前世で過労死した元救急医の聖女、処刑塔に追放されたので「圏外・残業なし・衣食住保証」の楽園生活を始めました。私の労働時間は終了しましたので、残りの業務は元婚約者にお任せします。
⏬後堂愛美の作品リストは本文下にあります。
「リンシア、貴様との婚約を破棄する! そして即刻、北の孤島にある『絶海の処刑塔』へ幽閉処分とする!」
王宮の豪華絢爛な大広間。シャンデリアの暴力的なまでに煌びやかな光が降り注ぐ中、王太子テオドールのヒステリックな金切り声が響き渡った。
周囲を取り巻く貴族たちが息を呑む気配が伝わってくる。「処刑塔」という単語の持つ禍々しい重みに、着飾った令嬢たちが扇で口元を隠し、一斉に青ざめているのが視界の端に見えた。
私はその宣告を浴びながら、ぼんやりとした頭で考えていた。
(……今、天使のラッパが聞こえたような気がする)
耳鳴りが酷い。視界の端がチカチカと明滅している。立っているだけで膝が笑うし、地面が揺れている気がする。
無理もない。ここ三ヶ月、私の平均睡眠時間は二時間を切っていた。王都全域を覆う巨大結界の維持管理、騎士団の遠征に伴う広域治癒魔法の行使、そして不摂生な貴族たちの終わりのない慢性疾患の治療。
前世で救急救命医として過労死した記憶を持つ私だが、この世界の「聖女」とかいう職業は、前世のブラック病院と負けず劣らずの殺人的な激務だったのだ。
「聞いていないのか、この悪霊令嬢が! その陰気な顔を見ているだけで吐き気がするんだ!」
テオドール殿下が私の肩を荒々しく揺さぶった。
揺らさないでほしい。三半規管が限界だ。これ以上揺らされたら、胃の中身ではなく魂が出てしまう。
私は鉛のように重いまぶたをなんとか持ち上げ、目の前で顔を真っ赤にしている元婚約者を見た。
私の顔色は、きっと酷いものだろう。目の下にはどす黒いクマが張り付き、頬はこけ、肌は土気色。背中には疲労という名の悪霊が百体くらい憑いている自覚がある。
「殿下……それは、本当ですか」
「ああ、本当だ! 次期王妃となる女が、これほど生気がなく可愛げがないなど論外だ。見ろ、このミシェルの愛らしさを!」
彼がこれ見よがしに引き寄せたのは、男爵令嬢のミシェルだった。ピンク色の髪をふわふわとさせ、血色の良い健康的な頬をしている。彼女は私のことを、まるで汚物を見るような目で見下ろしていた。
「リンシア様、ごめんなさいね。でも、テオドール様には癒やしが必要なんです。あなたのような……その、死神みたいな方では、お役目は務まりませんわ」
死神。悪霊。散々な言われようだ。
だが、私の混濁した脳内では、テオドールの言葉がまったく別の意味を持って反響していた。言語中枢が、その言葉を自動翻訳し始めたのだ。
『婚約破棄』=『聖女業務の即時解雇』
『処刑塔への幽閉』=『強制的な無期限の長期休暇』
カチリ、と頭の中で何かが小気味よくハマる音がした。
聖女の地位を剥奪されるということは、もうあの広大な結界を張らなくていい? 深夜二時に叩き起こされて「指を切ったから治せ」という馬鹿な貴族の相手をしなくていい?
(……え? それって……)
「二度と王都の土を踏めると思うな! 一生、あの呪われた塔で罪を償うがいい!」
テオドールの怒鳴り声が、私には勝利のファンファーレにしか聞こえなかった。
「一生」ということは、定年退職まで衣食住が保証されたということか。
しかも処刑塔は、王都から船で三日もかかる絶海の孤島にあるという。つまり、物理的に「呼び出し」が不可能だ。
緊急連絡が入らない。通信用の魔道具も繋がらない。伝書鳩だって嵐で届かない。圏外だ。完全なる圏外だ。
(勝った……!)
