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楽園は、ここにはない

作者: 空川 億里

 肌を突き刺す冷たい雨が降りだしてから、30分が経過している。いつやむともしれないそんな冬の空の下、俺は脚をひきずるように歩いていた。今日はバイト先に行く時、エアカーを使わず電車で行ったのが失敗の原因である。

 頭上10センチの上空にE-アンブレラを浮かべている老若男女はずぶぬれの俺に気づいてないのか見て見ぬふりか、思い思いの足取りでこちらを向かずに歩いていた。

 たまに立ち止まって俺を一瞥する者もいたが、すぐにバカにしたような笑みを浮かべたり、まるでゴキブリでも見たような嫌悪の色を露にして、足早に立ちさる。

 そんな連中を責める資格は俺にはない。逆の立場なら、自分もそうするだろうから。東京なんて、そんな都会(まち)だ……。無限にも思える時が去って、俺はようやく安アパートにたどりつく。

 アパートというのもおこがましい、潰れかけた廃屋のような建物だ。部屋に入ると、いつも同様足の踏み場もないほどに、様々ながらくたが散らかっている。

 色あせた薄っぺらな絨毯の上には紙くずやカップラーメンの空の容器や空き缶、空きビン、わりばし等、俺の生活が産みだした、様々な残骸が散らかっている。

 濡れきって重くなった衣服を全部ゆっくりとはがすように脱ぎすてた。そしてユニットバスに入ってシャワーを浴びる。体は徐々に温まるが、俺の胸中は氷河のように凍てついたままだった。

 バイト先のホロ映画館の主任に叱られたのが気にいらなくて、そのまま職場をとびだしたのだ。掃除のしかたが悪いだの、接客がよくないだの、細かい小言ばっか抜かしやがって。俺ばかり注意しやがって。パワハラ野郎め。2度と、あんな所に行くもんか。

シャワーを浴びおえた俺はめったに洗濯しない、ところどころちぎれかかったバスタオルで体を拭いた。そして無煙タバコに火をつける。今や、煙の出るタバコは違法だ。

(やっぱ、死のうかな)

 今まで生きてきて、何もいい記憶はなかった。友人もいなければ恋人もいない。どんな仕事をしても上手くいった試しがなかった。大学には行ったものの、私立の三流大を中退じゃあ、失業率二〇パーセントの今の時代、まともな職にありつけるわけもない。

 若年人口が減ってるのに、公務員の天下り先を確保するためか、政治家共が大学の数だけはバカみたいに増やしたため進学率は九割に達したが、その代わりに大卒だけではステータスにならなくなった。

就職先がごまんとあれば、それでも問題ないのだろうが、今や工場はことごとく海外に進出し、大抵の仕事はロボットやナノマシンがやってくれた。それが二十二世紀の現状ならぬ惨状だ。

                   


 翌日俺は区役所へ行こうと決める。昨日の雨はやみ、俺はアルコール漬けの体を湿りきって重くなった布団からひきはがすように立ちあがり、駐車場に止めてあるポンコツのエアカーに向かって歩いた。

 周囲の通行人を見ていると、誰もかれもが俺よりも、上手くやってるように見える。昨日とはうって変わって好天だが、まぶしい日差しも俺のそばは避けて照らしているようだ。

 びっしょり濡れた中古で買った愛車に近づくと、自動的にロックが外れた。俺の網膜パターンをセンサーで認識して、ドアの開錠を行うのだ。この程度の装置なら、今やどんな安い車にもついている。

