第113話 アリア、道へ出るか机に残るか迷う
その夜、アリアはなかなか記録帳を閉じられなかった。
閲覧室の灯りは、すでに半分落とされている。
中央机に積まれていた旧案の束も、商人聞き取りの紙も、道守り帳簿も、それぞれの場所へ戻された。フェリクスも自室へ下がり、グレゴールも最後の確認を終えて部屋を出ている。
残っているのは、アリアの机の小さな灯りだけだった。
机の右上には、木札がある。
現地照合担当 アリア・ウェルグラン
その文字を見ていると、胸の中に二つの気持ちが同時に湧く。
ひとつは、道へ出たいという気持ち。
帳簿で読んできた言葉。
晴れの翌日に道は泣く。
渡し場に火が残れば、人は戻る。
道は板ではなく、人の声で通る日がある。
それらが実際の景色の中でどう現れるのか、自分の目で見たい。
リゼットがどんな顔で荷を積み、フェリクスがどんな顔で泥道へ足を踏み入れ、道守りたちがどの瞬間に進むと判断するのか。
見たい。
それは、理屈ではなく、胸の奥から出てくる欲だった。
もうひとつは、机に残るべきではないかという気持ち。
初回往復は、リゼットの道だ。
彼女が最初に行き、戻り、その言葉で次を動かす。
そこへ貴族令嬢であり、王城公式記録に名が載ったアリアが同行したらどうなるか。
人々は、道を見るだろうか。
リゼットを見るだろうか。
それとも、“あの照合担当令嬢が同行した”という話ばかりを見るだろうか。
もしそうなれば、初回往復の意味がずれる。
アリアは記録帳に、何度も同じような言葉を書きかけては止めた。
――見たい。
――でも、見に行くことが正しいとは限らない。
――私が行けば、リゼット様の一歩が、私の物語に吸われてしまうかもしれない。
そこまで書いた時、扉が軽く叩かれた。
「まだ起きていましたか」
レオンハルトだった。
アリアは少しだけ姿勢を正す。
「はい。少し、考えていました」
「同行のことですね」
「分かりますか」
「顔に出ています」
思いがけない言い方に、アリアは小さく笑った。
「マリーにも似たようなことを言われました」
「なら、よほどです」
レオンハルトは机のそばまで来たが、椅子には座らなかった。
ただ、アリアの記録帳へ視線を落とすでもなく、少し離れた場所で立っている。
その距離がありがたかった。
「見たいですか」
彼が問う。
アリアは迷わず頷いた。
「はい」
「では、なぜ迷うのです」
まっすぐな問いだった。
アリアは少しだけ息を吸う。
「私が行くことで、道より私の話になってしまうかもしれません」
言葉にすると、はっきりした。
「リゼット様は、自分の店と、若手商人たちと、第二往復のために行くのだと思います。そこへ私が同行したら、彼女が最初に戻る意味が薄くなるかもしれない」
「あなたが目立つから?」
「はい」
自分で言うのは少し落ち着かなかったが、今は避けるべきではない。
「王城の公式記録にも名前が入りました。伯爵家や侯爵家の件もあります。私が道へ出れば、それはそれで別の意味を持ってしまいます」
「ええ」
「でも、見たいんです」
最後の言葉は、思っていたより幼く響いた。
アリアは少し恥ずかしくなり、目を伏せる。
「帳簿の言葉を、自分の目で確かめたい。自分が書いたものが道の上でどうなるのかを見たい。フェリクス様やリゼット様だけに見てもらうのが、怖い気持ちもあります」
そこまで言うと、自分の中の本音がもう一つ見えた。
「……いえ、違いますね」
「何がですか」
「信じきれていないのかもしれません」
レオンハルトは黙って待つ。
「私が見なければ、本当に拾われるのか。私がいなければ、削られずに戻ってくるのか。そう思ってしまっている」
言ってから、胸が少し痛んだ。
フェリクスは行く覚悟を決めた。
リゼットも、自分の店を背負って最初の道へ出る。
道守りたちも、現場の判断をする。
それなのに自分は、彼らに託すことを怖がっている。
レオンハルトは、そこで初めて椅子を引いて座った。
「それは悪いことではありません」
「そうでしょうか」