私は歓喜のあまり、膝から崩れ落ちた。
周囲には、絶望してへたり込んだように見えただろう。
違う。あまりの幸福感に、腰が抜けたのだ。震える手で顔を覆う。指の隙間から笑みが漏れ出しそうになるのを必死で堪える。ニヤけるな、今ここで笑い出したら不審者として処分されかねない。
「……謹んで、お受けいたします」
「ふん、ようやく自分の立場を理解したか。衛兵! すぐにこの女を連れ出せ! 今夜のうちに船に乗せるんだ!」
今夜出発。素晴らしい。引継ぎ業務すら免除してくれるとは、なんてホワイトな解雇通知なのだろう。これぞ即日退社。
私は駆け寄ってきた衛兵に両脇を抱えられ、ズルズルと引きずられていった。
去り際、ミシェルが「可哀想に、きっと塔の瘴気で三日と持たないわ」と囁くのが聞こえたが、私にとっては子守唄以下のノイズだった。
ありがとう、テオドール殿下。ありがとう、ミシェル。
あなたたちが国を傾けている間に、私は寝ます。
◇ ◇ ◇
北の海は荒れていた。
護送船は木の葉のように揺れ、甲板に打ち付ける雨風は容赦がない。
同行する騎士たちは、激しい船酔いと未知への恐怖で青ざめていた。
「気の毒なリンシア嬢……あんな何もない最果ての地へ送られるなんて」
「生きて帰った者はいないというぞ。なんて残酷な仕打ちだ……」
彼らの同情に満ちた視線を背に、私は船室の窓にへばりついていた。
見えてきた。
断崖絶壁の上にそびえ立つ、黒い石造りの巨塔。
空には雷鳴が轟き、波が荒々しく岩肌を噛む。世間一般では「地獄の入口」と呼ばれる光景だ。
だが、私の「医師の右目」と「社畜の左目」には、まったく違って見えた。
まず、あの分厚い石壁。厚さは優に一メートルはあるだろう。あれなら隣室の騒音はおろか、嵐の音すら完全に遮断できる。防音性は最高ランクだ。
そして、窓の少なさ。刑務所特有の小さな窓は、朝日がまぶしくて目が覚めるという悲劇を完璧に防いでくれる。遮光性も申し分ない。
何より、周囲は一面の海。海の上に家屋は建てようがない。完全なる無人。つまり、患者がいない。
「……最高!」
船が小さな港になんとか着岸する。
タラップを降りた私を出迎えたのは、塔の管理人だという男だった。
いや、男と呼んでいいのか迷うほど、彼は異様な風体をしていた。
ボロボロの黒いローブを纏い、肌は生気のない灰色。頬はこけ、目は落ち窪んでいる。まるで墓場から這い出してきた死体か、あるいは数百年前からそこに立っている彫像のようだった。
「……また厄介なのが送られてきたか」
男の声は、枯れ木が擦れるような低い響きを持っていた。
「俺はマルス。ここの管理人だ。ここは王都のような煌びやかな生活はないぞ。あるのは静寂と、冷たい石の床だけだ」
マルスと名乗った男は、威嚇するように私を見下ろした。
私が泣き叫ぶか、あるいは絶望して暴れると思っているのだろう。
私はよろめく足取りでタラップを降り、雨に濡れるのも構わず、マルスの手を両手でガシッと握りしめた。冷たい手だったが、私には救いの神の手に思えた。
「マルスさん……!」
「な、なんだ。命乞いなら聞かんぞ」
「静寂……! 今、静寂とおっしゃいましたか!?」
「あ、ああ」
「ここには、夜中に『腹が痛い』と叫ぶ貴族も、『クマができたから消せ』と騒ぐ王妃様もいないんですね!?」
「そりゃあ、ここは罪人の塔だからな。俺とお前以外、誰もいやしない」
誰もいない。
その言葉が、私の心臓を射抜いた。
私は感極まり、雨と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「ここが私のパラダイス……!」
「はあ? お前、頭でも打ったのか?」
ドン引きするマルスに、私は食い気味に続けた。
「お願いします、独房へ! 一番奥の、一番静かな部屋へ案内してください! ベッドはありますか? 枕は? なければ床で寝ます!」
「あ、ある……最上階の部屋は元々王族用の幽閉室だから、家具だけはそれなりのものだが……」
「王族用! スウィートルームですね!」
私はドレスの裾をまくり上げ、騎士たちの制止も振り切って、塔の階段を駆け上がった。
残された騎士たちが「あまりのショックで発狂されたのだ……」と涙ぐんでいたが、知ったことではない。私の頭の中は今、ふかふかの羽根布団のことで一杯なのだから。
部屋は、控えめに言っても最高だった。
二十畳ほどの広さに、石造りの頑丈な壁。暖炉にはすでに火が入っており、パチパチという音が子守唄のように響く。部屋全体がほのかに暖かく、湿気も感じられない。
そして中央には、天蓋付きの大きなベッドが鎮座していた。
シーツは清潔で、糊のきいたリネンの香りがする。その上には、雲を切り取ってきたかのような、ふかふかの羽根布団が乗っている。
王都の聖女用の部屋より豪華ではないか。
……いや。
私、聖女用の部屋を使ったことあったっけ? そんな暇、存在したかしら?
