第25話 静かな長女では、もういられない
その日の午後、アリアは久しぶりに古書庫の一番奥の棚を開けた。
いつも使う文机の周りには、最近の問い合わせに関わる帳簿や写本が積まれている。北方越境路、融雪期運用、交易補助協定、隣国側の保管写し――ここ数日のあわただしさの中心にあった紙ばかりだ。
けれど今日、彼女が手を伸ばしたのはそれらではなかった。
古書庫の北側、ほとんど誰も触らない高棚の下段。
そこに押し込まれているのは、伯爵家の私的な覚え書きや、昔の執事が残した雑記帳、そして今となっては目録にも載っていないような半端な紙束ばかりだ。
何を探しているのか、自分でもはっきりとは分かっていなかった。
ただ、父の「もうそうとは言い切れん」という言葉を聞いたあとで、どうしても一度、もっと古いものに触れたくなったのだ。
残る前提が崩れたのなら。
ここにある自分の時間を、もう一度見返したくなったのかもしれない。
薄い埃を払って束を取り出し、文机へ持っていく。
紐をほどくと、中から出てきたのは先代当主の頃の控え書きだった。会計の覚え、来客の雑感、使者の受け答え、そして時折、家の子どもたちに関する短い記述が混ざっている。
こういうものは、今の父も母もほとんど読まない。
記録としての価値が低いからだろう。
だがアリアは知っている。こういう「価値が低い」と見なされた紙ほど、その家の本音が残っていたりする。
頁を繰っていくと、見慣れた名前がいくつか出てきた。父ベルナールが若かった頃の失敗談。母マルグリットが嫁いできた日の印象。幼いセレナが高熱を出した時の騒ぎ。
そして、思いがけず自分の名前もあった。
――長女アリア、今日も書庫へ入り浸り。呼んでもなかなか出てこず。
――字を覚えるのが妙に早い。帳面を覗き込みたがる。
――幼いくせに古い綴りの違いを見つけて、書庫番を驚かせる。
そこで指が止まる。
「……こんな頃から」
小さく呟く。
ローベルトが少し離れた棚の整理をしていたが、声をかけずにいてくれた。
ありがたい。
今はまだ、この驚きを一人で受け止めたかった。
頁をめくる。
――長女はやはり変わっている。舞踏より、古い記録の綴じ紐に興味を示す。
――だが、書庫番いわく、読ませれば妙に勘が良いらしい。
――伯爵家の娘としてそれが役に立つかは分からぬが、変わった子である。
役に立つかは分からぬが。
その一文に、アリアはほんの少し苦く笑った。
昔からそうだったのだ。
自分の「読めること」は気づかれていた。
ただし、それはずっと「変わっている」「役に立つかは分からない」の棚へ置かれてきただけ。
つまり、今まで誰も本当に見ていなかったわけではない。
見えていても、それを家の価値の言葉へ翻訳しようとしなかったのだ。
それはある意味では、今さらの発見よりも少しだけ堪えた。
気づかれていなかったのではない。
軽く扱われていたのだ。
「お嬢様」
ローベルトがようやく静かに声をかけた。
「何かございましたか」
アリアは紙から目を離さずに答える。
「昔から、そうだったみたい」
「そう、とは」
「私が書庫にいることも、字を読むのが早かったことも、古い綴りの違いを見つけることも、皆どこかで知っていたの」
ローベルトはゆっくり近づいてきて、机の端へ目を落とした。
「先代の覚え書きでございますか」
「ええ」
「懐かしゅうございます」
その声音に、アリアは初めて顔を上げる。
「知っていたの?」
「はい。先代様は時折、お嬢様のことを面白がっておられました」
「面白がって……」
「『あの子は帳面の綴じ方まで見ている』と笑っておいででした」
アリアは少しだけ肩を落とした。
その「面白がる」が悪意ではなかったことは分かる。
けれど結局、それで終わっていたのだろうとも思う。
変わった子。面白い娘。字に強い。
でも、それだけ。
それをどう育てるか、どう生かすかまでは、誰も考えなかった。
「ねえ、ローベルト」
「はい」
「私、少し前まで『皆、全然見ていなかった』と思っていたの」
「はい」
「でも違うのね。見えてはいたのだわ。ただ、ちゃんと扱うほど大事だとは思われなかっただけ」
その言葉に、老執事はすぐには答えなかった。
しばらくしてから、静かに言う。
「厳しい言い方をなさるなら、そうなりますな」
「厳しいかしら」
「ですが、お嬢様がそのように思われるのも当然かと」
アリアは控え書きの上へそっと指を置いた。
今さら気づいた人たちがいる。
そしてもっと前から、薄く気づきながら、でもそのままにしてきた人たちもいた。
そう考えると、胸の奥にあった「悲しい」と「悔しい」が、少しだけ整理された気がした。
誰もまったく知らなかったわけではない。
