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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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110/115

第110話 最初に道を戻るのは、若い女性商人だった

 リゼット・マルタンが隣国館に来たのは、翌日の昼前だった。


 朝から空は薄く曇っていた。雨が降るほどではないが、太陽の光は弱く、庭の石畳もどこか湿った色をしている。融雪期の道を思わせる空だ、とアリアは窓の外を見ながら思った。


 濡れているわけではない。

 けれど、乾いているとも言い切れない。


 今の北方越境路も、きっとそういう状態なのだろう。

 通れないわけではない。

 だが、通れると言い切るには、まだ誰かの足が足りない。


 その“誰か”が、今日ここへ来る。


「緊張されていますか」


 マリーが茶器を置きながら尋ねた。


 アリアは少しだけ考え、正直に頷いた。


「しているわ」


「珍しいですね。最近のお嬢様は、緊張していてもあまり顔に出されませんのに」


「今日は顔に出ている?」


「少し」


 マリーはそう言って、微笑んだ。


「でも、悪いお顔ではありません」


「どういう顔?」


「誰かの言葉をちゃんと受け止める前のお顔です」


 その言い方が妙に正確で、アリアは小さく笑った。


「マリーは時々、私より私のことをよく見ているわね」


「お側にいますので」


 当然のように返されて、アリアは返事に困った。


 けれど、確かにそうだ。

 自分は今、リゼットという商人を“初回往復候補者”として見るだけではいけない。

 その人がなぜ行くと言ったのか。

 何を背負っているのか。

 その言葉を受け止めなければならない。


 制度の欄に入れる前に、人として会わなければならない。


 扉の外で、足音がした。


 ハインツの低い声。

 それに続いて、軽いが迷いのない足音。


 ノックが響く。


「どうぞ」


 グレゴールが応じると、扉が開いた。


 最初に入ってきたのはハインツだった。

 その後ろから、一人の若い女性が姿を見せる。


 リゼット・マルタン。


 年齢は聞いていた通り、二十代前半に見えた。

 濃い栗色の髪を後ろで束ね、動きやすそうな濃紺の上着を着ている。華やかな装いではない。けれど、生地は丈夫で、袖口や襟元の手入れは行き届いていた。


 顔立ちは整っているが、それ以上に目が強い。


 人の顔色を窺う目ではない。

 相手の言葉を値踏みする目でもない。

 ただ、自分がここへ来た理由を分かっている人間の目だった。


「リゼット・マルタンです」


 彼女はきちんと礼をした。


「お時間をいただき、ありがとうございます」


 声は澄んでいた。

 必要以上に緊張していない。

 だが、平気なふりをしているわけでもない。


 アリアも立ち上がり、礼を返した。


「アリア・ウェルグランです。今日は来てくださってありがとうございます」


「こちらこそ。正直に言うと、こんな立派な館に呼ばれるとは思っていませんでした」


 リゼットはそう言って、少しだけ肩を竦めた。


「商人組合の部屋で、もっとざっくり聞かれるものかと」


 その言い方に、場の空気が少し緩む。


 グレゴールが低く言った。


「ざっくり聞いて済む話ではありませんのでな」


「それは、そうですね」


 リゼットはすぐに真顔へ戻った。


 アリアは彼女を椅子へ案内した。

 中央机ではなく、少し小さめの打ち合わせ机。

 向かい合うにはちょうどよい距離だ。


 レオンハルト、グレゴール、フェリクス、ハインツも同席する。

 ただし、最初に口を開いたのはアリアだった。


「まず確認させてください。初回往復へ名乗り出たのは、組合から頼まれたからですか」


「いいえ」


 リゼットは即答した。


「止められました。少なくとも、最初は」


「止められた?」


「若い、女だ、店を継いだばかりだ、失敗すれば店ごと潰れる。理由はいくらでもありました」