「……食事は朝と晩に運ぶ。掃除は自分でやれ。用があるときは……」
「ありません」
私は入り口に立つマルスに即答した。
「緊急事態以外、絶対に部屋に入らないでください。ノックも無用です。朝食もドアの前に置いておいてください。冷めても構いません。誰とも顔を合わせず、誰の声も聞きたくないのです」
マルスは呆れ顔で、深くくぼんだ目を細めた。
「……よほど、王都での仕打ちが辛かったんだな。人間不信になるのも無理はない」
彼は勝手に同情的な解釈をしてくれたようだ。
「いいだろう。好きなだけ引きこもるといい。鍵はかけておく」
「ありがとうございます。二重ロックでお願いします」
重厚な扉が閉まり、ガチャリと鍵がかかる音がした。
その瞬間、世界から音が消えた。
波の音も、風の音も、遠く微かに聞こえる程度。
完全なる静寂。
完全なる孤独。
私は震える手で、何重にも着込んでいたコルセットや重たい装飾品を脱ぎ捨てた。
下着姿になり、ベッドへダイブする。
体が羽根布団に沈み込む感覚。まるで無重力空間に放り出されたかのように、全身の筋肉から緊張が解けていく。
柔らかい枕が頭を受け止める感触。首の骨がポキポキと鳴り、正しい位置に戻るような快感がある。
「……あぁ……」
意識が遠のく。
明日の朝、結界の点検に行かなくていい。
明後日の儀式の準備をしなくていい。
三日後の舞踏会のために肌の手入れをしなくていい。
次に目が覚めるのがいつかなんて、どうでもいい。
私は泥のように、いや、深海に沈む石のように、深く深く眠りに落ちていった。
◇ ◇ ◇
小鳥のさえずりが聞こえる。
チュン、チュン、という控えめな音だ。
いつもなら、王宮の鐘の音か、「リンシア様! 急患です!」という使い走りのメイドの絶叫と共にドアを叩く音で、心臓を縮み上がらせながら叩き起こされる時間だ。
だが、今日は誰も来ない。
私はゆっくりと目を開けた。
天井の石の模様を見つめ、数秒間、ここがどこかを確認する。
処刑塔だ。
そして、窓から差し込む光の角度を見るに、とっくに昼を過ぎている。
「……嘘!?」
私はガバッと起き上がった。
体が軽い。羽が生えたように軽い。
いつもなら鉛のように重い肩や腰が、嘘のように軽快だ。頭の中にかかっていた霧が晴れ、思考がクリアに回る。関節の節々が油を差したように滑らかだ。
枕元の時計を見る。
昨夜寝たのが夜の八時。今は……昼の十二時。
十六時間。
私は、十六時間連続で睡眠をとったのだ。途中で一度も起こされることなく。
「……生きてる……」
前世を含めても、こんなに長く寝たのは赤ん坊の時以来ではないだろうか。
私はふらふらと洗面台に向かい、壁にかかっていた鏡を恐る恐る覗き込んだ。
そして、絶叫した。
「誰これ!?」
鏡の中にいたのは、見知らぬ美少女だった。
いや、骨格は見覚えがある。私だ。
だが、目の下にへばりついていたドス黒いクマは跡形もなく消え去っている。
土気色だった肌は、内側から発光するようなバラ色の艶を帯び、カサカサだった唇はプルプルに潤っている。
死んだ魚のようだった瞳には、満天の星のような輝きが戻っていた。
「これが……睡眠の力……?」
魔力を確認してみる。指先に少し力を込めると、眩いばかりの光が溢れ出した。
王都にいた頃は、カスカスの魔力を命を削って絞り出していたのに。今は溢れすぎて、制御が効かない。部屋の隅にあった枯れかけの観葉植物に光が当たると、ボボボボッという音と共に一瞬で天井まで巨大化した。
健康ってすごい。睡眠ってすごい。どんな高価なポーションよりも、十時間の睡眠こそが至高の特効薬だったのだ。
私は鏡の中の自分に向かって、固く誓った。
「私は、ここから出ない!」
王都? 国? 知ったことか。