 革にひびの入ったシートに座ると目的地を区役所に設定し、スタートボタンにタッチした。

 やがてエアカーは屁をこいたような音を立てながら浮上して、自動運転で道路の上空1メートルを飛行する。やがてエアカーは順調に、区役所の駐車場に到達した。

 車を降りると建物に向かう。案内表示を見ると『終末課』は4階である。

他の窓口は3階までだが、こいつだけはフロアが1つ上らしい。

 エレベーターに乗りこんで4階のボタンにタッチする。同じカゴに乗った周囲の数名が、好奇の目でこっちを見た。3階までで皆降りて、俺だけが残される。

 一瞬俺もそこで降り、階段で一階まで降りたくなる衝動にかられたが、そんな元気もなくドアが閉まり、カゴは4階へ上昇した。ドアが開く。足をひきずるように外へ出た。

終末課の窓口に行き、番号札を取る。フロアには全部で20人ぐらいの人がいた。

やはり高齢者が多い。中に1人だけ、20代ぐらいの若い女がいたのには驚いた。ここに来た他の人達同様、彼女もその目に底知れぬ、深い暗黒を湛えている。だがそんな陰鬱も絵になるような美人であった。

待合室の連中は1人ずつカウンセラーの部屋に、札に書かれたナンバーで呼びだされる。先程の女は自分の番号を呼ばれて立ったがそのまま脚がよろめいて、床に両膝をついてしまう。

俺はたまたまそばにいたので面倒くさかったが、しかたなく声をかけた。

「大丈夫ですか」

 俺は型通りの、心にもない質問をする。こんな所に来てる時点で、大丈夫なわけないのだが。女はまるでぎこちなくロボットのようにうなずいた。

いや、こういう表現はロボットに対して失礼か。最新型なら、もっとなめらかに頭部を動かす。

「順番を後に回してもらうか、今日は一旦帰宅して、別の日に来たらどうですか」

「大丈夫です……大丈夫」

 女は俺に捕まって、俺の体によじ登るようにしながら立とうとした。腕は柔らかで、甘い匂いがする。

彼女はまるでコンニャクになったかのようにふらふらしながらも立ちあがり、そして足をひきずるようにしながら、自分の呼ばれた部屋に向かう。

 その後しばらくして、今度は俺が別の部屋に呼ばれたのである。カウンセラーは気持ちのいい笑みを浮かべた50代ぐらいの男だ。

顔に刻まれた年齢と比べて、髪が豊かで黒々としているのは、IPS細胞を使って増殖させたものだろう。

「率直に言います。尊厳死を選びます」

 俺は開口一番にそんな言葉を投げつけた。

「理由を聴かせてもらえるかね」

 俺は理由を述べはじめた。何をやっても、どんな仕事をしてもうまくいかない。友人も恋人もいないし、できない。宗教も信じられない。人生に意義を見出せない。政治家も官僚も信用できない。

何もかもおかしい世の中に絶望している……。とりとめのないグチを、カウンセラーは辛抱強く最後まで聴いてくれた。

「それでは君は、まだ30代で心身共に健康なのに、尊厳死を選びたいというんだね」

 俺はうなずく。日本人なら常識だが、この国の自殺者が3万人を突破したのは20世紀末の頃である。その後一旦3万人を切ったのだが、再び増えて4万、5万と増加した。

こんな状況に対して政治家は有効的な対策を打たず、お家芸ともいうべき先送りと、何か対策をやったふりで対応してきた。でもそれは政治家だけの問題じゃない。

そういう奴らを投票で選んだ国民も問題だ。その間死神が喜びそうな報道が、世をにぎわせてきたのである。ネットで知りあった自殺志願者が13人全員で心中した事件。

『1人で死ぬのは寂しい』という遺書を残し、改造銃を路上で乱射して周囲の人を殺したあげく、己の頭に弾丸を撃ちこんだ奴。

自殺願望のある男が己の住むマンションごと爆破して、多数の死傷者を出した時もある。

42人の自死希望者がバスを1台借りきって乗り、バスごと爆破した一件。死亡者の中には、亡くなった女性が抱いた赤ん坊も含まれていた。

政治の腐敗に抗議して焼身自殺した学生達。生活保護が受けられないのに抗議して集団で首を吊った低所得者……。そういった悲劇が多発。『見て見ぬふり』がお得意で、どちらが無能で失言が多いか競いあっていた与野党の政治屋も、ようやく砂袋のように重い腰をあげはじめたのだ。