 淡々とした口調だった。

 けれど、その言葉の裏に何度も聞かされたであろう苛立ちがある。


「それでも、行くと」


「はい」


「なぜですか」


 アリアの問いに、リゼットはすぐには答えなかった。


 窓の方を一瞬見る。

 その先に道があるわけではない。けれど彼女の目は、明らかに遠い道を見ていた。


「父の店を継いで、二年になります」


 リゼットは静かに話し始めた。


「父は北方越境路を使う商人でした。大きい店じゃありません。けれど、あの道が動いていれば、春先に細い荷を何度か通して、夏まで何とかつなげた」


 細い荷。


 その言葉に、アリアの指がわずかに動いた。

 帳簿にも、何度も出てきた語だ。


「でも、道が止まってから、荷主が別のところへ流れ始めました。うちだけじゃありません。若手の商人は、皆そうです。大きい商会なら待てます。でも小さい店は、待っているうちに痩せるんです」


 待っているうちに痩せる。


 昨日聞いた言葉と、ほとんど同じだった。

 アリアは記録帳を開いたが、すぐには書かなかった。


 今は、まず聞くべきだと思った。


「だから、最初に行く必要があると?」


「はい」


 リゼットは頷いた。


「誰かが行って、戻ってこないと、皆ずっと待ちます。待っているうちに、“もうあの道は駄目だ”という顔になる」


「顔、ですか」


「はい。商人は、数字だけで動いているように見えるでしょう?」


 リゼットは少しだけ笑った。


「でも実際は、顔を見ています。あの人が行ったなら行けるかもしれない。あの人が戻ったなら出してみよう。あの人が黙ったなら、やめておこう。そういうものです」


 フェリクスが小さく息を吐いた。


「初回の荷は、重さより顔で選べ……」


 リゼットが彼を見る。


「それ、誰が言いました?」


「聞き取り記録に」


「うちの組合長かもしれません。よく言いますから」


 ハインツが苦笑した。


「たぶん私です」


「ですよね」


 リゼットはあっさり言って、またアリアへ向き直った。


「私が行けば、少なくとも若い商人たちは見ます」


「なぜ、あなたなら見るのですか」


「私がいま、いちばん中途半端だからです」


 その答えは、思いがけないものだった。


 アリアは聞き返す。


「中途半端?」


「はい。大商会の跡取りではありません。昔からの重鎮でもありません。でも、父の代から北方越境路を使っていて、若手の間には顔が利く。年寄りたちは私を危なっかしいと思っていますけど、若い店主たちは、私がどう動くかを見ています」


 リゼットは自嘲ではなく、事実として言った。


「だから、私が戻れば、“あのくらいの店でも戻れるのか”と思う人が出ます」


 アリアは、そこで初めてペンを取った。


 ――初回往復者は、大商会の代表者である必要はない。

 ――むしろ、後続が自分を重ねられる者の方が、第二往復を生みやすい可能性あり。


 書きながら、胸の奥に静かな手応えがあった。


 王城なら、初回往復者に最も安全で、最も信頼の厚い大商会の代表を選びたがるかもしれない。

 それは間違いではない。

 だが、第二往復を生むという意味では、リゼットのような存在の方が強い場合がある。


 後続が、自分にもできるかもしれないと思えるからだ。


「損をする可能性があります」


 グレゴールが低く言った。


 リゼットは彼を見た。


「ありますね」


「荷が傷むかもしれない。予定より戻りが遅れるかもしれない。店にとっても危険です」


「分かっています」


「それでも?」


「損をしないから行くんじゃありません」


 リゼットの声は、そこで少しだけ強くなった。


「損をしても、戻ってきた言葉に値段がつくから行くんです」


 部屋が静かになった。


 アリアはペンを持つ手を止めた。


 戻ってきた言葉に値段がつく。


 その一文は、制度語にはしにくい。

 だが、初回往復の本質そのものだった。


 リゼットは続ける。


「私が行って、戻って、“昼なら行ける”とか、“細荷なら大丈夫”とか、“橋の手前で待つな”とか、そう言えたら、その言葉で次の荷が動きます。荷で損をしても、言葉で取り返せるかもしれない」