私はこの処刑塔で、最強のスローライフを送るのだ。
誰にも邪魔させない。もし邪魔する奴が現れたら、この溢れる魔力で物理的に排除してやる。
グゥ、と腹が鳴った。
そういえば、昨日から何も食べていない。空腹は、最高の調味料。
ドアの前に置かれているであろう、冷え切ったスープすら、今の私にはフルコースに見えるはずだ。
私はスキップしながら、頑丈な鉄の扉へと向かった。
◇ ◇ ◇
それからの日々は、まさに夢のような時間だった。
朝は太陽が昇るまで寝て、お腹が空いたら起きる。
日中は溢れ出る魔力を消費するために、荒れ放題だった中庭を耕した。
「よいしょ、っと……ふう、いい汗かいた」
私は鍬を片手に、額の汗をぬぐった。
目の前に広がっているのは、かつては塔の中庭とは名ばかりの不毛の岩場だった。
だが今は違う。
見渡す限りの緑。キャベツ、トマト、ジャガイモ、ハーブに薬草。
それらが異常な生命力で生い茂り、ジャングルのような様相を呈している。
「……ちょっと魔力を込めすぎたかな」
毎日十時間睡眠を確保した私の魔力は、留まるところを知らなかった。
使い道がないので、毎朝の日課として土壌改良と植物の成長促進に使ってみたのだが、結果がこれだ。
種を蒔いて三日で収穫できる。しかも、あふれ出る聖女の魔力を浴びた野菜たちは、一つ一つが宝石のように輝き、通常の三倍のサイズに育っていた。
「おい、リンシア! なんだこれは!」
塔から出てきた管理人マルスが、目を見開いて驚いている。
彼の視線の先には、私の身長ほどもある巨大カボチャが鎮座していた。馬車になりそうなサイズだ。
「マルスさん、見てください。今夜はカボチャスープですよ」
「……ここは処刑塔だぞ。バカンスに来たんじゃないんだ」
「暇だったもので。それに、健康な体を作るには、睡眠と同じくらい食事が大事です。王宮では乾燥したパンと具のないスープしか出ませんでしたから」
もちろん王太子は豪勢な食事をとっていた。
私のぶんも用意されてはいたが、物理的に食事の時間がとれなかったのだ。
隙間時間に下級使用人向けの粗食を胃袋へ流し込むのが精一杯だった。
私は巨大カボチャを軽々と持ち上げた。
魔力が充実すると、身体強化も自動的にかかるらしい。今の私なら、素手でドラゴンも倒せる気がするし、残業代未払いの請求書を持って王宮に殴り込みをかけることだってできそうだ。
その夜の食卓は豊かだった。
私が作ったカボチャのポタージュと、採れたて野菜のサラダ。
マルスは最初、毒でも入っているんじゃないかと疑うような目でスープを見ていたが、一口すするとわずかに眉を動かした。
「……うまい」
「でしょう? 素材がいいですから」
マルスは無言でスプーンを動かした。
不思議なことに、スープを飲むたびに、彼の灰色の肌に少しずつ血の気が戻っているように見えた。カサカサだった髪にも、微かに艶が出ているような。
もしかして栄養失調だったのだろうか。
私は、彼のお皿にサラダを大盛りで追加した。
「たくさん食べてくださいね、マルスさん。ここでは私たちが運命共同体なんですから」
「……お前、変わった女だな」
マルスは短く息を吐いたが、その表情は出会った時のような険しいものではなく、どこか呆れたような、それでいて穏やかなものだった。
よく見ると、目鼻立ちは整っている。ちゃんと栄養をとって若返れば、結構な美形になるかもしれない。
「お前、本当に王都に戻らなくていいのか? これだけの力があれば、国の一つや二つ傾けられるだろうに」
「冗談じゃありません。あそこはブラック企業……いえ、地獄です。残業代も出ない、有給もない、上司は無能。戻るくらいなら、この塔の礎になります。遺骨は海に撒いてください」
