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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第101話 伯爵家・侯爵家・王城、三方の視線がアリアへ集まり始める

 王城の公式記録に、アリア・ウェルグランの名が編入された。


 その事実は、紙の上では静かだった。

 けれど静かな紙ほど、王都では遠くまで届く。


 翌日、王城の政務調整局では、朝からいつもより多くの人間が出入りしていた。


 机の上に置かれているのは、北方越境路融雪期試験運用案第一稿。

 その横には、照合担当アリア・ウェルグランの抽出・補注・修正意見をまとめた基礎照合記録。

 さらに、伯爵家と侯爵家へ共有された公式控えの写し。


 それらが並んだだけで、会議室の空気は変わっていた。


 誰も大声を上げてはいない。

 しかし誰もが分かっている。


 これはもう、ひとりの令嬢が少し珍しい才を示した、という話ではない。


 王城が作っていた仮案を破棄させ、新草案の骨を作らせ、試験運用案の読み方まで変えた人物がいる。

 その人物は伯爵家の娘で、つい先日まで侯爵家の婚約者だった。


 しかも今は、隣国館にいる。


 その位置が、問題を複雑にしていた。


「王城へ戻すべきです」


 会議室の一角で、文官のひとりが言った。


 語調は強すぎない。

 だが、明確だった。


「公式記録へ編入された以上、これ以上“現地照合担当”という曖昧な位置のままにしておくのは、後々面倒を生みます。中央に置き、王城の職掌内で扱うべきです」


「職掌内で扱う、ですか」


 交通管理局のザイスは、紙から顔を上げずに問い返した。


「その“扱う”という発想が、今まさに危ういのです」


「しかし、伯爵家と侯爵家への説明も必要でしょう。貴族令嬢をいつまでも隣国館に留める形は、政治的に美しくありません」


「美しいかどうかで、道は動きません」


 ザイスの声は淡々としていた。

 だが、会議室の空気がわずかに固くなる。


「北方越境路の件で、我々が何度失敗しかけたか忘れましたか。代表者一名。通行税免除のみ。初回往復後の即時一般再開。いずれも、現地照合がなければ、そのまま通りかけていた」


