第7話 秘め事
第5話、伊緒視点の続きです。
合格発表から帰って来た日の夜。
伊緒は浴槽に張られた湯船に浮かぶ自分の顔を見て、ため息を吐いて湯船に波を打たせた。
何も知らない人が見たら、とても無愛想で感情の薄い人間だと思われるその顔。だが「綺麗」だとか「可愛い」とかそう言われることは決して少なくない。
それと同じくらいに「何考えてるか分かんない」、「何も言わなくて気味悪い」とか、そんな事も沢山言われて来た。
伊緒はこんな自分の事が嫌いだった。
気味が悪いだなんて、そんなのは誰よりも自分が一番、自分に感じている事なのだから。
どれだけ気持ちを表に出そうとしたって、言葉にすることは難しくて、表情に出すことだって上手く行かない。
鏡に映る、湯船に映る自分の姿は、いつだって、まるで物言わぬ人形の様だった。
こんな自分を好きだと言ってくれた人が居た。
いつでも、何処に居ても、何度でも、大好きだ、愛していると何度も言ってくれた。
何度だって、その胸に秘めた気持ちを正直に伝えてくれる男の子が居たのだ。
……まるで、何も言えない自分へ当て付けているかの様に、幾度となく自らの気持ちを真摯に気持ちを言葉にする男の子が、ずっと身近に居た。
伊緒だって分かってはいる。
星野悠岐という男の子が、純粋な好意を持ってして自らに接してくれていることなんて、十年くらい前から散々一緒にいるのだから身に沁みている。
けれど、気が付いた時にはそんな捻くれた考えを抱いてしまう程に、伊緒の心は凍りついてしまっていた。
だって皆、悠岐の言葉を信じるから。自分の言葉なんて聞こうともしなかったから。
何も言わない、何も言えないのが悪い。そんな自分が悪いことは百も承知だった。
皆、悠岐が自分を好きだと言う様に、自分が悠岐の事を好きだと思い込んでいる。
何も言わないくせに、笑み浮かべる事も無いくせにと言って、悠岐の寵愛を一身に受けている伊緒の事を嫌う女の子は沢山居た。
そんな話を聞くたびに、聞かされるたびに彼女は言いたかった。
小さい頃から、私の心の中には一度だって彼が居た事は無い……と。
物心ついた頃から、現在に至るまでに、悠岐は一度足りとも、伊緒の本心を聞こうとした事は無かった。
話すのが下手な伊緒の言葉を勝手に解釈して、四ノ宮伊緒という存在が自分の恋人であると思い込んでいる。
いつの間にか、人形である事が彼にとって最も都合の良い事態になっていた。
そんな中で、人形である事が当たり前になってしまった自分を、もう一度人間に戻してくれた人が居た。
それが、赤瀬理桜という男の子だった。
彼に出会ってなかったら、きっと今だって凍ったままだったと思っている。
彼が自分の心を溶かしてくれたのだと、人と居ることの愛おしさを教えてくれたのだと。
どんな時だって、伊緒は胸の内に彼の姿を思い描くと心が温かくなった。
伊緒はパシャ、とお湯をすくって意味もなく自分の顔にかけた。
あまり考えたくはない。素直に自分へ好意を向けてくれる悠岐に、悪感情を向けたいとは思わないから。
けれど……あの幼馴染さえ、星野悠岐さえ居なければ、自分は今頃想い人である赤瀬理桜と二人で高校の合格発表を見に来ていた可能性だって有ったかも知れない。
……とか、そんな考えが頭の中をよぎってしまった時点で、伊緒は悠岐へと好意的な感情を持つ事は出来そうも無かった。
もっとも、卒業式よりも前に彼に手紙を手渡して、一言で良いから自分の気持ちを言葉で添えれば……何もかも違ったのは分かっている。頭では、分かっているのだ。
心優しい彼はきっと、気を使いながらも恋人になってくれた筈だ。
打算的な考えだけど、本当に好きになってもらうのなんて、その後で構わない。
今はとにかく、自分の事を少しでも意識して欲しかった。ほんの少しでも良いから、声を聞きたい。
名前を呼んで……いや、少し挨拶をしてくれるだけでも……。いっそ近くに居てくれるだけでも良いから。
「この一年ずっと……」
思わず呟いて、意味もなく照れて続きは口に出来ず、ただ小さく首を振った。
いいや、この一年どころか、彼を意識し始めてからとなると、一年半くらいは赤瀬理桜という男の子の存在が頭の中に居なかった時間は、一秒たりとも無かった様に思っている。
学校に居る時は常に彼の姿を探していた。
見つけても声をかける事は出来なかったけれど、その姿を見ているだけでも心が安らいだ。
休日に外に出ていたとしても、理由もなく無意識にその存在を探していた事だって一度や二度ではない。
だって、仕方が無い。
どうしようもないくらいに、他に形容する言葉も見つからないくらいに、赤瀬理桜という男の子の事が大好きなのだから。
彼は心優しくて、辛抱強くて、真剣な顔はとても格好良くて、笑った顔がとても可愛らしい男の子だ……と少なくとも伊緒は一緒にいてそう感じた。
