第107話 王城の帰還派にも、悪意だけではない理由があった
クラウス・ベルナーという名は、アリアの中で少しずつ重みを変えていた。
最初に聞いた時は、王城内の帰還派の中心人物だった。
現地照合を続けたいアリアにとっては、遠くから机を動かそうとする相手。
王都へ戻せば体面が整うと考える、中央の文官。
そういう輪郭で見えていた。
けれど昨日、フェリクスの口から別の事実を聞いた。
旧案作成時、現場語を残そうとしていた人物。
“現場語は不正確なのではなく、急所が違うだけだ”と言った人物。
そして、その主張を王城の中で通せなかった人物。
同じ名なのに、まるで違って見える。
朝、アリアは自分の机で、前日に書いた記録帳をもう一度読み返していた。
――王城の誰かも、現場語を惜しんでいた。
その一文が、妙に目に残る。
敵ではない。
けれど、味方と呼ぶにはまだ分からない。
同じものを惜しんだ人が、なぜ今、自分を王都へ戻そうとしているのか。
そこを見ないまま、帰還派という札だけで片づけてはいけない。
「少し、気になりますか」
フェリクスが声をかけてきた。
彼は自分の席で旧案の束を揃えているところだった。
昨日よりも表情はやわらかいが、目元にはまだ疲れが残っている。
「ベルナー様のことですか」
「はい」
「気になります」
アリアは正直に答えた。
「昨日のお話を聞く前と後では、まるで見え方が違いますから」
フェリクスは一度、旧案の背を撫でた。
「ベルナー殿は、分かりにくい方です」
「怖い方ですか」
「怖いというより……厳しい方です」
少し考えて、フェリクスは言い直した。
「人にも厳しいですが、自分の失敗にも厳しい。だから近くにいると、時々息が詰まります」
その言い方が妙に実感を伴っていたので、アリアは少しだけ笑ってしまった。
「フェリクス様がそう仰ると、よほどですね」
「私も大概、息が詰まる方だと言われますからね」
「ご自覚はあるのですね」
「あります。王城の記録管理局に長くいると、だいたいそうなります」
思いがけず軽い返事に、部屋の空気が少し和んだ。
グレゴールが中央机の向こうで低く咳払いをする。
「雑談としては興味深いですが、ベルナー殿の話は重要です」
「はい」
フェリクスは姿勢を戻した。
「彼がなぜ帰還派なのか、私にも完全には分かりません。ただ、ひとつだけ言えることがあります」
「何でしょう」
「彼は、あなたの仕事を軽んじているわけではありません」
アリアは黙った。
それは、薄々分かり始めていたことだった。
けれど、フェリクスの口からはっきり言われると、やはり胸の奥で何かが動く。
「では、なぜ王都へ戻すべきだと?」
「守るため、だと思います」
「守る」
その語に、アリアはわずかに反応した。
守る。
それは、聞こえのよい言葉だ。
だが、彼女にとっては少し警戒すべき言葉でもあった。
伯爵家も、自分を守るという名目で家の奥に置こうとした。
侯爵家も、婚約者として穏当に整えることを、たぶん守ることだと思っていた。
守るという言葉は、時に人を狭い場所へ置く。
フェリクスは、その反応に気づいたようだった。
「もちろん、あなたが嫌う意味の“守る”かもしれません」
率直な言い方だった。
「ですが、ベルナー殿の場合は少し違う気もします。旧案の時、彼は現場語を守れなかった。そのせいで、必要なものが削られたことを知っている。だから今度は、あなた自身が削られることを恐れているのかもしれません」
「私自身が、削られる」
アリアは小さく繰り返した。
「ええ」
フェリクスは頷く。
「隣国館にいる限り、あなたの位置は強くもあり、危うくもあります。王城の正式な職掌ではない。伯爵家の中にもいない。侯爵家の婚約者でもない。今は実務上必要だから誰も軽く扱えませんが、政治の都合が変われば、扱い方も変わる」
言われて、アリアは反論できなかった。
それは、たしかに事実だ。
自分の今の位置は、自由だ。
だからこそ、現地語を拾える。
王城の癖も読める。
隣国館という少し外れた場所にいるから、中央の整い方に飲まれずに済んでいる。
だが、それは同時に曖昧でもある。
曖昧な場所にいる人間は、必要な時には便利に呼ばれ、都合が悪くなれば外へ置かれることもある。
その危うさを、ベルナーは見ているのかもしれない。
「ベルナー殿は、王城の中に席を作れば、あなたの仕事を制度で守れると考えているのではないかと思います」
