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短編集 〜 カレッジノート〜 

崩落単位補習棟

作者: 星川ぽるか

 蛍光灯が明滅する大学にある最果ての棟。別名、崩落単位補習棟。

 悪徳極まる怠け者、腐れ大学生の性根を暗闇の中で叩き直す地獄の補修室が埋め尽くす八号棟。今日もそこに多くの学生が収監された。彼らは等しく飛ぶ鳥を落とす勢いで単位を落とすどうしようもない学生たち。

「ここから出しやがれ!」

「今日は常闇麻雀界のトーナメントがあるんだぞ!」

「単位が欲しいなんぞ誰が言った!」

 冷たい牢獄の中で口々に罵る声が響き渡る。牢獄の中は机と椅子、仮設ベッドが置かれており、隅々まで掃除がされた綺麗な一室だった。しかし彼らが学問から逃げださないように鉄格子がされてある。秋も深まる昼間の土曜日、一人の男が長い髪を揺らしながら収監部屋の前を歩く。それぞれの小部屋で鉄格子を掴む学生たちを見回し、声高らかに笑った。

「ぬははははっ! よく来たな! 単位を落とすしか能のない小童こわっぱども!」

 スーツを着て、長い髪をくしでとく気取ったそいつに学生たちは驚きの声を上げた。

「テメェは霜崎准教授!」

「喜べ腐れ学生ども。私が此度の補習官に任命された。たっぷり二週間、貴様らがサボータージュした単位を私の生物学で補ってやろう」

 霜崎准教授とは大学構内でも悪名高い准教授である。その名を聞くだけで誰もが軽蔑に値すると評した。彼は女子大生の特に美人は一切出席しなくとも菓子の一つでも貰えれば単位を与える生粋の女好きだ。女子大生は霜崎准教授のさがを平気で利用し、男子学生はただ歯を食いしばりお菓子をもらう准教授を憎みつつも正直言って羨んだ。そのせいでこの監獄に女性は一人もいない。

「学長の優しさに感謝するがいい。本来なら放置し、学費だけを搾り取っていいものを、こうして卒業のチャンスを与えるのだからな」

 この崩落単位補習棟は、腐れ大学生たちが我が者顔で単位を的確に落とし行く彼らを見かねた救済措置であるという。だがいくら自分たちの単位のためとはいえ、男だらけの男しかいない男臭い連中と二週間も過ごさねばならないのが彼らは我慢ならなかった。

「俺たちに生物学は無用なり!」

「単位より女性との縁をよこせ!」

「それが無理なら酒をよこせ!」

 色と欲に塗れた無念が飛び交う中で、霜崎准教授は垂れた前髪をつまみプロジェクターを下ろした。

「この私がわざわざ崇高な講義を披露してやろうと言うのだ。ありがたく聴け。女性から菓子の一つももらったことがない負け犬どもめ」

「テメエは単位で釣っただけだろ!」

「ぬははははっ! 負け惜しみならなんとでも言え! その冷たい鉄格子の隙間からしかと講義を受けよ!」

「クソ野郎が!」

「貴様の教授昇進は絶対に阻止してやるからな!」

 こうして、崩落単位補習棟の地獄の補習期間が始まった。

 スマホも取り上げられた彼らは外界との接触の一切を断たれ、昼と夜は食堂のメニューが届き、足りなければ段ボール箱にあるどん兵衛を食べる。冷蔵庫には大量の水が置かれてあり、電気ケトルと珈琲があった。噂では過去の学生が必死でかき集めた品物らしく、教授側もこれを黙認していた。

 崩落単位補習棟で迎えた一日目の夜。

 ここに収容された吉田はうめき声を上げた。

「こんなところに二週間もいたら命がいくらあっても足りん」

 どこを見てもTOTO並みの白さを発揮する牢獄の部屋に吉田はめまいを起こした。人工的な純白さが吉田のうちで眠る学問精神に追い打ちをかける。ひっそりと佇む勉強机が段々と魔王に見えてきた。装備も精神も何もかも足りてない現状で魔王と二人っきりではたとえ勇者の素質を持ってしても困難を極める。吉田はまだ成長途中の駆け出し冒険者であり、「まだ戦う時ではない」と綿密な自己分析を持って数々の単位をふんぞりかえって見過ごしてきたのだ。やれと言われてやれるなら大学なんぞに来てはいない。もしそれでも単位を取れと圧力をかけてくるなら一度外へ出て六甲山に漂う清らかな空気が必要だ。さらに言えば六甲牧場のコーヒー牛乳が不可欠である。

