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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第27話 返答案に記された、彼女自身の名

 その日の夕方、伯爵家の執務室には再び紙が積み上がっていた。


 王城への控え、隣国公爵への返答案、侯爵家へ送る説明文の草案、そして北方越境路に関する補足資料。机の上は整っているのに、そこにある紙のすべてが、今までとは違う重みを持っているのが分かる。


 アリアは父ベルナールの向かいに座っていた。


 母マルグリットも同席している。

 そして今、三人の前には、ベルナールがまとめたばかりの返答案の草案が置かれていた。


 ――伯爵家として、貴国公爵閣下のご厚意に感謝する。

 ――王城との調整を前提に、アリア・ウェルグラン嬢の隣国訪問を前向きに検討したい。

 ――なお、訪問の趣旨は北方越境路旧協定に関する原本・草案群の照合および実務的意見交換に限定されるものとする。


 そこまで読んだところで、アリアの指先が止まった。


 アリア・ウェルグラン嬢。


 その名前が、返答案の中にきちんと書かれている。


 伯爵家の長女、ではない。

 婚約者、でもない。

 「家の者が確認する」でも、「こちらで精査する」でもない。


 自分の名だ。


 その事実だけで、胸の奥がじわりと熱を持つ。


 これまで何度も伯爵家から王城へ紙は出てきた。

 その中で実際に文を読み、意味を掘り起こし、繋げてきたのは自分だった。

 けれどそこに、名前が載ることはなかった。


 今、初めて違う。


「……お父様」


 アリアは小さく口を開いた。


「なにか」


「この返答案に、私の名を入れてくださったのですね」


 ベルナールは羽ペンを置き、少しだけ目を細めた。


「入れぬ方が不自然だろう」


 そっけない言い方だった。

 けれど、そのそっけなさの奥に、父なりの認識の変化があることは分かる。


 不自然なのだ。

 もう隠しておく方が。

 誰が動いているかを曖昧にする方が。


 その現実を、ベルナールもとうとう受け入れたのだろう。


 マルグリットが静かに言う。


「最初は、お父様も少し迷っていらしたのよ」


 ベルナールが軽く眉を寄せる。


「余計なことを言うな」


「でも本当でしょう?」


 母はためらわずに続けた。


「名前を出せば、もう後戻りはしにくくなるもの」


 その一言が、執務室の空気を少しだけ深くした。


 たしかにそうだ。

 名を載せるというのは、そういうことなのだろう。


 今までは伯爵家の内側に曖昧に含めておけばよかった。

 だが今回、返答案に「アリア・ウェルグラン」と明記されれば、少なくとも隣国も王城も、これを伯爵家の匿名の補助仕事としては扱えなくなる。


 それは彼女にとって大きな前進であると同時に、家にとってもまた、大きな決断だった。


「……それでも、入れるべきだと思ったのですね」


 アリアの問いに、ベルナールはしばらく黙った。


 やがて低く言う。


「今の流れで名を外せば、伯爵家の方がよほど不誠実に見える」


 実務的な返答だった。


 けれど、その実務的な返答の方が、今のアリアにはむしろ誠実に感じられる。


 父は急に情の深い人間になったわけではない。

 娘を溺愛し始めたわけでもない。

 ただ、現実を現実として認め始めている。


 それだけで十分とは言わない。

 けれど、ずっと無視されてきた者にとっては、それも大きい。


 アリアは返答案の続きを読む。


 文面は慎重だった。

 隣国への礼を尽くしつつ、王城との調整が必要であること、伯爵家として正式な訪問形態を整えたいこと、訪問の目的が実務にあることを、過不足なく伝えている。


 そして最後に、短い一文が添えられていた。


 ――なお、アリア・ウェルグラン嬢本人も、原本照合への参加を望んでいることを申し添える。


 そこを読んだ瞬間、アリアは再び息を止めた。


 本人も、望んでいる。


 それはつまり、伯爵家がこの返答案の中で、彼女自身の意思を公式に認めたということだ。


「これは……」


 声が少しだけ掠れる。


 マルグリットが静かに娘を見た。


「あなたがそう言ったからよ」


 アリアは母を見る。


「行きたい、と。見たい、と。自分の言葉で」


 母の声は落ち着いていたが、その奥にはまだ複雑な揺れがあった。

 それでも今は、前のようにその言葉を「聞かなかったこと」にはしていない。


「だから、返事にも書くべきだと思ったの」


 その一言に、アリアは何も言えなくなる。


 母が自分の意思を文章に残すべきだと言う日が来るなど、少し前の自分なら想像もしなかった。


「……ありがとうございます」


 ようやくそう言うと、ベルナールが咳払いをした。


「礼を言われるようなことではない。おまえの意思を記す以上、それに見合う覚悟を持て」


 その言葉は重かった。


 だがもう、怖いだけではない。

 覚悟という言葉が、自分にも向けられるようになったのだと、どこかで理解していた。


 伯爵家の長女として。

 婚約者として。

 ではなく、自分の名で動く者として。


「はい」


 アリアは静かに頷いた。


 その時、扉の外で足音が止まる。

 控えめなノック。


「旦那様、王城より使いが」


 使用人の声だ。


 ベルナールが短く答える。


「入れ」


 入ってきたのは、フェリクス・ドーレンだった。


 昨日のザイスに比べると若く、動きも軽い。だが今日はその顔に、いつも以上の緊張がある。