フェリクスは続けた。
「職掌として定義され、席があり、権限があり、記録が残る。そうすれば、誰かの都合で簡単に消されない」
アリアは自分の机に置かれた木札を見た。
現地照合担当 アリア・ウェルグラン
ここには確かに役目がある。
だが、王城の正式職掌ではない。
フェリクスの言うことも、分からなくはなかった。
「……厄介ですね」
アリアが呟くと、グレゴールが短く笑った。
「分かってきましたか」
「はい」
「悪意だけなら楽なのです」
グレゴールの言葉は、少し乾いていた。
「悪意なら退ければいい。怠慢なら正せばいい。ですが、守ろうとしている相手とは、ちゃんと話さなければなりません」
その通りだった。
相手がただ自分を王都へ戻して整えたいだけなら、実務上の理由で反論できる。
だが、もしベルナーが本当に“仕事を守るための席”を考えているなら、こちらもそれを理解したうえで返さなければならない。
その時、扉が叩かれた。
いつもより少し早い調子だった。
「どうぞ」
入ってきた書記官の手には、王城からの封書があった。
「合同整理会議経由です。ただし、個別意見書が同封されています」
アリアは、すぐに誰からか分かった。
「ベルナー様ですね」
書記官は少し驚いたように顔を上げ、それから頷いた。
「はい。クラウス・ベルナー殿からです」
部屋の空気が、静かに張った。
アリアは封書を受け取る。
封は厚くない。
しかし丁寧に閉じられていた。
差出人の字は、鋭いが乱れていない。
いかにも王城の古い文官らしい筆跡だった。
封を切る。
まず合同整理会議からの添え状があった。
その下に、ベルナー本人の意見書が入っている。
アリアはゆっくり読み始めた。
――現地照合担当アリア・ウェルグラン殿の継続意思および現地側見解について、受領した。
――貴殿の照合結果が北方越境路融雪期試験運用案の形成に不可欠であることについては、私も異論を持たない。
――また、現地語・商人証言・道守り帳簿の保持が現段階で重要であることも認める。
思っていたより、ずっと柔らかい入りだった。
アリアは少しだけ息を止め、続きを追う。
――しかし同時に、貴殿の現在の位置は制度上きわめて脆い。
――王城外にあり、伯爵家外にあり、かつ隣国館に席を持つという状況は、現段階では機能しているが、長期的には政治的利用・責任所在の曖昧化・成果の吸収を招く危険がある。
――過去、現場語は“扱いづらい”という理由で削られた。
――同じように、貴殿自身もまた“扱いやすい役割”へ削られる危険がある。
その一文で、アリアは目を止めた。
貴殿自身もまた、“扱いやすい役割”へ削られる危険がある。
それは、先ほどフェリクスが言ったこととほとんど同じだった。
胸の奥が、静かに揺れる。
この人は、本当に自分を閉じ込めようとしているだけではない。
少なくとも、そう単純には言えない。
さらに読む。
――よって私は、将来的には王城内に正式な照合席を設け、貴殿の職務・権限・記録上の位置を明文化すべきと考える。
――それは貴殿を中央に吸収するためではなく、貴殿が拾ったものを中央の都合で薄めさせないための枠である。
――ただし、現時点での帰還時期については、貴殿および現地側から提示された実務上の懸念を踏まえ、再検討の余地を認める。
アリアは最後の行まで読んで、しばらく文書を置けなかった。
優しい文、というのとは違う。
文体は硬い。
言葉も鋭い。
だがそこには、確かに“守ろうとする理屈”があった。
それは伯爵家の守り方とは違う。
家に閉じるのではない。
王城の中に職掌を作り、削られない位置を与えようとしている。
その発想そのものは、アリアにも理解できた。
「……思っていたより、ずっと」
アリアが言いかけて、言葉を探す。
「優しかったですか」
フェリクスが問う。
「優しい、というより」
アリアは意見書を見下ろした。
「怖いほど現実的でした」
フェリクスは小さく頷いた。
「ベルナー殿らしい」
レオンハルトが、静かに言った。
「彼は、あなたの選択を否定しているのではなく、あなたの選択が制度の中で削られない形を考えているようですね」
「はい」
アリアは頷く。
「でも、それでも」
「今すぐ戻る理由にはならない」
「はい」
そこは変わらなかった。
ベルナーの理屈は理解できる。