「クソッタレ! 俺を孤独死させる気か!」

 静まり返った牢獄で叫んだ。その声に反応した男がいた。

「その声は吉田か?」

 声は隣の部屋からした。聞き覚えのある声に吉田は鉄格子を掴んで顔を近づける。左の方へ視線をやると微かに鉄格子を掴む人間の手が見えた。

「もしや竹内か?」

「ああ。僕だ」

 なんと隣には同じ屁理屈部で過去にしのぎを削った無二の戦友、竹内がいた。彼の茶色の眼鏡が鉄格子からはみ出ている。

「まさかお前まで捕まったのか」

 同じ大学三回生の傑物である竹内を捕まえるのは至難のわざであろう。吉田は信じられなかった。あいつほどの男が隙を見せるなんて大学構内のマドンナ泉さんの前以外ではあり得ない。

「一体、何があったんだ?」

「僕としたことが泉さんの親友とかいう女とお茶をした時から記憶がない。僕は泉さんの身辺調査をしていて、彼女の貴重な話を聞かせてくれると聞いたんだが、たぶん一服盛られた」

「そんなことをする奴らは……」

「ああ、聖女上座連盟しかいない」

 聖女上座連盟。そのにっくき名を知らぬ学生はいない。構成員の八割は美女であり、残り二割は現代の小野妹子と呼びし至宝級の美女が在籍する心優しい乙女たち。恋人はおろか女性の友人すら作れない哀れな男子学生たちの弱みにつけ込み、男たちを奴隷にして回っているというおおよそ聖女と呼ぶに値するかわからない女たちだ。できれば関わり合いになるなともっぱら敬遠される彼女たちだが、そのあまりに高すぎる可愛さ偏差値によって鉄の魂を持つ硬派な男たちが次々に陥落した鉄面皮瓦解事変は記憶に新しい。彼女たちの奴隷になったら最後、もう聖女上座連盟ナシには生きていけない体になってしまう。そして彼女たちも有意義な学生生活を謳歌するなら闇討ちも辞さないしたたかさを有している。こちらが屁理屈をろうする暇もなく持て余した美貌で相手を撃沈させる。はっきり言って屁理屈部の天敵だった。

 吉田は静かに言った。

「このままここにいたら頭がどうかしちまうぞ」

「しかも二週間だろ? 七日後にはファッションサークル「ひまわり」のショーがある」

「だからなんだ? ファッションショーなんぞ、俺たちが軽蔑する催しの一つじゃないか」

「そこに泉さんが出る。僕はなんとしても彼女の姿を見なければならない」

「本当か?」

「確かな情報だ」

 過去に吉田は泉さんに惚れた過去がある。彼女は一年前、男しかいない屁理屈部に突然入部し、あらゆるお題で屁理屈を披露するさもしい男たちを真正面から屁理屈で薙ぎ倒した。明石の大蔵海岸で肩を寄せるカップルを見下し、和気藹々(わきあいあい)とするファミリーを見て勝手に傷ついてさらに孤独をこじらせた吉田たちは呆気なく敗北した。泉さんの美貌も相まって、入部後わずか二ヶ月でほぼすべての男子を悩殺した。彼女の屁理屈の大部分は「屁」のような論理で構成されており、「理屈」の部分はひと欠片しか見当たらない。思い返せば数々の穴があったことに気がつくもののその場で討論すれば勝利の女神そのものを相手にしている気がして、勝てる気がしない。それが泉さんという人の百ある魅力の一つである。

「いくら泉さんが出るからといって、よくわからん格好をしているんだろ?」と吉田は言った。

「あの人は何を着ても似合う。そういう星の元に生まれたんだ。それに噂ではやや露出がある。つまり底の浅いチャチなものじゃなく、高尚なエロティックと言える。隠された乳や強調される腰つきがたった数枚の布で覆われていることでそこに隠された神秘を輝かせて彼女がランウェイするのだ。こんな世紀の瞬間を見逃して今後の半生を送るなんて僕にはできない。単位なんて追ってる暇じゃない。追うべきは泉さんだ!」