 文官は口を閉じた。


 言い返せない。

 実際、その通りだったからだ。


 王城は変わった。

 だが、変わった直後でも、まだ何度も均しかけた。

 そのたびに、隣国館から届いた紙が、王城の手を止めた。


 再集合確認期。

 第二往復。

 最小循環。

 人足再集合核。

 往還可能性。


 王城の机だけでは、そこまで届かなかった。


「私は、いずれ中央へ戻すこと自体を否定しているわけではありません」


 ザイスは続けた。


「だが、今ではない。少なくとも第一試験運用案の現地再確認が終わるまでは、あの方を机から引き剥がすべきではない」


「“あの方”ですか」


 誰かが小さく呟いた。


 以前なら、同じ場でアリアの名が出ても、“ウェルグラン伯爵家の令嬢”と言われただろう。

 あるいは“アルヴェーン侯爵家の元婚約者”と。


 だが今、ザイスは自然に“あの方”と言った。

 それは地位への敬意ではない。

 仕事への敬意だった。


 その変化は小さく、しかし確実に王城内へ広がり始めていた。


 一方、ウェルグラン伯爵家では、朝食の席がいつになく静かだった。


 伯爵はいつも通り食卓についている。

 夫人も向かいに座っている。

 銀器も皿も、いつもと変わらない。


 だが、その脇に置かれた王城公式控えの写しが、いつもの朝を別物にしていた。


「王城内で、帰還案も出ているそうだ」


 伯爵が低く言った。


 夫人は紅茶を置く。


「でしょうね」


「驚かないのか」


「驚きません。あの子の仕事が文書に残った以上、誰も放っておけなくなります」


 伯爵は黙った。


 放っておけない。

 それは良い意味だけではない。


 家としては誇らしい。

 王城公式記録に娘の名が入ったのだ。

 それも飾りではなく、実務の中核として。


 だが同時に、家の外からの視線も増える。

 なぜこれほどの才を家の内に置いていたのか。

 なぜ侯爵家との婚約が白紙になったのか。

 伯爵家は彼女をどう扱っていたのか。


 そういう問いが、いずれ必ず出る。


「……家の格を保たねばならん」


 伯爵は言った。


 夫人は静かに夫を見た。


「その言葉を使うなら、今までとは意味を変えた方がよいと思います」


「どういうことだ」


「家の格を保つとは、あの子を呼び戻して囲い直すことではありません」


 夫人の声は穏やかだった。

 だが、言葉ははっきりしている。


「王城が必要としている仕事を妨げず、あの子が自分の名で果たしている務めを、家として支えることです」


 伯爵は眉を寄せた。


 反射的に反論しそうになる。

 だが、言葉が出なかった。


 それはたぶん、夫人の言葉が正しいからだ。


 もし今、伯爵家が体面のためにアリアを呼び戻そうとすれば、王城の仕事を邪魔する家になる。

 逆に、静かに支えれば、王城の根本条件改稿に関わる娘を出した家として、別の格が立つ。


 伯爵は初めて、“家のためにアリアを使う”のではなく、アリアの務めを邪魔しないことが家を守るのだと理解し始めていた。


「……難しいな」


 漏れた声は、以前より少し弱かった。


 夫人は微笑まなかった。

 ただ静かに頷く。


「ええ。でも、ようやく難しいところまで来たのだと思います」


 その言い方に、伯爵はまた沈黙した。


 難しいところ。

 確かにそうだ。


 娘を家の奥に置いておくのは簡単だった。

 婚約者として整えるのも簡単だった。

 価値を家の都合に合わせて小さく見積もるのも、簡単だった。


 今は違う。

 娘の価値が、家の想定より外へ出た。

 だから、父である自分も変わらなければならない。


 同じ頃、アルヴェーン侯爵家では、ユリウスが公式控えをもう一度読み返していた。


 机の上には、二つの紙が並んでいる。


 王城の公式控え。

 そして、彼自身が書いた、誰にも送らない紙。


 ――私は、アリアの静かさを、従順さだと思っていた。

 ――私は、彼女が黙っている時、何も考えていないのではなく、私より深く読んでいるのだと考えたことがなかった。

 ――私は、婚約者を失ったのではない。先に、彼女を見る機会を自分で捨てていた。


 ユリウスはその紙から目を離し、王城の控えへ戻る。


 そこには、アリアの役割が整然と並んでいた。


 現場語保持。

 再平滑化防止。

 最小循環保持条件抽出。

 初回往復設計補助。

 再集合確認期の提案。


 彼女は、黙っていただけではなかった。

 何も求めなかったわけではなかった。

 ただ、自分が聞かなかっただけだ。


 扉が叩かれる。


「入れ」


 エルンストだった。


「旦那様より、午後に王城からの追加照会があれば侯爵家として対応するようにとのことです」


「分かった」


 エルンストは一礼したが、すぐには下がらなかった。


「何かあるのか」


「……差し出がましいことを申し上げてもよろしいでしょうか」


 ユリウスは少しだけ眉を動かした。


「言え」


「王城がアリア様を中央へ戻す案を検討していると聞きました」


「耳が早いな」


「侯爵家にも関わることですので」