私はスープを飲み干し、ふう、と満足げな息を吐いた。
「ごちそうさまでした。さて、今日は早めに寝ます。明日は朝から温泉を掘る予定なので」
「……温泉まで掘るつもりか。好きにしろ」
やれやれと肩をすくめるマルスを尻目に、私は自分の部屋へと戻った。
王都から追放されて一ヶ月。
私の肌はツヤツヤ、精神状態は最高。
一方、王都では私の抜けた穴がそろそろ限界を迎えているはずだが、そんなことは知ったことではない。
私の楽園作りは、まだ始まったばかりだ。
そして、この平穏を脅かす者が現れたなら――全力で排除するまでだ。
◇ ◇ ◇
そんな穏やかな日々が二週間ほど続いたある日。
塔の船着き場に、一隻の軍船が到着した。
王家の紋章が入った立派な船だ。
「ちっ、客か」
私は二階のテラスから舌打ちをした。せっかくのティータイムが台無しだ。
甲板に降り立ったのは、見覚えのある金髪の男。テオドールだ。
彼は鼻をハンカチで押さえながら、不快そうに塔を見上げている。
「リンシア! いるのは分かっているぞ!」
テオドールの金切り声が響き渡った。
私は深いため息をつき、手近にあったローブを羽織ってテラスの手すりに寄りかかった。
今の私は、規則正しい生活と栄養満点の食事、そして過剰な魔力供給により、肌は白磁のように輝き、髪は絹糸のように艶めいている。王宮時代の「悪霊」の面影はゼロだ。もはや別人と言ってもいい。
「……何か御用でしょうか」
私が声をかけると、テオドールがこちらを見上げた。
そして、きょとんとした顔をした。
「……誰だ、貴様は」
「はい?」
「私はリンシアを呼んでいるのだ。その塔に幽閉されている、薄汚い女だ。貴様のような美少女がなぜこんな場所にいる」
……気づいていない。
まあ、無理もない。最後に会った時の私は、体重が今より五キロは軽く、目の下は真っ黒だった。幽鬼のような私しか知らない彼が、今の健康的な私と同一人物だとは夢にも思うまい。
しめしめ。
私は内心でほくそ笑んだ。これは使える。
ふと横を見ると、いつの間にかマルスが立っていた。
毎日の野菜摂取のおかげか、彼の肌からは土気色が消え、背筋も伸びている。ローブの隙間から覗く横顔は、彫刻のように整い始めていた。
「どうする? 追い返すか?」
マルスが低い声で囁く。
「ええ。安眠妨害ですから」
「了解した……少し手伝おう」
マルスが指先を軽く振ると、塔を覆う結界が一瞬だけ青白く輝いた。
私は改めて、テオドールに向き直った。
「おやおや、殿下。リンシアをご存知ないのですか?」
私はあえて声を少し高くし、他人行儀に答えた。
「その方でしたら、先日……」
「先日?」
「海の藻屑となられたのでは? あるいは、塔の厳しさに耐えかねて、塵になって消えたのかもしれませんね」
私の言葉に、テオドールは顔色を変えた。
「死んだ、だと? 馬鹿な! あいつがいなければ結界はどうなる! 呪いを解くのは誰がやるんだ!」
「さあ? 死人に口なし、とはよく言ったものです」
「嘘だ! 貴様、隠しているな! あの陰気な女がそう簡単に死ぬわけがない!」
テオドールが塔に入ろうと足をかけた瞬間、バヂヂッ! という激しい音と共に、見えない壁に弾き飛ばされた。
マルスが強化してくれた結界だ。
「ぐわっ! なんだこれは!」
「ああ、申し訳ありません。この塔は現在、害虫駆除中につき立ち入り禁止となっております」
「害虫だと!? 王太子である私を害虫扱いするか!」
「滅相もございません。ただ、あまりに空気が清浄なもので、不純物が近づくと自動的に排除してしまうようです」
私は冷ややかに見下ろした。
テオドールの後ろには、疲れ果てた騎士たちの姿が見える。彼らの鎧は汚れ、負傷している者も多い。王都がどうなっているか、想像に難くない。