 吉田からは見えないが、確実に竹内は鼻血を流していると思われた。彼が泉さんを語る時は決まって貧血に陥る。血を流すほど惚れる彼を吉田は男の中の男と称えていた。

「竹内が世紀の瞬間と断言するのであれば、俺も行かないわけには行かない。ここから脱獄するぞ」

 吉田と竹内はともに手を叩き、響き渡る拍手の音を握手の代わりとした。


 翌朝、七時にベルが鳴り響き問答無用で叩き起こされる。惰眠を貪る才覚に優れた囚人たちが半目で牢屋から出てきた。わずか三十分の解錠時間の間に朝食と歯磨きなどを済ませなければならず、食事の受け取りも洗面台も行列ができている。進まない列に朝から苛立ちを募らせ、精神的に不安定な状態で悪辣准教授が優雅にやって来た。

「朝から辛気臭いな」

 当然のように霜崎准教授へ満腔の怒りを握りしめる学生たち。殺気立つ空間の中で、吉田と竹内は静かに息を潜めた。八時から補習講義を受け、十二時に昼食を取り、午後からは午前の講義の続きをしてから小レポートを出される。この監獄のローテーションは以上の構成になっており、飯時以外は収監されている。万が一脱獄が失敗すれば、恐ろしい地獄が待っているという。それは生きる伝説の五回生、浄蓮寺先輩でさえ泣きじゃくって「なんでもするので助けてください」とみっともなく懇願するほど凄惨な結末が待っているらしい。だからと言ってここで大人しく歯を食いしばって補習を受けるなど吉田はできない。単位よりも潤いを。暗い天井よりも高い青空を。できれば輝かしい栄光を。ここから逃げて聖女上座連盟の力が及ばない兵庫の端まで一時撤退するのが吉田の人生にとって必要だ。差し当たってはまず、過去の恋の清算をするべくファンションショーをこの目に焼き付けることが急務であった。

 収監二日目の夜。

 どこぞの学生がいびきを響かせる崩落単位補習棟。その中、吉田と竹内はヒソヒソと話して計画を練る。

「それで、どうやってここから出る? 外への扉の鍵は霜崎が持っている。唯一の窓も鉄格子がされて顔も通らないサイズだ。牢屋を抜け出す道具も穴を掘るものもない」

 小窓から差し込む月明かりを頼りに崩落単位補習棟の全体図を書き上げる。牢屋となっているのは二階フロア。長い廊下に牢屋が8部屋あり、鉄格子の向こうには教壇とプロジェクターがある。脱出をするのであれば階段に通じる鍵のかかった扉を開ける必要があった。

 吉田がどうしたものかと頭を悩ませる中、竹内が策を巡らせた。

「やはり外部からの協力が必要だ。脱獄の常套手段だけどこれしかない」

 吉田と竹内は正反対の人間である。吉田は行動的で常にデンジャラスな生き方をしており、闇サークルの数々を踏破する裏大学生だった。竹内もまた吉田に負けず冷酷無比な男だが決してそれを表に出すことはない。真面目に講義を受け、皺の多い脳にドイツ語をこれでもかと詰めてさらに皺を増やす。竹内は屁理屈部の数少ない知性であり、やる時にはやる時の男で、吉田はやる時になってもやらないことが多々ある男だった。

 二人がその存在を明確に意識したのは、屁理屈部で行われた伝統行事。その名も「とろろ伯爵争奪戦」という全身にとろろを浴びても一歩も動かない名実ともに硬派な男を競う誰一人として称えない勝負がある。当時、吉田と竹内は一回生ながらも互いに決勝戦まで駒を進めて互いにとろろを被った。パンツ一丁という雄々しくも破廉恥な姿で断固として動かない硬派な男同士の対決は陽が沈むまで続き、彼らの皮膚が噴火寸前まで真っ赤に燃えて、被り続けるとろろが大学構内の三分の一を占め始めた。パンツ一つでとろろを浴びるいささか卑猥にも思える光景に大学構内は異様な雰囲気が漂った。残りの部員たちが健康福祉と領土侵犯を鑑みて、とろろ伯爵始まって以来の同時優勝という前代未聞の決着がついた。とろろ伯爵という限りなく不名誉に近い称号を互いに手にした吉田と竹内はその日から「こいつできる」と互いに意識した。無論、誰一人として彼らに賛辞を送る者はいなかった。