「ええ。自分が見た方が確かだと思うのは、責任を持ってきた人間なら自然なことです」
その言葉に、アリアは少し救われた。
「ですが」
彼は静かに続けた。
「いつかは、誰かの目を信じなければならない時が来ます」
アリアは顔を上げる。
「誰かの目を」
「はい。制度は、一人の目だけでは動きません。あなたが見つけ、フェリクスが見て、リゼットが戻って語り、道守りが判断し、商人が次の荷を出す」
レオンハルトは机の上の木札を見た。
「あなたの仕事は、全部を自分で見ることではないでしょう」
アリアは答えられなかった。
その通りだった。
現地照合担当とは、自分ひとりで全てを見る役ではない。
立場の違う人々が見たものを同じ紙の上へ戻し、意味が削られないように整える役だ。
ならば、自分が行かないことでしか成立しない照合もあるのかもしれない。
「……私が机に残ることにも、意味がありますか」
「あります」
レオンハルトは即答した。
「初回往復の最中も、王城から文は来ます。組合からも報告が来る。天候が変われば判断が必要になる。戻ってきた時、記録を受け取る机が空であっては困る」
「受け取る机」
「ええ」
その言葉は、静かに胸へ入った。
見に行く人がいる。
戻ってくる人がいる。
なら、それを受け取る人も必要なのだ。
自分が同行すれば、確かに直接見られる。
だが、そのあいだ机は空く。
戻ってきた言葉をすぐに整理し、王城へ返し、第二往復へつなぐ準備が遅れる。
初回往復は、出発だけでは終わらない。
戻ってきた言葉がどう動くかまでが初回往復。
それを自分で書いたのだ。
ならば自分は、戻ってきた言葉を受け取る場所にいるべきなのかもしれない。
「……私は」
アリアはゆっくり言った。
「行きません」
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
でも、その痛みは間違いではない気がした。
「見たいです。とても。でも、今回の初回往復はリゼット様のものです。フェリクス様が王城の目として行き、リゼット様が商人の顔として戻る。その意味を薄めたくありません」
レオンハルトは静かに頷いた。
「ええ」
「私は、机に残ります。戻ってきた言葉を受け取るために」
そう言うと、ようやく胸の奥にあった二つの気持ちが、同じ場所に収まった気がした。
行かないことは、逃げではない。
見たい気持ちを諦めるだけでもない。
机に残るという選択なのだ。
「よい判断だと思います」
レオンハルトが言う。
アリアは少しだけ笑った。
「甘くありませんか」
「必要以上には」
「では、少しは甘いのですね」
「それくらいは許してください」
その返しに、アリアは思わず笑ってしまった。
重かった空気が、少しだけほどける。
翌朝、アリアはフェリクスにその決定を伝えた。
彼は出発準備用の紙を整理していた。
昨日用意された泥道用の靴が、椅子の横に置かれている。王城の革靴とは比べものにならないほど無骨で、フェリクスはそれをまだ少し不審そうに見ていた。
「私は同行しません」
アリアが言うと、フェリクスは顔を上げた。
「そうですか」
「はい」
「少し、残念です」
「すみません」
「いえ。正直に言えば、少し安心もしています」
アリアは瞬いた。
「安心?」
「あなたが同行すれば、たぶん私はあなたの判断を待ってしまいます」
フェリクスは苦笑した。
「道の上でまで、それではいけない。私は、王城確認役として自分の目で見なければならない」
アリアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「そう言っていただけると、机に残る意味があります」
「戻ってきたら、全部渡します」
「はい」
「ただ、全部うまく書ける自信はありません」
「大丈夫です。うまく書く必要はありません」
アリアは机の上から一枚の紙を取った。
昨夜のうちに整えておいたものだ。
初回往復観察票
フェリクスへ渡す。
「見たまま、聞いたまま、迷ったままを書いてください」
「迷ったまま?」