だが、今の私には関係のないことだ。
私の労働時間は終わったのだから。
「くそっ、覚えていろ! リンシアにくれぐれも伝えるように! 『戻ってくるならば、特別に側室にしてやってもいい』とな!」
テオドールは捨て台詞を吐き、結界を破れないと悟ると、悔しそうに船へと戻っていった。
船が小さくなっていくのを見送りながら、私は呟いた。
「側室? 寝言は寝て言ってください」
「ふっ……傑作だな。あいつ、自分の捨てた女が目の前にいるとも気づかずに」
マルスが声を上げて笑った。その笑顔は、もはや老人のものではなく、精悍な青年のものだった。
「いい性格してるな、お前。自分のことを『死んだ』と言い切るとは」
「ええ、社会的には死にましたから。ここでの私は、ただの健康オタクの農婦です」
私は大きく伸びをした。
さて、変な邪魔が入ったが、まだ日は高い。
温泉掘削の続きでもしようか。
私の楽園作りは、まだ始まったばかりだ。
◇ ◇ ◇
塔での生活が始まって一ヶ月。
王都の状況は、私の予想を遥かに超えて悪化していたらしい。
「ひ、ひどい有様だな……」
窓の外を覗いたマルスが、呆れた声を上げた。
外は猛吹雪。視界もままならない白銀の世界の中に、ボロボロになった帆船が着岸して、凍えた騎士団がよろよろと上陸してくる。
その先頭で、地面に膝をつき、必死に門を叩く男たちの姿があった。雪に埋もれかけながら、彼らは何かを叫んでいる。
「リンシア! 頼む、出てきてくれ! 私が悪かった! 父上も来ているんだ!」
「リンシア嬢! 余からも頼む! この通りだ!」
テオドール、そして国王陛下だ。
彼らは王冠もマントもかなぐり捨て、極寒の嵐の中で土下座をしていた。髪は凍りつき、唇は紫色に変わっている。
聞くところによると、王都では未知の疫病が蔓延し、ミシェルは「感染るのが怖い」と言って実家に逃亡。騎士団も半数が倒れ、国は崩壊寸前だという。
彼らは藁にもすがる思いで、なりふり構わずここへ来たのだ。プライドも権威も、雪の中に捨ててきたらしい。
私は、暖炉の前で焼き芋を割りながら、その様子を遠隔視の水晶で眺めていた。
パカッ、と芋を割ると、黄金色の中身からホクホクの湯気が立ち上る。そこにたっぷりのバターを落とす。ジュワリと溶けたバターが芋の繊維に染み込み、甘く芳醇な香りが部屋中に広がった。
「……で、どうするんだ? 国王まで土下座させて、無視するのも寝覚めが悪いんじゃないか?」
マルスが私を見る。その瞳は澄んだアメジストのような紫色で、もはや完全に呪いが解けかかっているのがわかる。彼は恐ろしいほどの美青年になりつつあった。
確かに、一国の王が地べたを這いつくばっている姿は哀れだ。普通の令嬢なら、情にほだされて飛び出していくかもしれない。「私がなんとかしなきゃ」という使命感に燃えるかもしれない。
だが、今の私は、自分の「安眠」と「健康」を何より優先するスローライフの信奉者だ。あのブラック職場に戻るつもりは微塵もない。
しかし、このまま彼らが野垂れ死ねば、それはそれで後味が悪いし、新たな権力者が塔を接収しに来るかもしれない。それは面倒だ。
それに何より、最近また魔力が溢れすぎて困っている。野菜が巨大化しすぎて食べきれないし、保存スペースを圧迫するし、寝返りを打つだけで魔力の圧で壁にヒビが入って、それを魔法で修復する始末だ。
私は焼き芋を一口かじった。ねっとりとした甘さが舌の上でとろける。
その甘さに脳が活性化し、一つの妙案が閃いた。
「マルスさん、私、決めました」
「戻るのか?」
「いいえ。戻りませんが、彼らの望みは叶えて差し上げます」
私は口元を拭い、ニッコリと微笑んだ。