 外部からの協力と竹内は言ったが、吉田は苦言をこぼした。

「スマホも無線機もない。どうやって外と連絡を取るんだ? それに屁理屈部の奴らですら手を貸したりしない。無理だろ」

「安心してくれ。策はある。ただ時間と運の要素が強い。だけど今考えてる方法なら霜崎にバレることなく協力者を確保できる」

 自信ありげに竹内は言った。

「その方法はなんだ?」

 吉田が聞くと鉄格子の方の前で何かが擦れる音がした。近づくと一枚の写真が竹内の牢屋から飛んできたようであった。鉄格子の隙間に腕を伸ばして写真を拾う。そこには竹内が愛してやまない泉さんのメイド姿が映っていた。

「吉田、釣りに自信はあるか?」


 収監三日目。

 食堂から昼食が運ばれて並ぶ列の中で吉田がおばちゃんから昼食を受け取る。しかし振り返った途端に後ろに並んでいた学生とぶつかってしまい、お盆から味噌汁やご飯が盛大にこぼれた。

「ああ、すまない」

 彼はすぐに掃除を始めようとするが雑巾も何も持っておらず途方に暮れた。

「何をしている?」

 午後のティータイムに洒落こもうとした霜崎准教授が足を止めた。

「ご飯をこぼしてしまって」

「ふん。単位も落とし、飯も落とすのか。つくづく馬鹿だな」

「ええ、おっしゃる通りで。情けない話です」

「トレイの用具室からモップと雑巾を取ってこい。次に私が戻ってくるまでに今以上に綺麗にしておけ。私の美しさの前で汚物をさらしてくれるな」

「はい。わかりました」

 吉田は急いでモップを担ぎ、汚れた床を綺麗に磨きあげた。


 その日の夜、二人の計画は動き始めた。

「いわれた通り、棒になるものを用意した」

 吉田の牢屋には昼間に掃除に使ったモップと雑巾がある。さらにトイレの用具室から紐と雑巾を干していた洗濯バサミを持ち出していた。彼は道具を返すことなく、見事に部屋まで運んだのだ。

「さすがだ。向こうもまさか掃除道具が脱獄につながるとは夢にも思わないだろう」

 それから吉田は薄い壁向こうにいる竹内の指示に従い、脱獄道具を製作する。モップの棒の先端についたフックに紐を通す。決して外れないようにキツく縛って、八メートル弱に伸ばした長い紐の先に洗濯バサミで泉さんの宝石のような写真を取り付ける。

「よし。できたぞ」

「そいつで釣れた奴を協力者にする。昼休憩と補習が終わってすぐの時間にその窓から垂らしてくれ」

「任せろ。目を瞑りたくなるような立派な阿呆を釣ってやる」

 泉さんを餌に使った阿呆釣り作戦。竹内が言った通り時間と運による勝負に吉田は密かに燃えていた。次の日から作戦は始まった。崩落単位補習棟の二階から垂れる美しい写真が風の吹くまま揺れている。竹内の計算ではジャンプして取れるかどうかの長さであり、確実に取るなら木に登って取るような距離にしてあるらしい。そうまでして必死に写真を撮る男は阿呆以外におらず、二人はそんな阿呆を頼りにした。あとは吉田がまんまと食らいついた阿呆を釣り上げるのみである。だが往々にして釣りとは待つだけのものだ。それ以外にすることはなく、待ちぼうけを喰らわされてもめげない器の大きさが必要になる。来るのか来ないのか、そもそも自分が糸を垂らすところに獲物はいるのか。そんな疑心暗鬼に陥る己と空虚な時の流れに身をやつし、ひたすら待ち続ける忍耐が問われるアクティビティなのだ。

 しかし待てども待てども泉さんの写真は誰にも掴まれることなく、五日目の夜を迎えた。吉田は忍耐を問われすぎてすっかり口を閉ざし、流れる雲と夜空をただ仏像のごとく眺めるだけの永久機関へと化していた。

