第25話
――空は薄く、月は歪む。
海の主と石の神が、真正面でぶつかり続ける。
拳、肘、膝、肩――言葉の替わりに骨で語り、肉で返す。
青い灯はとうに消え、湾は白い蒸気だけを吐いていた。
陣雷――グハタノトアは全身が碑文のように刻まれ、殴るたび“時間”が擦れる。
主は素手のまま、殴られた分だけ殴り返す。黒い肌、アフロのスパイク――同じ顔。退屈していない。
――墜ちる。
同時に一段、下へ。
海面に近づくたび、空気が鳴き、潮が立つ。
二人は海を踏み台にして、また上へ。
雲を裂き、星を散らす。
「父上ッ!」
白い翼が、追いつく。ゾスだ。
指で空に段を作り、殴り合いの外側に壁を差す。
その裏で、由衣が喉を焼きながら跳ぶ。
足場なんてない。ただ意志で、司令の肘に支えを置く。
一拍、軌道がずれる。
主の右が深く、陣雷の膝が鋭く。
――まだ届く。
地上。
ダゴンは潮の壁で波を受け、夏目は崩れた配電から火を抜き、凌雅は避難経路の“節”を線に直す。
静羅は泣きじゃくる者の肩を押し、「立って、走って」と短く言う。
依子は倒れた者の痛みだけを拾い、呼吸を戻す。
ミハルは踵で拍を刻む。
「見るな、走れ! 空は“他所”の戦い!」
仮面は、夜のどこかで満足げに頷いた。
(――いい。
――拳は真実だ。舞台が澄む)
◆
天蓋の高さ。
陣雷が掴む。
両腕で主の肩を抱え込み、地へ叩き落とす体勢。
主は肩を外へ捻り、無理やり前へ抜ける。
互いの頬がかすめ、星が弾けた。
落下――着水。
湾が裂け、街の灯が揺れる。
次の瞬間にはもう上、水柱を階にして直上。
拳と拳。
乾いた雷が空に走る。
ゾスと由衣は、何度でも追う。
白い翼がばきと悲鳴を上げても、ゾスは止まらない。
由衣の足首が軋んでも、顔を上げる。
届かせるためだけに。
「父上――背!」
ゾスが白の壁を置き、主の背面を守る。
「司令、左!」
由衣は掌で陣雷の拳の向きをほんの半寸だけ逸らす。
ふたりの補助は技巧じゃない。力を足すだけだ。
それだけで、二柱の軌道は殺しにならず、壊し合いに留まる。
主の口角が、わずかに上がった。
「――いい」
◆
石が重くなる。
グハタノトアの躯から柱が伸び、空に足場を増やして押す。
主は海を捻って足裏に楔を作り、そこから踏み込む。
がつん。
空の骨が軋む音。
陣雷の頭突き。
主の膝。
陣雷の肘。
主の肩。
四連ののち、同時に掴む。
指と指で握力がぶつかり、甲が割れそうで割れない。
下では、縁石が跳ね、護岸が波打つ。
夏目が怒鳴る。「地下のガス止めろ!」
凌雅が即答。「止栓、三。節で固める」
静羅が子どもを抱え上げ、ダゴンの影が庇になり、依子が痛みだけを引いて走らせる。
「大丈夫。息だけ合わせて」
◆
限界は、誰にも言わない。
ただ、拳で知る。
主の脇腹に石の角がめり、陣雷の顎へ海の槌が刺さる。
同時に、ふたりとも笑わない。
ただ、続ける。
ゾスの白い翼が裂け、血が薄く散る。
由衣の唇から鉄の味。
それでも、前。
「――ここで止める」
由衣が自分に言い聞かせるように呟く。
ゾスは短く頷き、「家を守る」とだけ。
更に上。
大気が薄くなり、耳が鳴る。
主は呼吸を変えない。
陣雷は石の肺へ“空”を押し込み、無理やり殴る。
正面。
拳が、ようやく互いの中身へ届いた。
主の胸に鈍い線、陣雷の腹に深い窪み。
どちらも、倒れない。
仮面が手をかざす。
(――天井まで。
――もっと上で、もっと崩せ)
◆
落下。
今度は街ではなく、外海へ。
黒い水面が縦に割れ、二人は深く沈んだ。
音が消え、光が遠い。
沈黙の十数拍。
先に上へ出たのは――主。
海面を足で払い、泡と蒸気を踵で切り捨てる。
陣雷もすぐ後ろ。石の尾を引き上げ、真正面。
最後の昇り。
湾と街を見下ろす高さまで、もう一段。
ゾスと由衣は肩で息を刻みながら、なおも並走する。
陣雷の全が、ふっと軽くなった。
重さを捨て、速さに。
主は一瞬だけ目を細め――迎える。
交差。
夜が閃光に裂け、遅れて轟音が街へ届く。
風向きが総入れ替えになり、雲が吸い上げられた。
静寂。
次の瞬間、ふたりは――互いの背にいた。
月の輪郭に、欠けがひとつ増える。
ゆっくりと、振り返る。
主の頬に血が一筋。
陣雷の胸に凹みが一つ。
どちらも、そのまま立つ。
「……悪くない」
主が低く。
陣雷は答えず、握り直す。
拳はまだ語れる。
ゾスは白い指で父の背へ壁をもう一枚。
由衣は司令の肘に短い支えをもう一度。
ふたりの肩が震えても、置くのをやめない。
◆
そのとき――
海の底が、鳴った。
遠く、深く、扉のような音。
ルルイエの心臓がわずかに拍を速め、十階のガラスが細かく震える。
ダゴンの目が細くなり、凌雅が無線で短く告げる。「下が呼ぶ。拍に外部の線」
静羅が舌打ち。「横槍?」
夏目が工具を握り直す。「招き猫の手かよ」
仮面が、微笑だけ増やした。
(――幕間を挟む。
――役者が揃う)
空で、主が顎を上げた。
「終わりじゃない。――続きは、下でも上でも、いつでも」
陣雷は拳を下ろさない。
灰色の眼が、ただ宣言している。
次も、殴ると。
ゾスが小さく息を飲む。「父上――」
由衣は喉をなぞり、「司令」とだけ。
二人は支えを外さない。
夜風が、血と潮の匂いを運ぶ。
第三幕は、まだ上がっている。
拳は何度でも交わる。
――その下で、扉が待っている。