すぐに言葉に詰まる自分の話を根気強く、辛抱強く聞いてくれて、質問や確認を挟みながらでもしっかりと話の内容を理解しようと努力してくれる。
簡単な内容だったら、少しの言葉や単語だけでも簡単に察してくれる。それも、ちゃんと正解の方向で。
どこかの幼馴染みは、二択をことごとく外す様な男の子だと言うのに。微妙な的外れな事しか言わないのに。そこから選択肢が増えたら当然正解できる訳もない。
けれど根本的に、自分が絶望的に喋るのが下手なのが悪いことは、伊緒も流石に理解している。
赤瀬理桜と星野悠岐。二人ともそれを責めないのは同じだが、その後の対応が違う。
そういう物、そういう人間、そういう女の子なのだと判断してまるで全てが自分にとって都合の良い様に解釈して判断、行動してしまうのが星野悠岐だ。
全ては自分がちゃんとコミュニケーションを取れないのが悪い、それは伊緒も分かっている。
けれど、けれど……だ。
この男に対しては「もう少し私に寄り添った考え方をしてくれたって良いんじゃ無いか」と思う訳だ。
比較対象がこんなのだから、話が苦手な人、という程度に普通の対応をしてくれる人と話をすると、大抵の場合でありがたいと感じる伊緒だったが、その中でも理桜は他の誰とも違った。
彼は常に、自分の言葉に耳を傾けてくれた。
伊緒が言葉を見つけて、声に出すまで、しっかりと待ってくれた。
時には内容を察してくれる時もあったけれど、時間に余裕があれば、彼は必ず自分の言葉を最後まで聞いてくれたのだ。
両親も、姉妹も、幼馴染みも、今まで出会ったどんな先生や同級生や先輩、後輩だって、そんな事はしなかった。
途中で遮るか、勝手に解釈するか、そもそも理解するのを諦めるか。
カウンセリングを受けた事もあった。
病院にかかった事だってあるし、脳の障害や精神疾患を疑われた事も少なくない。
けれど、どれもこれも正常だった。
結局、周囲の誰もが四ノ宮伊緒は話せないのではなく、話さないのだと結論付けた。
多少なりともそう言う側面がある事を自覚しているから、伊緒はそれを否定する事も出来ない。
言葉に出来なくとも、文字には簡単に起こせる。
何の問題もなく音読や朗読は出来る、歌なんて寧ろ得意分野。
伊緒に出来ないのは、日常会話だ。
一般的なコミュニケーションだけだ。
定型文があって、事務的なやりとりだったら何も不便はしない。
雑談が出来ない。ただそれだけ。
いや、それも間違いと言えるかも知れない。
「私、赤瀬君となら話せた……」
そう。彼だけは、自分の話を聞いてくれるのだ。
伊緒は一度だけ、彼に「どうして?」と質問した事がある。
何の主語もなく突然、ただひたすらに疑問の言葉をぶつけられた理桜は、ほんの少しだけ困惑を見せた後に、照れ隠しをする様に視線を逸らしながら言った。
『別に、黙ってる君と居る時間は嫌いじゃないし。それに……。その、君の声が好きだから……ゆっくり話してくれるのも嫌じゃない……から』
視線を逸らしながら、照れ隠しに苦笑いを浮かべる彼の仕草や表情は今だって鮮明に思い出せた。
ただ疑問の単語を投げかけられただけなのに、その質問の意図をしっかりと把握した上でそう答えてくれたのだ。
本当なら伊緒は「どうして私の話を、私が言葉を紡ぐまで待ってくれるの?なんで私が何を言いたいのかいつも分かってくれるの?」なんて、面倒くさい質問をしようとしていた。
けれど理桜にとってそれはとても単純な事だった。
黙っている時間も、話している時間も苦にならないから。
伊緒にとって、それがどれほどの衝撃だったか、そう言ってくれる彼の存在がどれだけ嬉しかったか。
理桜は知る由もないだろう。
それは二年の文化祭の時だった、伊緒と理桜は「インパクトを残したいから」と提案された黒板アートを担当していた。クラスの中では絵が上手いほうだから、というだけの理由で。
そんな時に、教室で二人っきり。
いつもより遅い時間まで残って一緒にチョークを走らせていた時に、二人はそんな話をした。
その随分前から伊緒の気持ちは彼に傾いていた。それも自覚はしていたけれど、この気持ちが決定的になったのはあの日だった。そう、伊緒は自分の中で結論をつけていた。
「……こんな事、美香にも言えないけど」
思えばずっと自分の事を好き好き言ってくれていたどこかの幼馴染みは、外見を除くと具体的にどんな所が好きかなんて言ってくれた事は無かったように思う。
伊緒はのぼせそうになるギリギリまで、何故自分を好きと言ってくれる悠岐に興味が湧かないのか、逆に何故あまり自分からは関わろうとして来ない理桜を好きになったのか、二人のことを比較しながら考えるのだった。
理桜くん的には「キミ良い声してんね〜」と言うのが恥ずかしくて照れながら出力しただけなのに、それがクリティカルヒットする不思議。それで相手に電流が走ったなんて知る由もないね。