「吉田、平気か?」

 それは竹内も同じだった。

「今日もどうでもいい一日が暮れる」

 ひび苛烈さを増す補習。半ば禁欲的生活を強制される牢獄。一人の乙女もいないむさ苦しい一日。勉強机以外何もない白い部屋。まったく引っ掛からない阿呆に二人の心は泉さんを求めていた。一刻も早い脱獄が二人を救う唯一の道だ。しかし今日も今日とて餌に食いつく阿呆はいない。

「無謀な賭けだったのか……」

 吉田が弱気になるのも無理くらぬ話だ。そう思った矢先だった。今まで微動だにしなかった釣り竿に引っ張られる感触が伝わった。

「きた!」

 吉田は息を吹き返した。モップを上に引っ張り上げ、確かな手応えを感じる。獲物は断固として写真を手放すつもりはないようで、たるんでいた紐が背伸びをするかのように張っていた。紐に手をかけた吉田は慎重に手繰り寄せる。小窓の前に椅子を置いて、一体誰がつかんだのか、獲物の正体を確かめた。小窓の外を覗く。一本の大きな木が月に照らされて、幹に跨った貧相な体をした男と目が合った。吉田は男に見覚えがあった。

「……遠藤か?」

「お久しぶりです。吉田さん」

 洒落た丸眼鏡がよく似合う後輩の遠藤であった。彼は闇鍋遊戯会に所属する2回生で、知性溢れる見た目と相反して泉さんに心底惚れている阿保学生だった。闇サークルを練り歩いていた吉田は遠藤を見かけた時、あと一年早く生まれていれば俺たちと肩を並べていたと感心するほど一目を置いていた。手には泉さんの写真をぎゅっと握っている。

「まさかお前が釣れるとはな」

「何の話ですか?」

 ここへ来て天からの追い風が吹いた。遠藤ほどの泉信者を吉田は竹内しか知らない。彼もまたどうしようもできない恋に心を痛めてそれでも泉さんを追いかける生粋の純愛者であり、叶わぬ恋路に痛めつけられながらも嬉々として喜ぶマゾヒストだった。

「遠藤、頼みがある。聞いてくれたらその写真と他にもエロティックな泉さん写真をくれてやる」

「まったく話が見えて来ませんが、喜んで引き受けましょう。話の前にまず前料金でこの写真だけは貰っていきますね」


 遠藤の協力を取り付けて迎えた収監七日目。

 ついに泉さんのファッションショー当日。夕方までに崩落単位補習棟から脱獄すれば彼らを待つのは天女の恵。単位という名の邪悪な鎌を振り回す霜崎准教授の手から逃れる大勝負を前に、吉田は武者震いした。

 今日も悠々と教壇に立つ霜崎准教授は前髪の毛先をいじりながら講義をしている。ほどなくて昼休みを迎えて、霜崎准教授は教壇から降りる。牢屋の鍵を開けた。

「いいか。今回やったところはこの生物学でもっとも重要なところだ。だらだらとしたレポートを出せば容赦なく不可をたたきつけてやる」

 そろそろだろう。

 吉田と竹内は下卑た笑みを浮かべた。

 午後の講義。今日も日課のゴールデントリップを堪能した霜崎准教授は学長直々に抜擢されたこの補習担当として気合いが入っている。じき教授昇進筆頭の彼はここで四苦八苦する腐れ学生を見下ろし、彼らに単位を取らせて己の評価も確保し、最年少教授として大学の教壇に躍り出る魂胆であった。

 午後の講義。クラゲの遺伝子について説明をしている中、霜崎准教授はなんだか腹の調子が悪くなっていることに気がついた。紅茶を飲み過ぎたせいかと思い、気にすることなく講義を続けること十五分。無視できないほど強烈な痛みが准教授を襲った。額に玉のような汗を浮かべ、小鹿のように足を震わせる。前屈まえかがみで必死に歯を食いしばる彼に、竹内が声をかけた。

