揉まないでっ……!
子供のころから、不思議なことが大好きだった。
誰かの決めた「普通」の枠に押し込められる世の中が息苦しかった。
オバケなんて、普通にいないよ。
鬼も河童もツチノコもいない。もちろんサンタもいない。
いるわけないじゃん、普通にかんがえて。
幼稚園で同い年が大人ぶって言うたび、うんざりした。
「自分が見たことないだけで、地球のどこかにいるかも知れないだろ!」
いつも心の中で叫んでた。口にする度胸はなかった。
そんな小学生のころ、叔父が物置きに保管していた大量のオカルト雑誌のバックナンバーに出会う。
衝撃だった。可能性を否定されない、普通を押し付けられない、僕の求めていた世界がそこに拡がっていた。
付箋の貼られたページが叔父の書いた記事だと知ったとき、たまに実家に顔を出す冴えない彼は、僕のヒーローになった。
ちなみに僕の初恋の女性は「トイレの花子さん」だ。
召喚手順をいろいろ試したけど、けっきょく会うことはできなかった。やはり女子トイレでなければダメだったのだろうか。
「……え?」
僕の渾身の告白を聞いて、坂上さんの表情が固まる。
触手もぴたりと静止する。
「付き合ってください、僕と」
聞き取れなかったかも知れないので、もういちど伝える。なるべく発音をはっきり、倒置法も使う。
「ねえ、佐藤くん。いまの状況を、理解してる?」
「してる。最大限してるつもり」
「それで、私の信者ではなく、私の恋人になりたいって言ってるの? ──常世神の依代たる私と、人間みたいに男女になりたいと」
「つがっ……!? まあその呼びかたはどうかと思うけど、大筋ではそうです」
「……そう、なんだ……」
呟いた瞬間、彼女の黒い眼に浮かぶ赤の瞳が、普段どおりの白目と黒瞳に入れ替わって、優しく僕を見た。ような気がした。ほんの一瞬だけ。
「じゃあ、こうしましょう。まずは信者から──」
彼女の言葉と同時に、二人の中間地点で静止していた二本の触手が、高速で空中を走る。
薄緑色で光沢のあるフランクフルトほどの太さの触手が、一瞬で距離を詰めて僕の手足を絡めとる──寸前、右腕と左足を十センチずつ上に浮かせる。
「えっ……!?」
目標を見失って腕と足の下をすり抜ける触手。
驚きの表情を浮かべる坂上さん。
──あの夜、彼女の触手は栗原さんを手首足首から捕縛していた。そこから同じ狙いを予測し、初動から読んだ軌跡で答え合わせをし、最小限の動きで回避した。
「なんなの!」
触手が直角に曲がれないことも観察済み。左足下をすり抜けた触手が、横移動して右足首に巻きつこうとするのも予測済みだから、地に着く足をひょいと左右入れ替えてやり過ごす。
「ちょっと、逃げないで」
「そういうわけには」
手首側の触手も、上に逃れた右腕に巻き付く動きを予測し、そのまま真っすぐ挙手して回避。脳内には日曜夕方の某国民的家族アニメっぽい軽妙なBGMが流れはじめる。いい調子だ。
「んもう……!」
眉を寄せて頬を膨らませる坂上さんも可愛い。よく考えると怒り顔は相当レアだ。
ムキになって左右の足首を執拗に狙う足元の触手を、続けてステップを踏むようにやり過ごす。
同時に、手首を追いかけ胸の前まで来たもう一方の触手を僕は、先回りしていた左手で横からぎゅっと掴み、戻した右手で固定する。
「──!?」
完全に予想外だったのだろう。絶句する坂上さん。軽妙BGMの音量がどんどん上がる。……さすがにちょっとうるさい……?