ただ、それを「伯爵家の長女に必要なもの」だとは見なさなかった。
そのズレが、長いあいだ自分を静かな場所へ押し込めてきたのだ。
その時、古書庫の外から急ぎ足の音が近づいてきた。
マリーではない。
もっと乱れた、慌てた足音。
扉が叩かれる。
「お嬢様!」
今度は使用人の若い男の声だった。
「どうしたの」
「侯爵家より、再び使いが参っております。今度はお手紙ではなく……その、カイル様ご本人がお見えに」
アリアはローベルトと目を合わせた。
やはり来たか、という気持ちと、思ったより早い、という気持ちが同時に浮かぶ。
昨日の会談で、侯爵家は一度引いた。
けれど完全に引き下がるとは思っていなかった。
むしろカイルの方が、このまま黙っていられないだろうと予想していた。
「お父様は」
「旦那様は王城からの急使と話しておられます。カイル様は、その……アリア様とお話ししたいと」
ローベルトがわずかに眉を寄せる。
「お一人ででございますか」
「はい……そのように」
以前なら、伯爵家の誰もそれを疑問に思わなかっただろう。
婚約者同士なのだから、二人で話すことくらい珍しくない、と。
だが今は違う。
今この状況で、カイルが何を言いに来たのか。
そしてそれをアリア一人に向けて言おうとしていること自体、もう以前の「婚約者らしい会話」では済まない。
アリアはゆっくりと立ち上がった。
「ここで会うわ」
使用人の男が目を瞬く。
「応接室ではなく、でございますか」
「ええ。ここで」
そう答えながら、自分でも少し驚く。
でも、それが今いちばん自然に思えた。
応接室ではない。
父母の目の届く婚約者同士の席でもない。
古書庫。
自分が長く静かに積み重ねてきた場所で、今の彼と話したかった。
それが何を意味するのか、カイルにもきっと分かるだろう。
「かしこまりました」
使いの男が去ると、ローベルトが低く尋ねた。
「よろしいのですか」
「ええ」
「また、先日のような――」
「大丈夫よ」
アリアは静かに言う。
「たぶん彼は、確かめに来るのだと思うの」
「何を」
「私が本当に、この家を出る前提で動き始めているのかどうかを」
言葉にした瞬間、その通りだと自分で分かった。
カイルは今もまだ、どこかで信じていないのだろう。
自分が本気で行こうとしていることも、伯爵家の前提が崩れ始めていることも。
だからこそ、自分の目で確かめたくてここへ来たのだ。
しばらくして、扉の外で控えめなノックがした。
「……入ってください」
開いた扉の向こうに立っていたカイルは、昨日までより少しだけ疲れて見えた。
整った装いは崩れていない。だが顔色があまり良くない。目の下にかすかな影があり、いつもなら自然に取れているはずの姿勢が、今日はわずかに強張っていた。
古書庫の中へ足を踏み入れた瞬間、彼は明らかに居心地悪そうな顔をした。
それがおかしくて、アリアはほんの少しだけ心の中で笑う。
ずっと自分が馴染まない場所へ押し込められてきた。
今は立場が逆になっているのだ。
「話がある」
やはり開口一番、それだった。
「ええ」
「……ここでか」
「何か問題があるの?」
カイルは一瞬黙った。
問題がある、と言えば、自分がこの場所を軽んじていたことを認めることになる。
だから言えない。
「いや」
短くそう返し、彼は文机の向かいに立った。
「昨日のことだが」
「ええ」
「父上は、おそらく婚約をすぐには動かさない」
予想通りだった。
「そうでしょうね」
「だがそれは、安心しろという意味ではない」
アリアは静かに首を傾げる。
「何を言いたいの」
カイルの喉がわずかに動く。
その一拍の遅れに、彼が本気で言葉を選んでいるのが分かった。
「君は、今かなり危うい位置にいる」
またそれだ、とアリアは思う。
危うい。軽率。体面。
彼の中の語彙は、結局そこへ戻ってくる。
「危ういとは?」
「王城にも、隣国にも、侯爵家にも引かれている。そういう状況で、誰か一方へ強く傾けば、他がどう動くか分からない」
それ自体は、事実だった。
だからアリアは否定しない。
「ええ」
「だからこそ、君は自分が思うほど自由ではない」
その言葉に、アリアは少しだけ目を伏せた。
自由ではない。
たしかにそうだ。
伯爵家の娘で、婚約中で、王城の実務にも関わり始め、隣国から招かれている。
好きな場所へ好きなように行ける立場ではない。
でも、それをカイルが口にする時、そこには別の意図も混ざっている。
「自由ではないから、やめろと?」
静かに問い返すと、カイルは少しだけ言葉を詰まらせた。
「私は、君が無闇に危うい橋を渡る必要はないと言っている」
「でも私は、その橋の向こうを見たいの」
即答だった。
それが本音だからだ。