「准教授、早く講義の続きをお願いします」

 返答すら億劫になる准教授は「ああ」と死にそうな声で言った。

「……で、あるからしてクラゲの細胞にはまだ未知の部分があり」

 ぎゅるぎゅると嫌な音が響く。霜崎准教授は白目を剥いて、顔を引き()らせた。頭の中で醜態をさらす己のイメージがむくむくと膨らみ、尻の防壁が瓦解するのを予感した。ここで幼児のように漏らせば、クソ漏らし教授という汚名を被ることになる。そんなことになれば、いくら単位を振りまいても女学生からは冷たい視線しか寄越さなくなる。しかし、ここで講義を止めれば今後の評価に関わる。学長の評価と醜態とを天秤にかけ、そして苦渋の決断をした。

「しょ、諸君……講義の続きは明日だ。今日はここまで。レポートを出すから明日に提出したまえ!」

 そう叫ぶと霜崎准教授は慌ててトイレへ向かって駆け出した。


 吉田と竹内は互いにほくそ笑んだ。

「遠藤はやってくれたようだな。お前の作戦はいい切れ味をしてる」と吉田は嬉しそうに言う。

「奴が食堂のテラスで紅茶を飲んでるのは有名だからな。いちいち小指を立てて飲むような男に一服盛るなんてわけない」

「俺が賞賛してるのは自分がやられた方法で相手を嵌める、その精神だよ」

「褒めるな。だがここからだ。あと30分もすれば体育館でショーが始まる」

 二人が気合いを入れ直すと、ニ階フロアの階段口の扉がゆっくりと開いた。顔を覗かせたのは遠藤だ。

「吉田さん」

「ここだ」

 遠藤がやって来て牢屋の鍵を開ける。牢屋から数日ぶりに解放された吉田はすぐに「竹内も解放してやってくれ」と言う。遠藤が竹内の牢屋を開ける中、彼は「どこで鍵なんて?」と(たず)ねた。

「観測サークル『のぞみ』から借りました。彼らはこうした取引もやる中立のサークルなので」

 こうして竹内も解放される。その様子を見ていて他の囚人学生たちが「俺も出してくれ!」と懇願してくる。吉田は意趣返しに霜崎准教授の教授昇進を阻止すべく彼らを解放した。


 崩落単位補習棟始まって以来の大脱獄に、世界へ飛び出した低空飛行の学生たちはハシャいだ。吉田と竹内は脇目も振らず体育館を目指した。幸いにも崩落単位補習棟と体育館の距離は近い。二人が急いで中に入ると、体育館の中は満員状態だった。中心にランウェイ用の黒いステージが設置されてあり、すでに何人かの女性が独特な服を来て歩いている。

「どうにか間に合ったか?」

 不安になった吉田は後ろについて来ていた遠藤に聞いた。

「泉さんなら中盤の後ろの方です。おそらくもうすぐですね」

「そうか。彼女のために自由を得て来たんだ。見逃すなんてオチは俺が許さん」

「僕はこのまま先頭の方で泉さんの写真を撮ります。では報酬の件、よろしくお願いしますね」

 遠藤は足早に立ち去り、一体どこに通る隙間があるのかと言いたくなるような人混みの中に消えて行った。

 竹内の方へ振り向くと、彼はいつの間にか涙を流している。

「どうした?」

「いやなに……僕は正直、なかば諦めかけていたんだ。それがまさか本当に間に合うなんて思わなかった」

 ぽろりと溢した竹内の気持ちに吉田は深く共感した。そして共感した自分を恥ずかしく思った。

「竹内、俺を殴ってくれ」

 吉田は彼の顔を見た。

「俺も正直、遠藤を釣るまでべつに脱獄しなくてもいいんじゃないかと考えてしまった。遠藤がいなければ、俺は脱獄を諦めていた。そもそもあんなのに釣られる阿呆がいるのかと言いたくなった。ここで殴ってくれないと、お前と一緒に泉さんのショーを見る資格が俺にはない。ただし少しだけ手加減してくれ」

 竹内はちょっと手加減して殴った。

「吉田。僕を殴ってくれ。さっきと同じくらい手加減して殴ってくれ。僕もお前が釣りをしている間、何をやってるんだろうと思い、やっぱり脱獄とか面倒だなと思った。まだまだ精神の鍛錬が足りない証拠だ。ここでお前に殴ってもらわなければ、僕はお前とショーを見る資格がない」