「言葉で、取り返す」


「はい。商売って、物だけじゃありませんから」


 アリアは、その言葉を記録した。


 ――初回往復の価値は荷の収支だけで測れない。

 ――帰還後の言葉が市場内で信用を持ち、第二往復を生む場合、その言葉自体が価値を持つ。

 ――初回往復補助は、物損補填だけでなく“言葉の流通”を支える設計が必要。


 フェリクスが横から覗き込み、低く言う。


「王城文書には、そのまま入れにくいですね」


「でも、入れなければなりません」


 アリアは即答した。


 リゼットが少し笑う。


「入れにくいことを言ってしまいましたか」


「いいえ」


 アリアは顔を上げた。


「とても大事なことを聞きました」


 リゼットは一瞬だけ、意外そうに目を瞬いた。


 その表情が、少しだけ若く見えた。


「……そうですか」


「はい」


 しばらくして、グレゴールが具体的な確認へ移った。


「同行人数は最小限。道守り二名、王城確認役一名、補助人足数名。荷は細荷を中心。日程はまだ仮。あなたとしては、どの荷を出すつもりですか」


「干し果物と布見本、それから薬草袋を少し」


「重くはないですね」


「初回に重い荷を出す意味はありません。戻って見せる方が先です」


「店への損は」


「あります。でも、全損しても店が終わる量ではありません」


 淡々と答える。


 無謀ではない。

 アリアはそのことに少し安心した。


 リゼットは勇敢だ。

 だが、ただ勢いで名乗り出たわけではない。


 自分の店の限界も、組合内での立場も、荷の種類も、戻った後に言うべき言葉も、ある程度考えている。


「怖くはありませんか」


 アリアは、気づけばそう尋ねていた。


 少し場違いな問いだったかもしれない。

 けれど、聞かずにはいられなかった。


 リゼットはすぐには答えなかった。


 そして、小さく笑った。


「怖くないと言ったら嘘です」


「……そうですか」


「でも、待っている方が怖いです」


 その答えに、アリアは胸の奥を静かに掴まれた気がした。


「待っている方が?」


「はい。道が戻るかもしれない、戻らないかもしれない。王城が何か決めるかもしれない、決めないかもしれない。誰かが行くかもしれない、行かないかもしれない。そうやって待っている間に、店の棚が空いていく方が、私は怖い」