国会で(多分料亭でも)激しい議論が繰り返された後、ようやく1つの決断がされた。

それは15歳以上の自殺希望者は理由を問わず、尊厳死を認めるという法律の制定だ。

当然異論も多かったが、他者をまきぞえにする悲惨な事件が頻発したため、世論の大半も新制度やむなしという方向へ動いていった。

ただし望んだ人間の冥界行きをすぐ認めるわけでなく、カウンセリングを経た後でも意思が変わらぬという条件つきだ。

激しい反対のあった新制度だが、実施後はカウンセリングを受けた人が死ぬのを思いとどまったというケースがあったり、他人をまきぞえにする犯罪も減って、年間の自殺者は久々に5万を割るようになる。

 それゆえに新制度はやがて、好意的に思われるようになったのだ。それでも希望者10人のうち9人は、尊厳死を選択した。俺もそいつを活用すべく、今日区役所に来たのである。

中道(なかみち)君」

カウンセラーが俺に呼びかけた。

「人生は長い。僕が君ぐらいの頃にも色々悩んだ。自殺を真剣に考えた時もある。でも、どんな苦悩も永遠には続かないものだ。生きていれば、楽しい思い出もたくさんできる。ここはもう1度、考えなおしちゃどうだろう」

 あまりにも予想通りの台詞なので、俺はがっくり肩を落とした。

「意思は固いです。あなたは、あなた。俺は、俺ですから。考え直すつもりはないです」

 その後も鳥居は言葉を変え、表現を変えて、俺が翻意するよう説得したが、そのつもりはない。

「決意が強固なのはわかりました。しかし決まりで、すぐ尊厳死を許可する訳にはいかないのです。1週間後にもう1回来てください。そこで考えが変わらなければ許可が出ます」

「わかりました。構いませんが、ぼくの気持ちは変わりません」

「来週またいらしてください。そこでも考えが同じなら、希望通りにいたしましょう」

「わかりました。ぼくは頑固なんで、ぶれません」

 部屋を出ると、待合室にいた連中が一斉にこっちを見た。多くは高齢者ばかりのかれらが好奇の視線を俺に向けて注いでいる。待合室を後にする直前、誰かが背後でつぶやいた。

「まだ、若いのに」

 その声を聞いて、俺のはらわたが煮えくりかえった。

(俺がどんな人生を送ってきたか知らないくせに……ちっとばかし年齢が上だからって、何でも知ってるような言い方しやがって)

 俺は怒りをためこんだまま待合室から廊下に出る。少し前を、さっきの若い女が歩いていた。足どりはおぼつかなく、結局また通路に座りこんでしまう。一瞬無視して過ぎようとしたのだが、近くにいたのは歩くのも大変そうなじいさん1人しかいなかったので、しかたなく女に手を貸した。

「歩けますか?」

俺は柄にもなく、そう聞いた。本当は別に心配なんかしてないのだが。

「しばらく休めば、また立てると思います」

 そう主張しているが、全然そんなふうには見えない。蚊が鳴くどころかミジンコが鳴くような声だった。俺はとりあえず彼女を抱きかかえるようにしながら、近くのソファーに座らせた。女は暖かく、柔らかで、甘やかな匂いがする。

 女が考えを変えぬ限りは、近いうちに冷たい骸になるのだが、今は確実に生きて、呼吸している。そう思うと、不思議な気がした。それは俺も一緒だが。

「エアカーで、あんたの家まで送ろうか」

 女の顔に表情らしきものができる。それが笑みだとわかるのに、時間がかかった。

「ナンパしてるの?」

「そんだけの元気があったら、ここには来ねえよ」

 思わず、いらつく。

「それも、そうね」

 女は声をあげて笑った。こんなふうに笑えるなんて思わなかったので驚いた。まるで、枯れ木に花が咲いたようである。結局俺は、少しは元気を取り戻した彼女を引きずるようにしながら、駐車場に止めたポンコツの助手席に彼女を乗せた。

 俺はドライバー・シートに着くと、彼女の家の住所を聞いて、コンソールに入力する。後はオートメーションで、目的地に向かって滑空した。俺はいつものように、無煙タバコに火をつけようとして手を止める。