 吉田はちょっと手加減して殴った。そして二人は互いに握手を交わし、きたる女神を涙ぐむ瞳で待った。友情を確かめあった男の二人はスポットライトに照らされるランウェイを見つめた。まもなく泉さんが登場する。アナウンスされた泉さん登場の予告に感極まっていると、吉田は誰かから肩を叩かれた。

「随分と楽しそうではないか」

 額に血管を浮かべた笑顔の霜崎准教授が立っていた。

「……なぜここに?」

「それはこちらのセリフだよ。八号棟のトイレがどれも使われていてやむ無くこちらのトイレへと駆け込んだが、お前らはなぜいる?」

「泉さんを見るためです」

「そうかそうか。大学のマドンナを見に来たか……脱獄したな?」

「すべては泉さんのためです。わかってください」

「なぜここで平然としてられるかわからんが、今すぐ戻りたまえ。むろん、罰は受けてもらうがな」

 霜崎の気配を感じ取った竹内が横から口を挟んだ。

「どんな地獄も受けてみましょう。でも泉さんを見てからだ。准教授」

「ふざけるな。私の教授昇進もかかってるんだ。私の評価のためにも戻りなさない」

 などと押し問答を繰り広げていると、泉さんがランウェイを歩き始めた。会場が騒然と湧き立ち、その歓声に三人は自然とランウェイを見た。泉さんが悠然と歩く。堂々と進む彼女はヘソだしだった。赤いシャツに黒いスキニーパンツを履きこなした彼女はランウェイの最前まで歩むと、観客を睥睨して微笑んだ。彼女の笑みは世界に爆弾を落とした。桃色の火薬が爆ぜて、戻れと喚く准教授を黙らせた。吉田は涙を流し、竹内は鼻血を流した。その場の男子は皆膝を地につけて聖地メッカに祈る教徒のようにうずくまる。泉さんはそのまま颯爽と踵を返し、来た道を戻った。

 黙りこくった霜崎准教授はおもむろに口を開けた。

「諸君、たった今からレポートの内容を変更する。課題は泉の生態レポートだ」

 吉田は頷き「おおせのままに」と言う。

 竹内はポケットにしまった泉さんの数々の写真を取り出し、「資料はこちらに」とかしずいた。

「よろしい! なら今すぐ取り掛かれ! 私も本気で書き上げてやろう! 貴様らの脱獄も、私の腹痛も、彼女の思し召しだ!」

「さすが准教授! 話のわかるお人だ!」

「いえ、もう教授ですね!」

「馬鹿者! 単位なんぞよりも彼女のことを生物学的に解き明かすこと以上に優先する調査はなかろう!」

 三人は肩を組み、途中で打ち上げ用に酒を大量に用意していたファッションサークルから酒を拝借して、崩落単位補習棟へと戻って行った。牢屋の中であれこれと泉論を交わして夜が明ける。翌朝、見回りにきた学長が囚人のいない牢屋と泥酔しながら嬉々と書き連ねられた三人の泉レポートを目の当たりにして、准教授の教授昇進を保留にした。脱獄して行方をくらませた学生たちは留年が確定し、吉田と竹内は周りが脱獄したのにも関わらず残ったことで後日学長から褒美をたまわった。さらに三人が書き上げた泉レポートは学長の胸を深く打ち抜き、「愛の成せる論文」として一般公開されて泉さんの人気は月に届く勢いであったという。

 崩落単位補習棟の歴史において初めての大脱獄事件はこうして幕を閉じた。のちの事情聴取で吉田と竹内は「何故、脱獄しなかったのですか?」と大学当局に問われてこう答えた。

「もう脱獄したので」

 その言葉を聞いた大学当局は深く納得した。脱獄をするのかどうか、それを決めるのもまた自由である。大学当局はそう報じて大脱獄事件の顛末をそう書き記した。



9「自由」

おへそって出すものですから、へそを出していこうと思います。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 馬鹿な設定に馬鹿な展開とアホらしい結末(しかも誰にも迷惑がかからないし)というのは、青春モノの定番だった筈ですが、最近とんとお目にかかりませんでした。 これを書ける人は本当に少ないので、埋…
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