カイルの表情が歪む。
「なぜそこまで」
「見たいからよ」
アリアは彼をまっすぐ見た。
「自分の目で、原本と草案を。今までずっと切り落とされてきたものが、どう書かれていたのかを」
「そんなもの――」
「そんなもの?」
アリアの方が低く繰り返すと、カイルははっとしたように口を閉ざした。
その言い方が、彼自身にもまずいと分かったのだろう。
けれどもう遅い。
「あなたには、まだそう見えるのね」
アリアの声は静かだった。
「私がずっと大事にしてきたものが、まだ『そんなもの』に聞こえるのね」
カイルの顔色が変わる。
「違う。私はそういう意味で――」
「違わないわ」
そこで初めて、アリアは相手の言葉をはっきり遮った。
「あなたは今、焦っているだけ。私が外で評価されていることに。侯爵家が私を軽く扱えなくなったことに。婚約者として自分が思っていた位置から、私がずれ始めていることに」
カイルの指先が文机の縁を強く掴む。
図星だったのだろう。
それが見えるだけに、アリアの心は妙に静かだった。
「……君は変わった」
絞り出すような声で、カイルは言った。
「そうね」
「前はそんな言い方をしなかった」
「前は、言っても無駄だと思っていたもの」
その返答に、カイルは明らかに傷ついた顔をした。
その表情を見て、アリアはほんの少しだけ心が揺れる。
彼を哀れに思うわけではない。
ただ、今やっと自分が向き合わなかったものに向き合わされているのだと分かるからだ。
昔の自分も、たぶんこういう顔を何度もしていたのだろう。
ただし、その時は誰にも見てもらえなかっただけで。
「君は、私との婚約をどうしたいんだ」
その問いは、ようやく少しだけ本音に近かった。
体面でもなく、侯爵家の利益でもなく。
婚約者本人としての問い。
アリアはすぐには答えなかった。
どうしたいのか。
それはまだ、本当の意味では決めきれていない。
今すぐ破棄したいと叫ぶほど単純でもない。
でも、このままでいいとは、もう絶対に思えない。
「分からないわ」
正直にそう言う。
カイルがわずかに目を見開く。
「分からない?」
「ええ」
「君は、私を見限ったんじゃないのか」
その問いには、自嘲と焦りが入り混じっていた。
アリアは少し考え、それから答える。
「見限った、というより……」
言葉を選ぶ。
「今まで、ちゃんと向き合っていなかったのは、お互い様なのかもしれないと思っているの」
カイルが何も言わないので、アリアは続ける。
「でも私は今、自分が何を大事にしたいのかを知り始めている。だから、前みたいに婚約だけを先に置いて、自分を小さくすることはできない」
その言葉は、まっすぐ自分にも返ってきた。
そうだ。
もうできないのだ。
都合よく静かでいることも、婚約者の影に収まっていることも、自分の望みを後ろへ押しやることも。
カイルは長く黙っていた。
やがて、ひどく疲れた声で言う。
「私は……どうすればいい」
その問いに、アリアは少しだけ目を伏せた。
正直な問いだった。
おそらく彼自身、今初めて、本気で足場を失いかけているのだろう。
今まで自分が当然だと思ってきた婚約者像も、家としての流れも、じわじわと崩れ始めている。
だが、それに対する答えをアリアが与えるべきではない。
「それは、私が決めることではないわ」
静かにそう返す。
「あなたが考えることよ」
カイルはその言葉を受け止めきれないように、視線を逸らした。
そして数拍のあと、低く言った。
「……そうか」
それだけを残して、彼は古書庫を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
アリアはしばらくその場で動かなかった。
胸の奥には、奇妙な空白が残っていた。
勝ったとか、言い負かしたとか、そういう感覚ではない。
ただ、昔の形に戻る道が、また一つ消えたのだと分かる。
もう、都合よく静かではいられない。
自分も。
そして彼も。
少ししてローベルトが戻ってくる。
「終わられましたか」
「ええ」
「いかがでした」
アリアは小さく息を吐いた。
「たぶん、皆まだちゃんとは分かっていないの」
「何をでございますか」
「私が本当に変わったのではなくて、隠していられなくなっただけだってことを」
老執事は静かに頷いた。
「左様でございますな」
アリアは机の上の古い控え書きへ視線を戻す。
幼い頃から、ここにあった。
帳面の綴じ紐を見るのが好きで、綴りの違いを見つけ、古い文の意味を追いかけてきた時間。
それは急に生まれたものではない。
やっと今、周囲がそれを「ある」と認め始めただけなのだ。
そして、それはもう家の中だけで扱える大きさではなくなっている。