「だめだ…………ごめんなさい、ちょっと待ってね」
自分を落ち着かせるように、胸元を手のひらでトントンと叩きながら、彼女は足元の触手を引っ込めた。先端は僕に向け、鎌首をもたげる蛇のように中間地点に待機させる。
そして三本目の細い触手が背後からしゅるしゅる伸び、先端に吸着したスマホを坂上さんの目の前まで持っていった。便利だな。
「──はい、鴇子です」
軽妙BGMがぴたりと止まって、彼女はスマホに喋り始めた。……どうやら僕の脳内BGMではなく、坂上さんの着信音だったようだ。好きなんだろうか、某国民的家族アニメ。
「……ええ、はい。…………そうですか。わかりました、報告ありがとう」
簡潔な通話を終え、三本目の触手はスマホを連れて背後に戻る。
はぁ、とひとつ溜め息を吐いてから、彼女は僕の目を見て口を開いた。
「あなたの叔父さんのほうにも、信者がお話をしに行ったのだけど。荒事に慣れてる六人がかりでも、あっさり逃げられたって」
まあそうでしょうね、という感想だった。そして、そういう人材も取り揃える層の厚さ、信者は一体どれだけいるのやら……。
それにしても僕側が坂上さんで良かった。
「ねえ佐藤くん。いったい、あなたたちは何者?」
「何者と言われても、ただのオカルト趣味としか……」
「いいえ。さっきの動きは明らかに、特殊な訓練を受けた人間のそれだった。思えばあの夜だって、捕まえられなかったし」
「いや、ほんとにそういうんじゃなくて、あれはね──」
──叔父いわく。
オカルトマニアの本懐は知識より何より本物との接近遭遇にある。ならば当然、僕も本懐を遂げたいと望んだ。
しかし、大半の神秘や怪異は人間に対して友好的ではない。むしろ危険であることのほうが多い。
叔父は言う。可愛い甥っ子を、そんな現場にホイホイ連れて行くわけにはいかないと。
「いいか我が甥っ子よ。真のオカルト好きは、いかなる怪異に襲われ、神秘に巻き込まれようと、己の身を守り、ときには仲間も護り、そして無事に逃れるための手段を持たねばならない。──相手を、観察しながらだ」
そうして中学一年からの三年間、僕はみっちり叩き込まれた。
いかなる危機の兆候も、そして一瞬の霊現象も見逃さない動体視力。「お分かりいただけただろうか?」の前に完璧に分かれるよう呪いのビデオシリーズを見まくった。
危機から逃れるため、あるいは疾駆するUMAに追いつくための瞬発力や身体操作も必要だ。そう、人面犬も高速ばぁばも最高速は時速100キロ超なのだから。
さらには何日でも現象を待ち続ける持久力と忍耐力、そして非現実に直面しても揺るがない冷静な判断力、強固な精神力。
これらを突き詰めた結晶として叔父が編み出した、「攻める」を捨て「観る」「護る」「逃げる」に特化した体術。
それこそが人智を超える神秘と怪異を観測し、同時に身を護り逃れるための手段──
「──護神術なんだ」
「あれが、ただの護身術……? 佐藤くん、私のこと好きなんでしょ? 好きな女の子に嘘をつくの?」
「いやその、ゴシンジュツではあるけどそうじゃなくて」
叔父さん、やっぱり漢字が違うだけじゃ伝わらなかったよ。かっこいいネーミングだけど、実用的とは言い難いよ……。
最初から話せばわかってくれるだろうか? 弁明を必死に考える。彼女の魅力的な姿を見過ぎると思考力が鈍るから、いったん手元に視線を落とす。
そこには、両手でぎゅっと捕まえた触手の先端がある。
危険なら離せばいいと思ったけど、「畏れを喰われる」ような違和感はない。
僕が畏れていないから、だろうか。放課後の道中は、それに近い感情もあった。でも今はもう、彼女にはただただ魅力しか感じない。
触手の表面はつるりとした粘膜状で、しっかり摑まえないと滑ってしまう。そして、何より。
「……なんて綺麗な薄緑色……」
思わず見惚れ、言葉に出してしまった。
「なっ!? 褒め言葉で誤魔化されると思って!」
「本物の触手状器官、はじめて触ったよ。つるつるスベスベの表面、ほんのりした温もりに、弾力性があって芯を感じる……」
すっかり目の前の触手に魅了された僕は、坂上さんの反応も気にせず、ぐにぐにと両手で握りしめ触感を確かめた。
「んッ……ちょっ、揉まないでっ……!」
そのときだろうか。
あるいは触手の色を褒めたときからだろうか。
──彼女がほんのすこし頬と耳を赤らめていたことに、僕はまだ気付いていなかった。




