邪悪な私で良かったら
叔父からは何度か注意されていた。
もっと、好奇心をコントロールしろと。
──手のなかに本物の邪神のナマ触手がある状況で、それは無理難題だった。
「だからっ、揉まないでっ……力がぬ……あ、こらッ、匂いなんて嗅いじゃだめっ!」
「だいじょうぶ、すごくいい匂いだよ。熟した果物みたいに、甘くて濃厚で」
なので坂上さんの発する言葉も、匂いの感想を聞いてますます真っ赤に染まった顔も差し置いて、僕は触手のことしか考えられなくなりつつあった。
「ちなみになんだけど、これってどこから生えてるの?」
「はえっ!? いっ、いやらしいこと聞かないでっ! 」
「いや、純粋な知的好奇心だよ。もし良かったらだけど、生えてる根本を見せてくれないかな?」
「いいわけあるかっ! ってあッ、やっ……」
「うん、なるほど微かに酸味があるね。消化液に類するものか……」
先端をぺろりと舐めてみる。触手はびくんと大きく震え、僕の手から逃れようと暴れだした。
それから一拍置いて地面が、ぐらりと大きく揺れる。
──地震!? いや、それとも。
同時にもう一本の触手が、こちらの手首を狙って空中を走った。これを避けるため、僕は捕えていた触手をやむなく手放していた。
「あー……」
夢のような時間の終わりに嘆息を漏らしつつ、自分のなかのスイッチを入れ直す。
そう好奇心のコントロールだ、コントロール。
対する坂上さんの吐息は荒く、ハァハァと肩を上下させながら、美貌を耳の先まで真っ赤に染めている。
──まずい。調子に乗って、だいぶ怒らせてしまったかもしれない。
今の観察で触手一本ずつの力がそこまで強くないことは解った。栗原さんを軽々と持ち上げたのは、数本の力を合わせてのことか、それともあの夜と今で条件が違うのか。
「あのとき触手は八本あった。それがいまは二本だけ、スマホ用を入れても三本しかないのは、上蔵山の御神体から離れているせい?」
「──!」
「それとも月かな? 満月の夜にいちばん力が満ちる?」
「────!!」
「もしくは僕が、坂上さんに畏れを抱いてないせい?」
「────!?」
彼女はずっと無言でこちらを睨みつけていたけど、少しずつ大きくなる表情の揺らぎから、すべて図星であることが手に取るようだった。
「ねえ……ほんとうに、なんなの……佐藤くんおかしいよ、どうして私を怖がらないの……? 常世神を何だと思って……」
彼女は両手で顔の下半分を覆いながら、うしろに数歩よろめく。赤い瞳の浮かぶ深淵のような黒目が、震えながら収縮して、外周から白目に戻っていく。
「どうしてと言われても、僕は坂上さんに魅力しか感じないから、怖くはないよ。きみの正体も触手もぜんぶ込みで、大好きだから」
よく考えるとすさまじく歯の浮くセリフを、僕はすらすらと口にしていた。
けど、さらによくよく考えると、これはオタクが推しを語っている状態と一緒なので、口が滑らかに回るのは当然と言えば当然だ。
「そう…………神に嘘を吐けば、どんな人間にも畏れは生まれるはず…………だから佐藤くんはきっと、本心を話してくれているのね」
良かった。どうやら、わかってもらえたらしい。
「私を好きだって言うひとは、たくさんいた。同世代だけじゃない、おじさんもおじいさんも女の人も。信者を集めやすいよう魅力的に産み出されるのが依代だから」
うつむいて、語る彼女はどこか寂しげに見える。
「でも正体を知ると、恋慕も愛情も肉欲もぜんぶ、恐怖に変わってしまう。だからみんな同じ、私の信者にするだけ」
真剣な表情は彫刻めいて、あまりにも美しい。僕はごくりと、生唾を飲み込む。
「私は憶えてないけど、ずっとずっとずっと、そうだったみたい。佐藤くんみたいに異常なひとは、千年以上ひとりもいなかった」
確か、常世神信仰が流行したのは西暦六百年台の半ば。上蔵山に御神体が鎮座したのと前後関係は定かじゃないけど、とにかく気の遠くなるような時の彼方だった。
「だから本体は、あなたを畏れてしまった」
「……えっ? いやいやそんな、神様を怖がらせるようなこと、してない……よね……?」
「したよ」
「したの……!?」
一体、いつの間に?