「失礼いたします。まだお話し中でしたか」


「構わん。用件は」


 ベルナールの問いに、フェリクスはアリアの方を一瞬だけ見てから言った。


「王城として、正式な暫定決定が出ました」


 その一言で、部屋の空気が張りつめる。


「アリア様の隣国訪問について、王城は『北方越境路旧協定整理に関わる臨時協力』として認める方向で動きます」


 マルグリットが小さく息を呑んだ。

 ベルナールの目つきが鋭くなる。


「正式決定ではなく、暫定か」


「はい。最終的な詰めは残っていますが、少なくとも“婚約中の伯爵令嬢の私的訪問”としては扱わない方針が固まりました」


 その言い回しに、アリアは静かに胸を打たれた。


 私的訪問ではない。

 つまり、誰かに会いに行く少女の気まぐれではなく、仕事として、整理のために、必要な人間が動くという扱いになる。


 それは、彼女が欲しかったものの一つでもあった。

 自分の行動に、自分以外の誰かの都合だけではない、ちゃんとした意味が与えられること。


 フェリクスはさらに続ける。


「ただし、侯爵家からはすでに異議が入っています」


 やはり、と思う。


「異議、ですか」


 アリアが問い返すと、フェリクスは少しだけ苦笑した。


「ええ。婚約者の身を危うい立場へ置くべきではない、という建前です」


 建前。

 わざわざそう言ったのは、フェリクス自身も本質を分かっているからだろう。


 アリアは返答案の紙へ視線を落とした。


 侯爵家は今、必死に止めようとしている。

 けれどその止め方が、「あなたを大切に思うから」ではなく、「婚約者として失うには惜しいから」に見えてしまうのが、何より致命的だった。


 フェリクスは机上の返答案に目を留めた。


「……これは」


「公爵閣下への伯爵家の返答案だ」


 ベルナールが答える。


 フェリクスは一礼してから、慎重に言った。


「失礼ながら、その文面に王城の暫定決定を添えれば、かなり形が整います」


 ベルナールが視線を細める。


「つまり」


「伯爵家の判断だけでなく、王城としても訪問の実務的意義を認めている、と示せるということです」


 それは大きかった。


 これで伯爵家だけが先走っているのではなくなる。

 侯爵家も、単に家の体面を理由に押し戻しにくくなる。

 隣国に対しても、伯爵家の長女一人の感情ではなく、ちゃんとした実務と調整の上に立つ訪問だと示せる。


 ベルナールは数秒だけ考え、それから頷いた。


「分かった。添える」


 その決断の早さに、アリアは少しだけ驚く。


 だが父は今、迷っている場合ではないと理解しているのだろう。

 侯爵家の異議が強くなる前に、伯爵家と王城の側で形を固めてしまう必要がある。


 フェリクスが一歩下がる。


「では、そのように整えます。正式文言は私どもで詰め、今夜中にはお持ちします」


 帰り際、彼はアリアへ向かって言った。


「おそらく、もう後には戻りません」


 その言葉は事務的に聞こえるのに、どこか優しかった。


 アリアは小さく頷く。


「はい」


 フェリクスが去ったあと、執務室にはまた沈黙が落ちる。


 だが今度の沈黙は、先ほどまでとは違った。

 迷いの沈黙ではない。

 何かが本当に決まり始めた時の、重い静けさだ。


 ベルナールが机上の紙を見つめながら言う。


「ここまで来ると、侯爵家も引けまい」


 マルグリットが低く答える。


「ええ。引けないでしょうね」


 その声音には複雑なものが滲んでいた。

 婚約を維持したい気持ちもある。

 だが娘をこのまま狭い枠へ押し戻すことは、もう無理だとも分かっている。


 アリアは自分の名が記された返答案を見つめた。


 そこにはもう、「静かな長女」としての余白はほとんど残っていない。

 伯爵家の中で都合よく役立つだけの位置から、一歩外へ出る文面になっている。


 王城の暫定決定が加われば、それはさらに明確になるだろう。


「お父様」


 アリアが静かに呼ぶ。


「なんだ」


「今さらかもしれませんけれど」


「何だ」


「ありがとうございます」


 ベルナールの目がわずかに動く。


「何に対してだ」


「私の名を外さなかったことに。私の意思を書いてくださったことに。そして、席に着かせてくださったことに」


 それはたぶん、ずっと前なら言えなかった礼だった。

 父に対して素直に感謝することも、同時に「それでも遅かった」と心のどこかで思うことも、両方を抱えて言葉にするのは難しかったから。


 今はそれができる。


 ベルナールは少しだけ視線を逸らし、それから低く言った。


「……まだ終わっておらん」


「はい」


「感謝されるようなことをしたつもりもない」


「それでもです」


 アリアがそう返すと、父はしばらく黙り、それから短く息を吐いた。


 それがたぶん、彼なりの受け取り方だった。


 マルグリットも静かに言う。


「あなたが自分の名で動くことを、私はまだ少し怖いと思っているわ」


 アリアは母を見る。


「でも」


 母はほんの少しだけ微笑んだ。

 寂しさを含んだ、弱い笑みだった。


「怖いからといって、もう止めるだけでは済まないのでしょうね」


 その言葉が、今の伯爵家のすべてを表しているように思えた。


 怖い。

 不安だ。

 でも、止めるだけでは済まない。


 アリアは深く息を吸った。


 もう都合よく静かではいられない。

 そしてそれは、きっと自分にとって悪いことではない。

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