「吸ってもいいわ。気にしないから」

 女の言葉に甘えて俺は、くわえたタバコに火をつけた。そして大きく息を吸いこむ。死んだじいちゃんは、無煙タバコなんて物足りないと嘆いていたが、俺は気にした試しがない。それよりもまた値上がりして、一箱が5000アジアで売られているのが気にくわない。

「猶予期間なんて、いらねえのにな」

俺はフロントガラスの景色を見ながら、つぶやいた。

「すぐにでも注射打ってくれればいいのに。後は眠るみたいに苦痛なく死んで、ぶざまな人生とはおさらばだ」

「そうね……。あたしも早く死にたいな」

 俺は女を横目で見た。顔色はよく、健康そうだ。少なくとも、尊厳死を選ぶ理由は肉体的な病が原因じゃないようだ。

「この辺でいいかな」

 俺は女の申し出た住所の近くまで来たのでエアカーを停止させて、路上から30センチぐらいの上空でホバリングさせた。その時である。歩道の隅に、ガラの悪そうな3人の若者がしゃがんでいるのが目に入った。

 3人共目はナイフのように鋭くて、違法の、煙の出るタバコを吸っている。覚せい剤をやっていた者がいるらしく、足元に空の注射器が落ちている。腕にタトゥーを入れている者もいた。3人に気がついた女の目に、恐怖が浮かんだ。

「家のすぐ前まで送ろう」

「そうして」

 俺は再びエアカーを前進させた。『水と安全はタダ』と言われたのは昔の話で、失業率が10パーセントを超えてから、日本の治安は崖から転がりおちるように悪化したのだ。平日の昼に今みたいな連中がたむろってるのも珍しくない。

じいちゃんが生きてれば、きっと嘆息しただろう。やがて車は、白い瀟洒なマンションの前で停止した。

「ありがとう。送ってもらって」

 女は礼を述べて、助手席から外に出た。

「元気でな」

 俺の言葉に、女は楽しげな笑みを浮かべる。

「もうすぐ死ぬのに『元気でな』って何よ」

 俺もつられて笑ってしまった。

「よかったら、あんたにやるよ」

 俺は護身用のスタンガンを相手に投げた。

「大丈夫。あたしも1つ持ってるから」

 女は一旦受けとったが、また放りなげてよこした。彼女はその後マンション入口の風除室を通って、建物の中に入る。そしてエレベーターに乗りこんだ。郵便受けをちらりと見たが、名字が表示されているのは1つもない。

 宅配業者を装って部屋に侵入する強盗が頻発してるので、無理もなかった。俺は再びエアカーに乗りこんでコンソールを操作して、自分の住所に向かわせる。車体が再び上昇し、目的地に向かって飛翔を開始した。

 吸いおえたタバコをコンソール脇の灰皿で潰しながら、ミラーに映った自分の顔がバカみたいににやにやしてるのに気づく。こんなふうに笑えたのは、一体いつ以来だろうか。契約してる駐車場に車を止めると、自分のアパートに進む。

部屋に戻ると、突然気持ちが底なし沼に沈んでいくような気がする。とてもじゃないが、後1週間も待てる気がしない。その前に死んじまおうか。俺は棚からウィスキーのフラスクを取り、そのままストレートで呷る。どうしても、酔えそうにない。早くこの世とおさらばしたい。

                   


 1週間後、俺は再び区役所に向かった。先日会ったカウンセラーの前でもう1度気持ちが変わらぬのを宣誓し、必要書類にためらわずサインした。宣誓は録音及び録画されており、こないだのカウンセラーだけでなく、有村という若い女も立ちあったのだ。