「神は……すくなくとも常世神は人から畏れられることで神として存在できる。なのに人を畏れてしまったから、神としての権能が、一瞬だけど大きく弱まった」
もしかして、それはさっきの地震のタイミングだろうか。
「そのときに、貯め込んだ畏れも半分ぐらい解放されちゃった。また五百年は地道に集めなきゃ」
「……なんか、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
「ふふ、なんで謝るの? とりあえず向こう五百年ぶんだけど、佐藤くんは人間の世界を常世神の支配から救ったことになるのに」
ようやく少し微笑んでくれた。
どんな表情でも素敵だけれど、やっぱり笑顔がいちばん可愛いと思う。
「いやあ、話が途方もなくて実感ないよ。それに坂上さんも、あんまり気にしてなさそうだね」
ぶっちゃけ僕としては、超巨大邪神の羽化を見れなくなったことが残念な気もしてしまう。いやもちろん世界中が信者化されたらいろいろ困るけど、実益と趣味は話が別というかなんというか。
「まあ、常世神にとって時間は無限だから、五百年くらいどうってことないの。佐藤くんはどうせ百年後には寿命でいなくなるし、それまで下手に関わりたくないから、依代で適当にやっといて……みたいなかんじ」
……さすが神様、人間とは器のデカさの尺度が違う……。
と、そこでふと疑問が浮かんだ。人間の側は、どうなるのか。
「ちなみに解放された畏れって信者のひとに戻ったりしないの?」
「たぶん最近の──鴇子を通して吸ったここ十年のぶんは、まだ元の感情が残ってるから、新鮮なとこから戻っていくと思う。元通りじゃないけど、みんな空っぽじゃなくなるはず。あ、そうか──」
彼女は何かに思い至ったようだ。たぶん、僕が気になったことと同じ。
「──私、行かなきゃ。栗原さんのとこに」
「うん、そうだよね」
世界の終わりは回避したけど、引き換えに栗原さんにとっての「世界の終わり」が、突然よみがえってしまうかも知れない。
「あの日の彼女は絶望が深すぎたから、ぜんぶ喰うしかなかったの。今ならいい感じに負の感情だけ吸引してあげられるかも。──もちろん、吸ったぶんは常世神の糧にさせてもらうけど」
にやりと浮かべたその笑みの、半分は邪悪で、残り半分は天使で出来ている。ふたつの魅力がひとつになって、最強と化した彼女に僕はもはや見惚れるしかない。
「……あ、ええと……僕も何か手伝おうか?」
「ありがとう。でも大丈夫、お母さまやお祖母さまの代の信者さんもたくさんいるから」
気付くと三本目の触手が彼女の肩のあたりで、先端を器用に動かしてスマホを操作している。すぐに路地をふさいでいたトラックが一度バックし、距離を開けた位置に再停車して助手席側のドアが開いた。
運転席からは酒店の店主さんが、帽子をとった白髪の頭を深々と下げている。
「佐藤くんって変だけど、けっこう優しいね……」
背を向けて去りかけてから、彼女はくるりと向き直る。スカートと黒髪が、遠心力でふわりと拡がった。
「初デートの行き先、ちゃんと考えておいて」
「……えっ?」
言葉の意味を理解するのに、数秒を要する。
そう、そうだった。僕は彼女に告白した。付き合ってくださいとお願いしたのだった。
「OK……ってこと?」
「うん。邪悪な私で良かったら」
最強の微笑とほぼ同時に、忍び寄っていた彼女の触手が左右から、僕の首に巻き付いて喉を締めあげていた。完全に油断した。彼女はいま、抵抗する間も与えずに僕を縊り殺せるだろう。
それでも、僕は──
「──邪悪な坂上さんが、好きなんだ」
触手から力が抜けて首を離れていく。ぬるりと首筋をなぞる生暖かい感触の最後に、その先端がかすめるように、僕の唇に触れていった。
「また、あした」
言った彼女はとっくにこちらに背を向け、助手席に乗り込んでいる。
豪快なエンジン音と排ガスの匂いを残して軽トラが走り去った後も、首筋と唇に残った甘い感触の余韻で、僕はしばらく動けなかった。