第134話 セレナの告白
セレナ・ウェルグランは、鏡の前に座ったまま、しばらく動けずにいた。
侍女が髪を梳こうとしていたが、彼女が何も言わないので、部屋の中には櫛が絹布の上に置かれる小さな音だけが残った。
「お嬢様……?」
「少し、一人にして」
セレナがそう言うと、侍女は戸惑いながらも一礼して部屋を出ていった。
扉が閉まる。
途端に、部屋が広すぎるように感じた。
花柄の壁紙。母が選んだ薄桃色のカーテン。最新流行のドレスが掛けられた衣装掛け。宝石箱。香水瓶。飾りリボン。どれもセレナのために用意されたものだ。
ずっと、自分は愛されているのだと思っていた。
そのことを疑ったことはなかった。
父も母も、自分を見て笑ってくれた。カイルも優しかった。社交界では「ウェルグラン伯爵家の愛らしい妹君」と言われた。姉は地味で、自分は華やか。姉は書庫にいて、自分は夜会に出る。そういう役割なのだと、当たり前に思っていた。
けれど今、その全部が怖い。
もしその愛が、自分という人間ではなく、役割に向けられていたものだったら。
もし自分が、姉の場所を奪ったのではなく、姉を追い出すために都合よく飾られていただけだったら。
「……お姉様」
呟くと、胸が痛くなった。
アリアは、いつも静かだった。
怒鳴らない。泣き喚かない。文句も言わない。セレナが無邪気に失礼なことを言っても、淡く笑って受け流していた。
だから、平気なのだと思っていた。
違う。
平気だったのではない。
誰も聞かなかっただけだ。
セレナは立ち上がった。
このまま部屋にいても、何も変わらない。
カイルが隣国へ向かう。
姉を説得するために。
その知らせを聞いた時、真っ先に浮かんだのは不安だった。彼が姉を取り戻すかもしれないという不安ではない。
彼が、また姉を傷つけるかもしれないという不安。
それに気づいた時、セレナは初めて、自分の心がどこへ向いているのかを知った。
彼女は部屋を出ると、父の執務室へ向かった。
廊下の途中で母とすれ違う。
「セレナ、どこへ行くの? 午後には仕立屋が来るのよ」
「お父様のところへ」
「今は大事な話をしているはずよ。邪魔をしては――」
「大事な話だから行くのです」
母が目を見開いた。
セレナは自分でも驚いた。こんなふうに母の言葉を遮ったことなど、ほとんどない。
けれど足は止まらなかった。
執務室の扉の前で、彼女は一度だけ深く息を吸う。
中から父ベルナールの声が聞こえた。
「ローデン侯爵家が動く以上、こちらも合わせるしかない。カイル殿がアリアを説得できれば、話は早い」
その言葉を聞いた瞬間、セレナはノックも忘れて扉を開けていた。
「お父様、それは間違っています」
室内にいた父と母、そして家令が一斉に振り向いた。
ベルナールの顔が険しくなる。
「セレナ。入室の作法を忘れたか」
「申し訳ありません。でも、聞こえてしまいました」
「ならば下がりなさい。これは家の話だ」
「だから言います。お姉様を連れ戻すのは、間違っています」
言い切った。
声は少し震えていたが、最後まで消えなかった。
父はしばらく娘を見つめていた。まるで、目の前にいるのが本当に自分の娘なのか確かめているような目だった。
「おまえまで、何を言い出す」
「お姉様は、ようやく必要とされる場所にいるのです。今さら戻れと言っても、お姉様が苦しむだけです」
「家族が家へ戻ることの何が悪い」
「家族なら、どうして今までお姉様を見なかったのですか」
母が息を呑んだ。
セレナも、言った瞬間に胸が痛んだ。
それは父母だけに向けた言葉ではない。自分にも向けた言葉だった。
「私も見ていませんでした。お姉様が何をしていたのか、何を言われて傷ついていたのか、何も知らなかった。知ろうともしませんでした」
「セレナ、あなたは悪くないわ」
母が慌てたように言う。
その言葉に、セレナは首を振った。
「悪くないことにしないでください。そうやってずっと、お姉様だけが我慢してきたんです」
部屋の空気が変わった。
母の顔から血の気が引く。
父は低い声で言った。
「アリアは伯爵家の娘だ。家のために動くのは当然だ」
「お姉様は、道具ではありません」
その言葉は、思っていた以上に強く響いた。
父の表情が固まる。
セレナは、もう止まれなかった。
「お父様も、お母様も、カイル様も、王国の方々も、みんなお姉様を必要だと言います。でも、それはお姉様が苦しんできたことへの謝罪ではありません。ただ、また働いてほしいと言っているだけです」
「……セレナ」
「お姉様は、戻らなくていいと思います」
言い終えた瞬間、涙がこぼれそうになった。
けれど泣かなかった。
泣いてしまえば、自分が可哀想な妹になってしまう。それは違う。可哀想だったのは、ずっと姉の方だった。
ベルナールは長い沈黙のあと、机に置かれたアリアの控えを見た。
そこには、娘が残した細かな目録が積まれている。
「……おまえは、アリアが戻らなければいいと言うのか」
「はい」
「伯爵家が困ってもか」
「困るのは、今までお姉様に頼っていたからです」
父は言い返さなかった。
母も黙っている。
セレナは胸の前で手を握った。
「私は、お姉様に謝りたいです。でも、謝るために戻ってきてほしいとは思いません。お姉様が息をできる場所にいるなら、そこにいてほしいです」
ようやく、言えた。
本当はもっと早く言うべきだった言葉。
姉がまだこの屋敷にいた頃に。
婚約者を奪うような真似をしてしまう前に。
姉が隣国へ行く前に。
それでも、今言わなければ、また同じことが繰り返される気がした。
父は疲れたように椅子へ腰を落とした。
「……下がりなさい」
「お父様」
「考える時間がいる」
それは拒絶ではなかった。
少なくとも、完全な拒絶では。
セレナは深く頭を下げた。
「失礼いたします」
執務室を出ると、廊下の空気がやけに冷たかった。
けれど、心は少しだけ軽かった。
何かを正せたわけではない。
姉を傷つけた過去が消えたわけでもない。
それでも、初めて姉のために、誰かに逆らった。
その事実だけが、今のセレナを支えていた。
部屋へ戻る途中、彼女は窓の外を見た。
雨が降り始めている。
細く、静かな雨だった。
カイルはこの雨の中、隣国へ向かう準備をしているのだろうか。
セレナは胸元を握りしめる。
「カイル様……お願いだから、これ以上お姉様を傷つけないで」
その願いが届かないことを、彼女はどこかで分かっていた。
だからこそ、机に向かった。
便箋を取り出し、ペンを握る。
宛先は、アリア。
けれど書き出しで手が止まった。
何と書けばいいのか分からない。
ごめんなさい。
その一言では足りない。
でも、それ以外に始める言葉もない。
セレナは震える手で、最初の一行を書いた。
――お姉様へ。今さらですが、謝らせてください。
インクが紙に染み込んでいく。
それは、彼女が初めて自分の罪を文字にする瞬間だった。