いずれ王城内に席を持つ必要があることも、アリアは認められる。
だが今ではない。
今はまだ、現地に残らなければ拾えないものがある。
商人の声も、消された現場語も、旧案担当者の痛みも、王城からは見えにくい。
アリアは意見書を丁寧に折り、机の上に置いた。
「返事を書きます」
グレゴールが頷く。
「すぐに?」
「はい。ただ、反論ではなく」
アリアは少しだけ考えてから言った。
「お礼と、説明を」
フェリクスが静かに顔を上げた。
「ベルナー殿は、その方が読むと思います」
アリアは便箋を引き寄せたが、すぐには書き始めなかった。
まず、心の中で整理する。
守ることと、閉じることは似ている。
けれど同じではない。
伯爵家は、自分を守るために狭い場所へ置いた。
ベルナーは、自分の仕事を守るために制度上の席を作ろうとしている。
どちらも“守る”だ。
けれど、そこには大きな違いがある。
そして、自分が今選ぶべきなのは、そのどちらも否定せず、自分の職務を一番守れる場所を選ぶことだ。
アリアは、ようやくペンを取った。
最初の一行は、自然に出た。
――意見書、拝読いたしました。
――私の現在位置の脆さ、および将来的に職務・権限・記録上の位置を明文化する必要について、ご指摘の通りと受け止めます。
フェリクスが横から少し驚いたように見る。
「最初に認めるのですね」
「はい」
「珍しい返し方です」
「敵ではないのでしょう?」
アリアが言うと、フェリクスは少しだけ笑った。
「たぶん」
アリアは続けて書く。
――ただし、現時点で中央へ戻ることは、草案そのものを守るうえで早いと考えます。
――現在の草案は、消された現場語の復元、制度語との二段併記、商人証言、再集合確認期、第二往復設計をなお取り込み中であり、中央文書化の圧力にさらされる前に、現地で語の位置を定める必要があります。
――従って、現地継続は王城から逃れるためではなく、将来王城内に正式な席を持つ時に、そこへ持ち込むべき語を守るための期間であると考えます。
そこまで書いた時、アリアは少し手を止めた。
自分でも、この一文が大事だと分かった。
現地に残ることは、王城を拒むことではない。
むしろ、いつか王城へ入るかもしれない時のために、持っていくべきものを確定する時間なのだ。
その考えは、今までより少し前へ進んでいた。
王城へ戻らない。
そう決めたばかりの時は、その一点が強かった。
だが今は違う。
戻らないのは、永遠に王城と距離を取るためではない。
戻るとしても、削られないものを持って戻るためだ。
アリアは最後にこう書いた。
――守ることと閉じることは、時に似ます。
――私は、閉じられることなく守られる形を、今後も考えたいと思います。
――そのためにも、まず現地でしか拾えないものを、失われない形に整えます。
書き終えたあと、部屋にはしばらく沈黙が落ちた。
レオンハルトが便箋を読み、静かに頷く。
「よい返書です」
「反論になっていませんか」
「なっていません。対話になっています」
その言葉に、アリアは少しだけほっとした。
対話。
今までは、反論や補足や修正が多かった。
けれどこれは、初めて王城内の別の思想に対して、自分の立場を返す文かもしれない。
フェリクスが便箋を見て、ぽつりと言った。
「ベルナー殿は、たぶん少し黙ります」
「怒りますか」
「いいえ」
フェリクスは首を振る。
「考えます」
その答えが妙に確かだったので、アリアは小さく笑った。
「それなら、よかったです」
封が閉じられ、王城へ送られる。
アリアはベルナーの意見書を自分の記録帳に挟んだ。
帰還派。
その言葉は、もう単純な敵の色をしていない。
守ろうとする人がいる。
閉じようとする人もいる。
守るつもりで閉じてしまう人もいる。
そして自分は、その中で、自分の仕事をどこでなら失わずにいられるかを選ばなければならない。
それは少し難しい。
けれど、以前のように怖いだけではなかった。
アリアは記録帳へ一行だけ書いた。
――悪意だけで向かってくる人ばかりではない。だから、言葉を雑にしてはいけない。
書き終えて、彼女はペンを置く。
窓の外では、雲の切れ間から細い光が差していた。
王城の帰還派にも、悪意だけではない理由があった。
そのことを知った日、アリアはまた少しだけ、制度の中の人間を読むようになっていた。