「私が戻る代わりに、私の中に残っている『負の遺産』と、邪魔で仕方がない『余剰魔力』を、全てテオドール殿下にお譲りします。これぞ一石二鳥のデトックスです」
マルスは私の考えを察したのか、口元を歪めてニヤリと笑った。
「……恐ろしい女だ。だが、それこそ俺が見込んだ女だ」
私は立ち上がり、窓辺へと向かった。
吹雪の中で窓を開けても、私の結界内は春のように暖かい。
下界の男たちが、私に気づいて顔を上げた。
「リンシア! 生きていたんだな! ああ、なんという美しさだ……やはり聖女はそなたしかいない!」
テオドールと国王陛下が涙を流して叫ぶ。今の私の姿を見ても、もう「悪霊」とは呼べないようだ。
「戻ってきてくれ! 今すぐ王都へ! 待遇は改善する! 褒賞も倍にする! ミシェルとは婚約破棄した! だから……!」
必死の説得。しかし、私の心は揺るがない。
私は大声で、嵐の音に負けないよう、はっきりと告げた。
「お引き取りください。私は二度と王都へは戻りません。私の労働時間は、一ヶ月前に終了しました。次の担当者にお問い合わせください」
「そ、そんな……! 国を見捨てるのか!」
絶望に染まるテオドールに、私は慈悲深い声で続けた。
「ですが、民に罪はありません。そこで、私の持つ『医療知識』と『危機管理ノウハウ』と『実務経験』、それらを運用するのに十分なだけの魔力を、聖女の奇跡としてテオドール殿下にお授けいたします」
「な、なに?」
「私が戻る必要はありません。殿下が私と同じことができれば、問題は解決するはずです。そうでしょう?」
テオドールは呆気に取られたが、すぐに喜色満面になった。
「そ、そうだ! 聖女の力を手に入れれば、古代の伝説に謳われる聖王の再来だ! リンシア、やはりお前は私を愛していたのだな!」
……相変わらずめでたい脳みそだ。
「それでは、受け取ってください。あなたが求める『全て』を!」
カッ!
私の人差し指から眩い光が放たれ、テオドールの額を直撃した。
光の奔流と共に、私の中でドロドロと渦巻いていた怨嗟の記憶と、暴れ回る魔力が彼の脳内に流れ込んでいく。
疫病の特効薬の調合、結界の維持呪文、トリアージの基準と判定方法。そして――
「ぐ、がぁあああああッ!?」
テオドールが突如、頭を抱えて絶叫した。
白目を剥き、口から泡を吹きながら雪の上をのたうち回る。
「なんだ、これは……! 眠い、眠いのに寝られない! コールが鳴り止まない! 『急患です』『魔獣です』『苦情です』……うるさい、うるさい、うるさぁぁぁいッ!」
『知識』と『経験』は、不可分だ。
前世の救急医時代の地獄と、今生の聖女時代の激務――あの吐き気がするような過労の『記憶』が、鮮度そのままに彼に流れ込む。
彼の脳裏では今、私が味わったギネス記録級(未認定)の三百連勤の記憶や、モンスターカスタマーな貴族たちのクレーム対応、慢性的睡眠不足による激しい頭痛と吐き気が、数秒間に圧縮されて再生されているはずだ。
さらに、彼自身の過去の声が、彼を責め立てる。
『陰気な顔をするな! 笑顔で治せ!』
『休憩? 甘えるな、まだ働けるだろう!』
『私の許可なく倒れることは許さんぞ!』
かつて自分が私に投げつけた言葉が、ブーメランのように突き刺さる。
「やめろ、言わないでくれ! もう三日寝てないんだ! 腕は二本しかない! 同時に十人の手術などできるかぁぁぁ!」
テオドールは幻覚と戦うように虚空を切りつけ、やがて「ひぎっ」と奇妙な声を上げて、糸が切れたように卒倒した。
雪原に静寂が戻る。
残された国王と騎士たちが、凍りついたように立ち尽くしていた。
『あらあら、気絶してしまわれるとは。まだ導入部分の「新人研修」程度でしたのに』