「はい。迷いも必要です。なぜその場で判断できなかったのか、何が分からなかったのか。それも戻ってきた時に大事になります」
フェリクスは紙を受け取り、しばらく見つめた。
「王城では、迷いはあまり記録しません」
「だから、ここでは記録してください」
「分かりました」
彼は観察票を丁寧に折り、書類入れへ入れた。
「迷ったまま、ですね」
「はい」
そのあと、リゼットが隣国館へ来た。
出発は明日。
今日は最終確認のためだ。
彼女は昨日より少し動きやすそうな服装だった。髪もさらにきっちりまとめられ、腰には小さな革袋を提げている。
「アリア様は同行されないんですね」
リゼットは、開口一番そう言った。
アリアは少し驚いた。
「聞いていたのですか」
「ハインツさんから、可能性があるかもって」
「そうでしたか」
「正直に言うと、来るかと思っていました」
「私も、行きたいと思っていました」
「今は?」
「机に残ると決めました」
リゼットは、じっとアリアを見た。
「どうしてですか」
その問いには、遠慮がなかった。
アリアは、かえって答えやすかった。
「あなたの初回往復だからです」
リゼットの表情が、少しだけ変わる。
「私の?」
「はい。あなたが行って、あなたが戻り、あなたの言葉で次の人を動かす。その道に、私が余計な意味を乗せたくありません」
リゼットはしばらく黙った。
それから、少し困ったように笑う。
「……そういう言い方をされると、緊張しますね」
「すみません」
「でも、嫌じゃありません」
彼女は机の上の観察項目に目を落とした。
「戻ってきたら、ちゃんと聞いてくれますか」
「もちろんです」
「疲れていても、泥だらけでも、言葉がまとまっていなくても?」
「一言も落としません」
アリアがそう答えると、リゼットは満足したように頷いた。
「なら、行ってきます」
その言葉は、まだ出発前なのに、もう道の上へ片足を置いているようだった。
最終確認は淡々と進んだ。
荷は干し果物、布見本、薬草袋。
荷量は軽め。
出発時刻は朝。
ただし道守りの判断で、橋の手前で待機する可能性あり。
フェリクスは記録役兼王城確認役。
道守り二名、人足三名。
帰還後は、隣国館で即時聞き取り。
全てを確認したあと、グレゴールが最後に言った。
「初回往復は、成功か失敗かを決めるためだけのものではありません」
リゼットが頷く。
「条件を持ち帰るため、ですよね」
「ええ」
フェリクスも静かに続けた。
「通れたかどうかではなく、いつ、誰が、何を、どの順で通せるかを見る」
「分かっています」
リゼットは少しだけ笑った。
「商人は、全部を覚えられない時は、いちばん損しそうなところだけは覚えますから」
「頼もしいですね」
アリアが言うと、リゼットは肩をすくめた。
「損をしない商人はいません。損の場所を間違えない商人が残るだけです」
その言葉も、アリアは記録したくなった。
だが今は、書くより先に聞いた。
夕方、リゼットとフェリクスがそれぞれ準備へ戻ったあと、閲覧室はまた静かになった。
アリアは自分の机に座り、明日のための受け取り用紙を整えた。
帰還後第一声
通れた条件
通れなかった条件
誰が反応したか
第二往復候補
王城へ即時送るべき語
それらを並べているうちに、胸の奥は少しずつ落ち着いていった。
自分は行かない。
けれど、何もしないわけではない。
戻ってくる言葉の場所を作る。
それが明日の自分の仕事だ。
夜、記録帳に書く。
――同行しないと決めた。
――見たい気持ちは消えない。
――でも、見に行かないことも選択になる。
――リゼット様の道を、リゼット様のものにするため。
――フェリクス様が、自分の目で見るため。
――私は、戻ってきた言葉を受け取る机に残る。
最後に、少しだけ間を空けて書き足した。
――机に残ることも、道へ出ることと同じくらい怖い。
ペンを置くと、窓の外はすっかり夜だった。
明日、初回往復隊が出発する。
アリアは灯りを消す前に、自分の机の木札へそっと指を触れた。
現地照合担当。
この机で、待つ。
ただ待つのではない。
受け取るために、待つ。




