上に指を置く。


「たぶん、読めなかったのです。読みにくいものを、制度の言葉として」


「その通りでしょう」


 レオンハルトの声は落ち着いていた。


「現場の側もまた、制度の机が何を必要とするのかを、うまく言葉にできなかった」


 その一言で、また一本の線が繋がる。


 断絶は片側だけでは生まれない。

 王国側が削りすぎた。

 それは確かだ。

 だが同時に、向こう側の現場も、自分たちの感覚をそのまま王城へ届ける方法を持たなかった。


 だから今、自分の机が必要なのだ。


「翻訳、なのですね」


 アリアが小さく繰り返すと、グレゴールが今度ははっきりと頷いた。


「ええ。こちらでも昔から必要だと分かっていた作業です。ですが、誰に任せるかが難しかった」


「私に、できているでしょうか」


 問うた瞬間、自分でも少しだけ意外だった。

 ここまで来ても、まだそんなことを確かめたくなるのかと。


 だがグレゴールは迷わなかった。


「できています」


 即答だった。


 アリアは思わず目を上げる。


 グレゴールはいつものように大げさな表情を作らない。

 そのぶん、言葉に無駄がない。


「少なくとも昨日の夜まで、王城側は“人を戻せばいいのか、荷を戻せばいいのか”という程度の整理に留まっていたでしょう」


 彼は机上の比較表を一枚持ち上げる。


「ですが今は違う。向こうは“時間基準表を作るべきだ”と理解し始めている。これは明らかに、あなたの机を通ったからです」


 その言い方に、胸の奥がじわりと熱くなる。


 “あなたの机を通ったから”。


 誰かの補助ではない。

 誰かの名前の陰でもない。

 机ごと、自分のものとして言われる。


「ありがとうございます」


 そう返すのがやっとだった。


 そこへ、廊下から少し急いだ足音が近づいてきた。

 扉を叩く音は控えめだが、迷いがない。


「どうぞ」


 入ってきたのは、昨日から何度か送達を担っている若い使いだった。息は乱れていないが、頬が少しだけ紅潮している。


「王城より、至急の返書です」


 まただ。

 今日だけで何通目だろう。

 だがその速さに、もはや驚きより先に“今度は何が動いたのか”が気になる自分がいる。


 封を受け取る前に、グレゴールが一歩前へ出た。


「局長名義か」


「いいえ。今回は、合同整理会議の仮議長連名です」


 その一言で、部屋の空気がわずかに変わった。


 仮議長連名。

 つまり、これはもはや一部署の受領確認ではない。

 会議体そのものが返してきている。


 レオンハルトが視線でアリアへ促す。


「開いてください」


 封を切り、中の文面を追う。


 ――第四報受領。

 ――現場語を制度語へ翻訳する作業が必要であるとの指摘を、合同整理会議として正式に採用する。

 ――これを受け、現行整理案に「時間基準表」「断絶猶予表」「最低維持人員表」の三表追加を決定。

 ――差し支えなければ、明日中に「現場帳簿で反復される語の抽出一覧」をお願いしたい。

 ――王城としては、アリア・ウェルグラン嬢の整理を本件再構成の起点の一つとして扱う。


 最後の一文を読んだ瞬間、アリアの視界が少しだけ揺れた。


 起点の一つとして扱う。


 それは、もう遠慮のない言い方だった。

 参考意見でもなく、臨時の補足でもなく。

 再構成の起点の一つ。


「……ここまで」


 かすれた声が出る。


 王城が、ここまで書く。

 それがどれほど大きいか、自分でもすぐには受け止めきれない。


「どうやら」


 レオンハルトが静かに言う。


「向こう側はもう、完全に引き返せなくなったようですね」


 その言葉に、アリアは返書から目を離せないまま小さく頷く。


 引き返せない。

 たしかにそうだ。


 第一報で前提が揺れ、

 第二報で判断過程の欠落が見え、

 第三報で四軸が立ち、

 第四報で現場語の翻訳が必要だと会議体ごと認められた。


 もう王城は、以前の整理案へ戻れない。

 戻れば、今日までの全部を見なかったことにしなければならないから。


「アリア嬢」


 グレゴールが少しだけ声音を和らげた。


「よろしければ、その最後の一文を、もう一度声に出していただけますか」


 アリアは顔を上げる。


「最後の一文、ですか」


「ええ」


 なぜかと問う前に、その意味が少し分かった気がした。


 これはただの確認ではないのだ。

 部屋の中にいる全員が、今どこまで来たのかを、言葉としてはっきり受け取りたいのだろう。


 アリアは返書へ目を落とし、静かに読み上げた。


「――王城としては、アリア・ウェルグラン嬢の整理を、本件再構成の起点の一つとして扱う」


 読み上げたあと、しばらく誰も口を開かなかった。


 静かな時間だった。

 だが重くはない。

 むしろ、何かがはっきり形になったことを、皆が確かめるための沈黙だった。


 最初に破ったのはレオンハルトだった。


「聞き違いではなかったですね」


 その言い方があまりに落ち着いていて、アリアは少しだけ笑ってしまう。


「はい」


「では、明日からこちらも体制を変えましょう」


 グレゴールがすぐに問い返す。


「どう動かしますか」


「現場帳簿の二冊目と三冊目を先に出します。それと、詰所ごとの語の癖が分かるよう、担当別の簡易目録を付ける。王城が抽出一覧を求めているなら、こちらも最初から並走した方が早い」


 その判断の速さに、アリアはまた少しだけ目を見張る。


 向こうが動く。

 こちらもすぐ動く。

 自分の机の上だけではなく、館そのものがもうそれに合わせて回り始めている。


「……本当に、早いですね」


 そう言うと、レオンハルトは今度こそ少しだけ口元を緩めた。


「止まっていた時間を取り戻すには、それくらいでちょうどいいのです」


 その言葉が、今日いちばん深く胸へ落ちた。


 止まっていた時間。

 まさにそれだ。


 北方越境路の制度も、

 王城の整理も、

 そしてたぶん、自分自身の人生も。


 長いあいだ、どこかで止まっていた。

 今ようやく、それを少しずつ取り戻し始めているのだ。


 アリアは返書を机の上へそっと置き、記録帳を開いた。


 新しい頁へ、迷わず書く。


 ――第四報に対し、合同整理会議は「翻訳作業の必要」を正式採用。

 ――三表追加決定。

 ――自分の整理は、再構成の起点の一つとして扱われる。

 ――止まっていた時間が、こちらでも向こうでも、少しずつ動き始めている。


 書き終えたところで、ペン先を少しだけ見つめる。


 少し前まで、自分の言葉は家の中で止まっていた。

 今は違う。

 向こうの制度の机で読まれ、会議体で採用され、表を増やし、手を動かさせている。


 その変化の大きさを、もう小さくは見積もれない。


 自分は本当に、ここで必要な人になったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