表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/61

第25話

――空は薄く、月は歪む。


 海の主と石の神が、真正面でぶつかり続ける。

 拳、肘、膝、肩――言葉の替わりに骨で語り、肉で返す。

 青い灯はとうに消え、湾は白い蒸気だけを吐いていた。


 陣雷――グハタノトアは全身が碑文のように刻まれ、殴るたび“時間”が擦れる。

 主は素手のまま、殴られた分だけ殴り返す。黒い肌、アフロのスパイク――同じ顔。退屈していない。


 ――ちる。

 同時に一段、下へ。

 海面に近づくたび、空気が鳴き、潮が立つ。

 二人は海を踏み台にして、また上へ。

 雲を裂き、星を散らす。


「父上ッ!」

 白い翼が、追いつく。ゾスだ。

 指で空に段を作り、殴り合いの外側に壁を差す。

 その裏で、由衣が喉を焼きながら跳ぶ。

 足場なんてない。ただ意志で、司令の肘に支えを置く。


 一拍、軌道がずれる。

 主の右が深く、陣雷の膝が鋭く。

 ――まだ届く。


 地上。

 ダゴンは潮の壁で波を受け、夏目は崩れた配電から火を抜き、凌雅は避難経路の“節”を線に直す。

 静羅は泣きじゃくる者の肩を押し、「立って、走って」と短く言う。

 依子は倒れた者の痛みだけを拾い、呼吸を戻す。

 ミハルは踵で拍を刻む。

 「見るな、走れ! 空は“他所よそ”の戦い!」


 仮面は、夜のどこかで満足げに頷いた。

 (――いい。

 ――拳は真実だ。舞台が澄む)



 天蓋の高さ。

 陣雷が掴む。

 両腕で主の肩を抱え込み、地へ叩き落とす体勢。

 主は肩を外へ捻り、無理やり前へ抜ける。

 互いの頬がかすめ、星が弾けた。


 落下――着水。

 湾が裂け、街の灯が揺れる。

 次の瞬間にはもう上、水柱を階にして直上。

 拳と拳。

 乾いた雷が空に走る。


 ゾスと由衣は、何度でも追う。

 白い翼がばきと悲鳴を上げても、ゾスは止まらない。

 由衣の足首が軋んでも、顔を上げる。

 届かせるためだけに。


「父上――背!」

 ゾスが白の壁を置き、主の背面を守る。

 「司令、左!」

 由衣は掌で陣雷の拳の向きをほんの半寸だけ逸らす。

 ふたりの補助は技巧じゃない。力を足すだけだ。

 それだけで、二柱の軌道は殺しにならず、壊し合いに留まる。


 主の口角が、わずかに上がった。

 「――いい」



 石が重くなる。

 グハタノトアの躯から柱が伸び、空に足場を増やして押す。

 主は海を捻って足裏に楔を作り、そこから踏み込む。

 がつん。

 空の骨が軋む音。


 陣雷の頭突き。

 主の膝。

 陣雷の肘。

 主の肩。

 四連ののち、同時に掴む。

 指と指で握力がぶつかり、甲が割れそうで割れない。


 下では、縁石が跳ね、護岸が波打つ。

 夏目が怒鳴る。「地下のガス止めろ!」

凌雅が即答。「止栓、三。節で固める」

 静羅が子どもを抱え上げ、ダゴンの影が庇になり、依子が痛みだけを引いて走らせる。

 「大丈夫。息だけ合わせて」



 限界は、誰にも言わない。

 ただ、拳で知る。


 主の脇腹に石の角がめり、陣雷の顎へ海の槌が刺さる。

 同時に、ふたりとも笑わない。

 ただ、続ける。


 ゾスの白い翼が裂け、血が薄く散る。

 由衣の唇から鉄の味。

 それでも、前。


「――ここで止める」

 由衣が自分に言い聞かせるように呟く。

 ゾスは短く頷き、「家を守る」とだけ。


 さらに上。

 大気が薄くなり、耳が鳴る。

 主は呼吸を変えない。

 陣雷は石の肺へ“空”を押し込み、無理やり殴る。


 正面。

 拳が、ようやく互いの中身へ届いた。

 主の胸に鈍い線、陣雷の腹に深い窪み。

 どちらも、倒れない。


 仮面が手をかざす。

 (――天井まで。

 ――もっと上で、もっと崩せ)



 落下。

 今度は街ではなく、外海へ。

 黒い水面が縦に割れ、二人は深く沈んだ。

 音が消え、光が遠い。


 沈黙の十数拍。

 先に上へ出たのは――主。

 海面を足で払い、泡と蒸気を踵で切り捨てる。

 陣雷もすぐ後ろ。石の尾を引き上げ、真正面。


 最後の昇り。

 湾と街を見下ろす高さまで、もう一段。

 ゾスと由衣は肩で息を刻みながら、なおも並走する。


 陣雷の全が、ふっと軽くなった。

 重さを捨て、速さに。

 主は一瞬だけ目を細め――迎える。


 交差。

 夜が閃光に裂け、遅れて轟音が街へ届く。

 風向きが総入れ替えになり、雲が吸い上げられた。


 静寂。

 次の瞬間、ふたりは――互いの背にいた。

 月の輪郭に、欠けがひとつ増える。

 ゆっくりと、振り返る。


 主の頬に血が一筋。

 陣雷の胸に凹みが一つ。

 どちらも、そのまま立つ。


「……悪くない」

 主が低く。

 陣雷は答えず、握り直す。

 拳はまだ語れる。


 ゾスは白い指で父の背へ壁をもう一枚。

 由衣は司令の肘に短い支えをもう一度。

 ふたりの肩が震えても、置くのをやめない。



 そのとき――

 海の底が、鳴った。


 遠く、深く、扉のような音。

 ルルイエの心臓がわずかに拍を速め、十階のガラスが細かく震える。

 ダゴンの目が細くなり、凌雅が無線で短く告げる。「下が呼ぶ。拍に外部の線」

 静羅が舌打ち。「横槍?」

 夏目が工具を握り直す。「招き猫の手かよ」


 仮面が、微笑だけ増やした。

 (――幕間を挟む。

 ――役者が揃う)


 空で、主が顎を上げた。

 「終わりじゃない。――続きは、下でも上でも、いつでも」

 陣雷は拳を下ろさない。

 灰色の眼が、ただ宣言している。

 次も、殴ると。


 ゾスが小さく息を飲む。「父上――」

 由衣は喉をなぞり、「司令」とだけ。

 二人は支えを外さない。

 夜風が、血と潮の匂いを運ぶ。


 第三幕は、まだ上がっている。

 拳は何度でも交わる。

 ――その下で、扉が待っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