第61話
――白の盆地。
風が遅れて鳴き、雪が浮いてから落ちる。目のない顔にまぶたばかりを貼りつけた監視者が、静かに首を傾けた。
「おまえは――この世界の人間ではない」
声は先に届き、意味が後から追いつく。
主は肩をすくめ、わずかに笑った。
「A world a hell of a lot more boring than this.」
「ならば見に行こう。おまえの“先”を。“ここではない場所”から今へ流れてきた順を」
監視者のまぶたが一度だけ開閉し、雪が反転した。
――視界が裏返る。
◆
蛍光灯の白。机の落書き。冬用セーターの毛玉。
十三の少年が、片手で古いスマホを支え、もう片手でノートを隠すように持っている。
黒い肌、短く固いアフロをジェルで無理やり尖らせた。ドリュー。
「おい、また撮ってるぞ」「何人だ今」「3。3人だって、はは」
背中から笑いが飛んできて、前から紙玉が転がった。
画面の隅、チャットはほとんど動かない。時々、知らない誰かの「yo」が落ちるだけ。
ドリューは無視した。
カメラの向こうに向かって、小声で言う。「今日の給食、ピザとミルク。点数は……3/10。改良の余地あり」
教科書の端には、配信予定が小さくびっしりと書かれている。
――放課後:ゲーム、夜:雑談、深夜:ラップ少し。
「ドリュー」
先生が止まった。眼鏡の奥が冷たい。「授業中です。スマホを片付けなさい」
「はい」――と言って、彼は角度を少し下げただけだった。
チャットがやっと一行。「lol」
「おい、3人のスターさん」「世界的だって?」
隣の席の男子が囁く。
ドリューは一度だけ横目で見て、首を戻した。「世界は広い。今は3でも――いつかは3万。3百万」
笑いが走る。
先生のチョークが止まった。「放課後、反省室。繰り返すなら保護者を呼びます」
黒板に白い円が描かれる音。
ドリューはカメラを胸の高さに下げ、小声で続ける。「見てろ。いずれは世界的になる。俺は続ける」
世界はまだ、彼の声に振り向かない。
けれど、画面の向こうで3の数字が4になって、すぐ3に戻った。
彼はそれでも笑った。
机の中には、折り畳まれた紙。
――“To-do:マイク貯金/編集ソフト無料版調査/母さんに咳の話はしない”。
◆
チャイムが遅れて鳴る。
廊下へ出た瞬間、時間の継ぎ目がひとつ弛んだ。
監視者の声が、上から落ちる。
「なぜ笑っていられた」
「笑ってたか?」主――今のドリューが鼻で笑う。「他に選べるもんが少なかったからだろ」
「孤は順を伸ばす。軽視される日々は、のちの暴圧を選びやすくする」
「語るね、まぶた男。だが俺は選んだ。……続けることを」
教室の窓に雪が重なって、白と白が入れ替わる。
場面が裂け、灯りが遠くなる。
◆
反省室。
時計の針だけがやけに大きい。
紙に「放送ネタ」と書いては消し、「タイトル案」と書いては丸める。
監視の先生が欠伸を噛み、ドリューはスマホのバッテリーを睨む。18%。
充電器はない。家でも足りない。
画面の3は、2になって、1になって、0にはならない。
(見てるやつが一人でも、戻ってくるなら――続ける)
彼はカメラに囁き、机に額をつけて息を整えた。
◆
現実が戻る。
雪と風。白い盆地。主は目を開け、指先で雪を払った。
監視者が立っている。相変わらず、名は名乗らない。
「見た。――軽い。だが、長い影を作るには十分だ」
「語るな。次だ」
「望むなら」
まぶたが一度、上下する。雪が逆に舞う。
主は白の底へ沈み、別の白へ浮かぶ。
◆
台所の湯気。黒いエプロン。
「配信は“持続”しないわ」
ダイアナの声が再び届き、十三のドリューは笑って聞き流す。
彼は――知っている。
この先の何年も、笑って続けることしかできないと。
雪の上の彼も、薄く笑っている。
(退屈は割れる。……俺が割る)
白が閉じ、風が遅れて鳴る。
監視者のまぶたが、静かに上げ下げする。
「次は十五。――家が二つ。病の匂い、古い機械の匂い」
主は頷いた。
「見せろ。全部だ」
雪がまた裏返り、白が過去に繋がる。
十三の教室は遠のき、次の部屋が開く。
――記憶潜行、一段目終わり。
二段目へ、沈む。