私はわざとらしく首を傾げた。体の中がすっきりと軽い。長年の便秘が解消されたような爽快感だ。
「ですが、授与は完了しました。殿下が目覚めれば、疫病も結界も全て一人で完璧に対処できるはずです……私の時のように」
「あ、悪魔……」
国王が震える声で呟いた。
私はニッコリと微笑み、最後通告を行った。
「さあ、殿下をお連れになってお帰りください。そして二度とここには来ないでください。次に邪魔をしたら、その時は――追加の『知識』をプレゼントしますよ?」
「ひぃぃっ!」
国王たちは慌てて気絶したテオドールを引きずり、蜘蛛の子を散らすように逃げ帰っていった。
去り際、テオドールがうわ言のように「有給……申請……却下……」と呟いているのが聞こえた。
◇ ◇ ◇
それから数ヶ月。
王国は、滅亡の危機を脱していた。
王都に連れ戻されたテオドールは、目覚めると同時に別人のように働き始めたという。
虚ろな目で「効率化……トリアージ……」と呟きながら、超人的な速度で書類を処理し、的確すぎる指示で疫病を鎮圧。結界維持のために不眠不休で魔力を注ぎ続けるその姿は、かつての私のようであり、同時にどこか壊れた機械のようでもあったと聞く。
国民からは「救国の英雄」「勤勉なる王太子」「王国の未来は明るい」と称えられているが、側近たちは彼の死んだような目を見て震え上がっているらしい。
元凶となったミシェルは、テオドールによって即座に拘束され、彼の助手として強制的に徴用、地獄の同行者となったそうだ。
一方、北の孤島にある処刑塔は、平和そのものだった。
まず魚が爆発的に増えて、周辺海域は最高の漁場となった。食べきれず、保存もできなかった野菜を、泣く泣く海に投棄した影響だろうか。いまでは釣り糸を垂らすだけで、すぐに大物が引っかかる。野菜に続いて、動物性たんぱく質も完璧だ。
さらに、私の安眠を妨げないよう結界を強化した結果、塔の周囲は常に春のような陽気に包まれ、世界一の保養地のような環境になっていた。
「やれやれ、今日も王都から感謝状と供物が届いているぞ」
そう言って部屋に入ってきたのは、目も眩むような金髪碧眼の美青年――マルスだった。
完全に呪いが解けた彼は、実は「民のために働きすぎて過労死した古代帝国の皇子の亡霊」だったことが判明した。
ここは処刑塔ではなく、霊廟だったのだ。
三食の食事で野菜を通して経口摂取した「聖女の魔力」が、彼の魂を癒やし、生身の肉体として蘇らせてしまったらしい。
「ありがたいことです。これなら、あと百年は安泰ですね」
私は王都から届いた最高級のシルクのパジャマに身を包み、オーダーメイドの枕に頭を預けた。
テオドールからの供物は、最高級の寝具やリラックスの香油、そして「二度と邪魔しません」という血判状だった。
「リンシア、そろそろ起きないと……」
マルスがベッドの縁に腰掛け、私の頬を優しく撫でる。その手つきは甘く、まるで宝物を扱うようだ。
「あと五分……いえ、あと五時間……」
「まったく。お前は本当に寝るのが好きだな」
マルスは呆れたように笑うと、私の額に口づけを落とした。
「いいだろう。好きなだけ眠ればいい。俺がずっと守っていてやる」
「……ん……頼もしい番犬さん……」
「番犬じゃない。俺は、お前を妻にするつもりなんだぞ」
私は幸せな微睡みの中で思った。
国は救われた。テオドールも──国民から見れば──次代の善王として更生した。
そして私は、最高の環境と、私の安眠を全力で守ってくれる最高のパートナーを手に入れた。
誰も不幸になっていない。素晴らしいハッピーエンドだ。
もう二度と、私はここから出ない。
これこそ、元社畜救急医にしてブラック労働聖女だった私が勝ち取った、完全勝利なのだ。