 その後俺は有村に、別室に連れていかれた。部屋に入るとソファーに座る。ソファーの前のテーブルには、好物のアップルティーが置いてあった。淹れたてで湯気が立っている。

「こんなのいらないから、さっさとやってよ」

「今日で最後なんですから、あせらなくてもいいじゃないですか」

 有村は、邪気のない笑顔を浮かべてそう返す。

「時間かけても、俺の気持ちは変わりませんけどね」

「結構です。引きのばすつもりはありませんから」

 部屋の一角にはホログラムが浮かんでいる。どこの国かわからないが、美しい青空に綿菓子のような白い雲がゆうゆうと泳いでおり、その下にはコバルトブルーの澄んだ海がきらめいている。

「モルディブです。行った経験ありますか」

 俺の視線に気づいたらしく、有村とかいう女が尋ねた。

「ないですね。行きたいとも思わない」

「綺麗でしたよ。まるで天国みたいな所」

「天国ね……俺の人生とは別世界だ」

「思い残した事や、言い残した言葉はありますか」

「ないですよ。無駄話はいいから、さっさと俺を殺してください」

「最後に会いたい方はいますか」

「いないです。いたら、こんな所に来ない」

「わかりました。それでは、あなたに会いに来た方がいらっしゃるので、こちらにお通しいたします」

「そんな奴いねえよ」

 俺は怒鳴った。それには答えず有村は俺が来たのと反対の扉を開けた。そこから数名の人物が現れる。1人は近所のコンビニでよく見るパートのオバチャン。そんなに話したわけでもないのに、何でここにいるんだろう。その目が涙ぐんでいる。

もう1人は小学校の時仲のよかった男の友人。相手が名乗って、ようやく思いだしたのだ。

「今日はどうした」

俺は尋ねた。

「親父さんの転勤で、あれからアメリカ暮らしだろう」

「小学校時代の同級生から連絡があって、慌ててボストンから来たんだ」

「ここに来るのは、誰にも話してないんだけど」

「きっと、何となくわかったのよ」

コンビニのオバチャンが、横から口をはさんだ。

「あたしもそう。こないだ会った時、今日で来るの終わりだって話してたし、最近つらそうだったから」

 確かにボソッとしゃべったけど、毎日大勢お客さんが来てるのに、何でそんなの覚えてるんだ……。オバチャン以外にも、よく通ってたマンガ喫茶の男の店員や、俺がばっくれたバイト先で一緒に働いてた女の子の姿もある。

いずれもそんな親しかったわけじゃないのに、誰もがまるで病床の友人か親戚を見守るような悲しげな目で、俺を見ていた。そして、意外な男の姿が現れる。

老けたので名乗るまでわからなかったが、子供の頃今は亡くなったお袋と俺を置きざりにして、他の女と駆け落ちした父親だった。

「死ぬのは、やめてくれないか……。今さら俺がこんな事言える立場じゃないが、お前が立ち直るためなら、俺は何でもする。俺が憎いなら、代わりに俺が死んでもいい」

 父親は涙を流しながら土下座した。久々に見たこの男は、昔よりも小さく見える。そして最後に現れたのは、俺が1週間前に車で送った例の女だ。

「あんた、死ぬんじゃなかったのか?」

 俺は驚いて、質問する。

「やっぱり、もう1度生きる事にしたんだ」

彼女は泣き笑いの表情で話した。

「あなたの優しさに触れたら、もう1回だけ生きようって思ったの」

 彼女の目から涙が流れた。こいつら一体どうしちまったんだ。頭がおかしいんじゃないのか?

「有村さん」

永遠にも思える時が流れた後で、俺は尊厳死担当の女に声をかけた。

「モルディブって、そんないい所なの?」

「ええ、とっても。楽園なんて言葉が陳腐に思えるぐらい素敵な場所ですよ」

 陽だまりのような笑顔で彼女は返答する。きっと周囲から愛されて育ったのだろう。そうでなければ、こんな笑みを浮かべたりはできないはずだ。俺には絶対に不可能な表情だ。

「そんな美しい所なら、今度行ってみようかな」

 俺はソファーの手すりをつかむと、心身を蝕む暗鬱のために重く感じる両脚を引きずるようにして立ちあがった。もういっぺんだけ生きる道を選んでみよう。もしかしたら、やり直せるかもしれないと思えてきたのだ。

 きっと、この人達となら。

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