 ユリウスは苦く笑った。


 そうだ。

 アリアが王都へ戻れば、侯爵家との距離も問題になる。

 元婚約者。

 白紙になった関係。

 そして今、王城に必要不可欠な照合担当。


 どこに置いても、誰かの思惑に触れる。


「戻ってきた方がよいと思うか」


 ユリウスが問うと、エルンストはすぐには答えなかった。


「実務としては、まだ現地の方がよろしいのではないかと」


「お前もそう思うのか」


「はい」


「なぜ」


「王城へ戻れば、アリア様はまた多くの視線に囲まれます。伯爵家、侯爵家、王城内の派閥。それらが、あの方の机を取り囲むでしょう」


 ユリウスは黙る。


 エルンストは続けた。


「今のあの方に必要なのは、取り囲まれることではなく、見たものを最後まで返せる机ではないかと」


 その言葉に、ユリウスの胸が鈍く痛んだ。


 見たものを最後まで返せる机。


 それを、自分は用意したことがあっただろうか。

 侯爵家の婚約者として、彼女にそういう場所を渡そうとしたことが。


 ない。


 自分は、彼女を自分の隣へ置くことしか考えていなかった。

 彼女自身の机が、どこにあれば広がるのかなど、一度も考えなかった。


「……そうだな」


 ユリウスは低く言った。


「戻ってくるべきではない。少なくとも、今は」


 口にした瞬間、また胸が痛む。


 戻ってほしくないわけではない。

 いや、違う。

 正確には、戻ってくることを望む資格が、今の自分にはない。


 彼女が今いる場所でしかできない仕事があるのなら、そこにいるべきだ。

 自分の後悔のために、そこから引き剥がすことはできない。


 エルンストは深く頭を下げた。


「そのようにお考えなら、いずれ侯爵様にもお伝えすべきかと」


「……そうだな」


 ユリウスは王城の公式控えを閉じた。


 胸の奥はまだ重い。

 だが、少しだけ分かったことがある。


 後悔しているからといって、相手を引き戻してよいわけではない。

 自分が失ったものを理解し始めたからこそ、相手が今いる場所を尊重しなければならない。


 それが、今の自分にできる最初のことなのかもしれない。


 隣国館では、その頃アリアが王城から届いた新しい照会を読んでいた。


 内容は、帰還派と現地継続派の論点を整理したものだった。

 王城としては、彼女本人の意向と、現地側の実務的見解も改めて確認したいという。


 つまり、王城は初めて、アリアを“動かす対象”ではなく、意向を確認すべき当人として扱い始めたのだ。


 アリアはその文を読み、しばらく静かに息を整えた。


「来ましたね」


 グレゴールが言う。


「はい」


 アリアは頷いた。


「王城、伯爵家、侯爵家。三方がこちらを見始めています」


 レオンハルトが静かに問う。


「どう感じますか」


 アリアはすぐには答えなかった。


 怖くないと言えば嘘になる。

 重くないわけがない。


 だが、不思議と圧迫感だけではなかった。


 以前の自分なら、三方からの視線に押し潰されていたかもしれない。

 伯爵家にどう見られるか。

 侯爵家にどう扱われるか。

 王城が何を望むか。

 その全部を、自分の外側から降ってくる圧力として受け取っていただろう。


 今は違う。


「……少し、遠くに見えます」


 アリアは静かに答えた。


「遠く?」


「はい。無視できるという意味ではありません。けれど、全部が私の外側で動いている波のように見えます」


 伯爵家の体面。

 侯爵家の後悔。

 王城の政治。

 どれも大きい。

 どれも関係がある。


 だが、それらはもう、自分をそのまま押し流すものではない。


「私が見るべきものは、まだ机の上にあります」


 アリアは自分の机へ視線を落とした。


 試験運用案。

 再集合確認期。

 第二往復。

 信頼回復案。

 現場語。

 商人の聞き取り。


「だから、まずこれを書きます」


 彼女は新しい便箋を引いた。


 王城への返答。

 帰還か、現地継続か。

 それは感情だけではなく、実務として返すべきだ。


 ペンを取り、静かに書き始める。


 ――現時点において、照合担当としては現地継続を望む。

 ――理由は、伯爵家・侯爵家との事情ではなく、第一試験運用案がなお現地語・聞き取り・再集合確認期を必要とする段階にあるためである。

 ――特に、初回往復設計および信頼回復案は、現地文脈を失えば再平滑化する危険が高い。

 ――よって少なくとも第一試験運用案の再改稿と、再集合確認期の草案反映完了までは、現地での照合継続を希望する。


 最後に、少しだけ考えてから、一文を足した。


 ――これは、求められたから残るのではなく、見たものを最後まで返すための希望である。


 書き終えた時、アリアは胸の奥が静かに定まるのを感じた。


 三方の視線が集まっている。

 だが、その中心で自分はもう揺れていない。


 自分の机に座り、自分の理由で、ここに残ると書いた。


 それだけで十分だった。

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