第42話
――夜半。
旧天象館のドームが、星を喰ったまま黒で膨らんでいた。
非常灯は入口で折れ、受付には子ども連れと職員が固まって座る。目は焦点を失い、影が足首を糊のように縛っている。
「ここで終わらせる」
ミハルが短く言い、配置は四角。
前=由衣。右=悠真。左=翔真。後=彩音。
天羽ショウマは一歩引き、「無韻は刺し所だけ」と指で小さく×を作った。
由衣は掌に境界片を二枚、重ねずずらして立てる。折り境。
悠真は光杭と星針ケース。
翔真は石英糸とミラーの結び。
彩音は冷光と塩霧。
◆
ドーム内。
呼吸を奪うような黒。天井の投影孔は開いているのに、星が一つも帰ってこない。
「見えない主、ニョグサ」
ミハルの声が落ちる。「喰う先をこちらで定義する。――**星図**を張れ」
悠真が床面の円周へ星針を打つ。
北極、赤経三時、六時、九時――要点だけを噛ませ、微細な冷光が点で立つ。
翔真は天井周縁のミラーへ石英糸の結びを回し、半拍のずらしを与えて反射の振りを作る。
彩音が塩霧を薄く回し、闇に白の粒子を混ぜる。
由衣は折り境で床から天へ梁を立て、点と点を線にした。
――星が出た。
人工の星。しかし、「喰う」相手にとっては十分な餌だ。
ドームの黒が擦れ、縁を持つ。
「逆影を起こす」
由衣が告げる。
星の下に、光ではなく境の影を敷く。
影に影を与える。
見せないの居場所が、輪郭だけ見える。
◆
足元――受付前の影糊が濃くなり、囚われの子どもの踵をさらに沈める。
彩音が膝をつき、「名前、言える?」と胸に手を置く。
小さな声が戻る。
由衣は折り境を床すれすれに滑らせ、糊の意味だけを外へ流した。
悠真が星針で足元の角を抜き、翔真が肩の強張りを半歩ほどく。
――浮く。
列は流れになり、入口の白へ。
天井では、黒が一塊に凝り始めた。
ニョグサが“鯨”のかたちに寄ってくる。
光源そのものを噛む“口”が、人工の星へ向いた。
「星網、起動」
翔真が石英糸を投げ、ミラーの返しを合わせる。
星々の間に糸が見えない網を張る。
由衣は折り境でその網に節を打ち、落とし口を一つだけ残した。
「落とす先を――器に」
悠真が光杭で中央に壺の口を縫い、反射布で内側を白に張る。
彩音が冷光を溜め、正気の温度で“器”を満たした。
◆
緑の眩暈が、ふっと滲む。
まだ残党がいた。視界の裏で火のダンスが始まり、星の見えを壊しに来る。
「見ないで通す」
由衣は眉と胸に短く板を差し、緑の意図だけ横へ滑らせた。
彩音が冷で喉の渇きを摘む。
(緑は封球に落とした――写りだけ)
その刹那、黒が跳んだ。
星網ごと噛みちぎりに来る腕。
ショウマの指が×を切る。「無韻――三拍!」
闇の拍が落ち、掴むタイミングが空になる。
由衣の折り境が縁を裂き、翔真の結びが躓きを入れ、悠真の杭が口の角を噛む。
「――今!」
網の落とし口が開き、黒鯨が器へ沈む。
彩音の冷光が器の内壁を満たし、喰う先を失わせる。
由衣は器の縁に折り境を二重で重ね、見えない腕を中に閉じ込めた。
◆
抵抗は来た。
ドーム全体の電気が落ち、人工の星が消える。
黒は器の外で増殖しようと、床へ滲む。
「逆影、追加」
由衣は境界片を細片に砕き、床の目地ごとに短冊を刺した。
星が無くても、『下にある影』だけが灯る。
見えないは、輪郭を持つほど遅くなる。
ショウマが息を吐く。「無韻、残り一刺し」
「要らない」
由衣は首を振る。線で押し切れる。
悠真は器の口を二重に縫い、翔真はミラーを解きながら返しの角度を維持、彩音は由衣のこめかみに冷をひと欠け。
器の中で黒が沈黙する。
喰い物がない世界に閉じ込められ、形も名も薄れていく。
「――封」
ミハルの合図。
反射布と塩石灰の白泥が流れ込み、光壺の蓋が下りた。
ニョグサの芯は、透明な監の底へ落ちる。
◆
受付前。
最後の子どもが浮き、彩音が背を撫でる。「もう平気」
小さな頷き。
外の空気が帰り、ドームの黒はただの夜へ退いた。
由衣は境界片を畳む。指先の痺れは少ない。
ショウマが額を拭き、「無韻、温存できた」
翔真は石英糸を巻き、「網、効いたな」
悠真は封じた光壺を箱へ収め、「角、摩耗なし」
ミハルが端末へ刻む。
【影:NEUTRALIZED】
白板の最重要欄、三つめが灰になった。
◆
出口のガラスに、黄が一枚、風もないのに貼り付く。
勝手に字が湧いた。
〈通し稽古終わり。本番は明晩/将の席は中央一列〉
〈観よ、語れ〉
ミハルが剥ぎ、封筒へ落とす。
陣雷は黙って紙の跡を見た。
灰の眼が、決めている。
「行く。……観て、殴る場所を取る」
声は静かだった。
由衣は短く頷く。「線は私たちで張る。司令は――戻る」
笑いも皮肉もない。約束の言い方。
ドームの外で風が変わる。
街の灯は普通の明るさを取り戻したが、遠いどこかで幕が二回、軽く鳴った。
汚穢、緑、影――NEUTRALIZED。
残るは黄。
王は、客席に座っている。
次の舞台は、**奪取**の用意まで整っていた。