 リゼットは机の上の紙を見る。


「だから、行きます。行って戻れば、少なくとも次に何を待てばいいか分かる」


 アリアは、ペンを握りしめた。


 分かる。

 その感覚が分かってしまった。


 伯爵家の中で待っていた自分。

 婚約がどうなるかを待ち、誰かが気づいてくれるのを待ち、自分の机が広い場所へ出るのを待っていた自分。


 けれど、待つだけでは何も変わらなかった。


 自分も、ある日歩き出した。

 王城へ、そして隣国館へ。


 リゼットの行く道とは違う。

 けれど、最初に動く怖さは、少し分かる気がした。


「分かりました」


 アリアは静かに言った。


「今日のお話をもとに、初回往復者としてあなたを立てる理由を整理します」


「通りますか」


「王城は、難色を示すかもしれません」


 隠さずに言うと、リゼットは少しだけ肩を竦めた。


「若い女だから?」


「おそらく、それもあります」


「でしょうね」


 怒るでもなく、彼女はそう言った。


「慣れています」


 その一言が、かえって重かった。


 アリアは少しだけ身を乗り出した。


「慣れなくていいことだと思います」


 リゼットは目を瞬いた。


 ハインツも、フェリクスも、少しだけ驚いたようにアリアを見た。


 アリア自身も、言ってから胸が鳴った。


 でも、撤回する気にはならなかった。


「慣れてしまうと、それが当たり前になります。少なくとも、今回の理由からは外します」


「理由から?」


「はい。あなたが若い女性だから危うい、ではなく、リゼット・マルタンだから初回往復の顔になりうる。そう書きます」


 リゼットはしばらく何も言わなかった。


 やがて、少しだけ目を伏せる。


「……それなら、嬉しいです」


 声は小さかった。


 けれど、その一言はアリアの胸に残った。


 面談が終わり、リゼットがハインツとともに退室したあと、閲覧室にはしばらく静かな余韻が残った。


 フェリクスが最初に口を開く。


「王城は、やはり確認を求めるでしょう」


「はい」


 グレゴールも頷く。


「安全、責任、政治的な見え方。特に失敗時の扱い」


「分かっています」


 アリアは新しい紙を引き寄せた。


 見出しを書く。


 初回往復者リゼット・マルタン起用理由


 その下に、項目を並べる。


 ――北境商人組合の若手商人層に顔が利く。

 ――大商会ではなく中小商人層の後続を引き出しやすい。

 ――父の代から北方越境路を使用しており、道への実務知識がある。

 ――初回荷を損失許容範囲に抑える判断ができる。

 ――帰還後の言葉が第二往復候補者へ届く可能性が高い。

 ――“待つ側”から“戻る側”へ商人心理を動かす顔になりうる。


 そこまで書いて、アリアはリゼットの言葉をもう一つ、別枠で残した。


 本人発言:損をしないから行くのではない。損をしても、戻ってきた言葉に値段がつくから行く。


 フェリクスが、それを見て眉を寄せる。


「その発言、王城へそのまま出しますか」


「出します」


「通りにくいですよ」


「分かっています。でも、この言葉を削ると、彼女がなぜ行くのか分からなくなります」


 フェリクスはしばらく黙ったあと、苦笑した。


「二段併記ですね」


「はい」


 アリアも少しだけ笑う。


「制度語もつけます」


 その下へ書く。


 制度語:初回往復者の帰還後証言は、第二往復を誘発する信用資産として扱うべきである。


 フェリクスはその一文を読み、頷いた。


「これなら王城も読めます」


「でも、現場語も残します」


「でしょうね」


 グレゴールが低く言った。


「その二つが並ぶのが、今のこの机らしい」


 アリアは自分の机の木札を見た。


 現地照合担当。

 その役目が、少しずつ自分の中へ馴染んでいく。


 ただ読むだけではない。

 人の言葉を制度へ通す。

 制度へ通すために、削らず、曲げず、けれど通る形へ整える。


 それが今、自分の仕事になっている。


 夕方、王城へ送る初回往復者候補の報告文がまとまった。


 アリアは最後に、短く添えた。


 ――リゼット・マルタンの起用は、属性による象徴起用ではなく、第二往復を誘発しうる信用波及力に基づく実務判断である。

 ――若年女性商人であることを危険要素としてのみ扱うのではなく、若手商人層への到達力として評価すべきである。


 書き終えた時、フェリクスが静かに言った。


「王城は少し揺れますね」


「揺れるでしょうね」


「それでも送る」


「はい」


 アリアは迷わず頷いた。


「揺れない文だけ送っていたら、きっと何も変わりません」


 その言葉に、レオンハルトが少しだけ目を細めた。


「強くなりましたね」


 アリアは、少し考えてから首を振った。


「たぶん、前より正直になっただけです」


 そう言うと、マリーが部屋の端で小さく笑った。


 アリアもつられて少し笑う。


 封書が閉じられ、王城へ送られる。


 その背を見送りながら、アリアは記録帳へ書いた。


 ――リゼット・マルタン。

 ――若い女性商人。父の店を継いで二年。

 ――待っている方が怖い、と言った。

 ――損をしても、戻ってきた言葉に値段がつくから行く、と言った。


 最後に、少しだけ間を置いて書き足す。


 ――最初に動く人は、いつも少し震えている。けれど、その震えごと道を開く。


 窓の外では、曇り空の向こうにかすかな夕明かりが見えた。


 明日には、王城から返答が来るだろう。

 揺れるかもしれない。

 難色を示されるかもしれない。


 それでも、アリアはもう分かっていた。


 最初の一往復には、顔がいる。

 そして今、その顔は確かにリゼット・マルタンなのだ。

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