私のモノになってほしいな
栗原さんは、向き合う少女の背の羽に見惚れている。
やがて天使というより妖精のような羽が、ふわりと優しく羽ばたくと──輪郭から紋様まですべてほどけて数本の蔦のように──あるいは触手のように、四方八方に伸びていった。
「──ッ!?」
驚愕しつつも双眼鏡から目を離せない。叔父の方からも、息を呑む気配がした。
空中に拡がった触手が投網のように迫り、我に返った栗原さんが逃れようとするも時すでに遅し。
両手両足から腰に首に口元に、ウネウネと巻き付く触手に自由を奪われた彼女は、もがきながら空中に持ち上げられていた。
背景の巨岩の表面が一瞬、薄緑の光を放つ。
同時に、どくんと脈動のように視界が──足元が揺れる。
「──逃げるぞ、早人。あれは洒落にならん」
叔父が僕を早人で呼ぶのは、本気の本気な状況だけ。きっと一秒の猶予もない。
それでも僕は衝動に負け、触手に全身を蹂躙されビクビクと痙攣する栗原さんから、もう一人の少女の顔に視点を動かす。
坂上さんではないことを、確かめたかったんだ。
レンズ越し、こちらを向いた彼女と目が合う。
空洞のように真っ黒な眼窩に、赤く灯る燐光の瞳。口元には上弦の三日月みたいな笑みが、ニタァリと邪悪に浮かぶ。
「急げ!」
叔父が双眼鏡ごと腕を強く引いてくれなければ、そのまま魅入られていたかも知れない。
背後からしゅるしゅると迫る何かが這いずる音に追い立てられながら、僕らは山道を転げ落ちるように逃げ帰った。
──それが先週の半ばのこと。
翌日、栗原さんは別人のように明るくなって、他の女子たちと笑いあっていた。図書室で盗み見た坂上さんも、いつも通りの天使だった。
だから僕は、あの場所で見た彼女たちが別人だと思うことにした。今日、坂上さんと二人で帰るあいだもずっと、そう思おうとしてきた。
なのにいま目の前で、路地に屈んだ彼女が浮かべている邪悪な笑みは、あのときレンズ越しに向けられたそれと同じものにしか見えない。
「いま思い出した、って顔? 忘れてたなんてひどい。私はずっと佐藤くんがどう行動するのか、気になってたのに」
僕の顔を凝視して嘆く。あの笑みを浮かべたまま。
どうやら僕は、泳がされていたらしい。
「……栗原さんは、どうなったの?」
「あのこを苦しめてた感情を、哀しみも憎しみも畏れで塗りつぶして、ぜぇんぶ私が喰い尽くしてあげた。もう、空っぽ」
問いへの答えを囁きながら、彼女はゆっくり立ち上がる。
僕を見下す黒い瞳が、そこに開いた穴みたいに拡がって眼球全体を覆い尽くす。その闇の真ん中に、赤い燐光が灯った。
畏れとは、恐怖心だろうか。僕も喰われてしまうのか。でも、いま僕の心を支配する感情は、それとはすこし違っている。
「だから、あのこはもう何も悩まなくていい、考えなくていい。私の言うことだけを聞く、私のモノに──信者になったの」
そこで、僕は気づいてしまった。
学校内の、彼女を評する言葉たち。悩み相談の達人、不登校がいないのは彼女のお陰。
それらはつまり、そういうことなのだと。
「いったい、これまでどれだけの人を……」
「うーん、私で四十六代目の依代だけど、どうなんだろう。お母さまやお祖母さまのぶんは、聞けばわかるかも知れないけど……」
考え込むように、人差し指を顎のさきに添えて小首をかしげる。ああだめだ、それでもやっぱり可愛いと思ってしまう。
「まあとにかく、そうやって人間たちの捧げる畏れを喰らい千歳月、もうすぐ本体の私が──佐藤くんも見たでしょう? あの大きな蛹が、羽化するの」
彼女がスカートの両端をすこし持ち上げると、その下から左右一本ずつ、見覚えのある薄緑の触手が顔を出した。その丸まった先端が、僕に向かってしゅるしゅると伸びる。
「もしかして本体って、トコヨノカミとかだったり?」
「えっ、知ってくれてるんだ!? うれしい! 私の代でそんなひと、初めて会った!」
彼女は無邪気によろこび、邪悪な触手はじわじわ迫る。僕は立ち上がり、後退りながら冷静に──叔父のように──状況の把握に努めた。
路地の突き当りはブロック塀で行き止まりだが、左右から店の裏手に回り込めそうだ。
しかし出口をトラックでふさがれた手際の良さを考えると、店主もまた協力者である可能性が高い。なら裏手も通れないと考えるのが妥当。
「うん、やっぱり佐藤くんには私の信者になってほしいな」
迫る触手と同時に、甘えた声が胸をぐちゃぐちゃにかき乱す。
「……ちなみに、蛹が羽化したらどうなる?」
「依代と本体がひとつになって、無差別大量に畏れを貪り喰らう。そうして世界中が私の信者になる──争いのない常世の国ができるの」
彼女は両腕と触手を左右にひろげ、途方もないことを、こともなげに言った。
「だから遅かれ早かれなの、佐藤くん。だいじょうぶ、痛くしないから」
「──いや。僕は信者には、ならない」
黒い両目のなかで赤く光る瞳を見つめ、きっぱりと断言する。彼女の言葉がどんなに甘美に響いても、空っぽな信者になる気はない。──この感情を手放すつもりはない。
「ふうん、そうなの?」
けれど彼女は気にも留めない。もともと、僕に選択権などないのだ。
これまでの自分が彼女に抱いてきた感情を、一般的に恋と呼ぶのかはわからない。
たしかに彼女が好きだけど、あまりに世界が違うから、遠くで見ているだけで充分だ。そう自分に言い聞かせ、ずーっと抑え込んできた。
なのに。それなのにだ。
その正体が、触手をのばし人間の感情を捕食する怪異? 世界を支配す邪神の依代?
そんな。そんなの、いくらなんでもあまりに──
「坂上さん」
「……?」
──あまりに魅力的すぎる。性癖ど真ん中にぶっ刺さる完璧な理想の女性像。僕はもう、感情を抑えられない!
「好きです! 付き合ってください!」
それが僕の生まれて初めての、愛の告白だった。