ここより先は“禁足地”
丸くて大きな満月が、夜を明るく照らしている。
持参した懐中電灯は不要だった。
オカルトマニアとして同好の士であり師である叔父からの誘いを受け、その日の僕はそこに居た。
常代大社の本殿裏、杉林に隠れるように存在する細い山道を進んで行くと、古びた木製の鳥居があらわれる。
路傍で斜めに朽ちかけた立札から、かろうじて文字を読み取れた。
コノサキ ワザハヒ アル
「この先へ進む者に災が有るってことかな」
「あるいはこの先に禍そのものが在るという意味かも知れん」
「どっちにせよ興奮するね」
「まったくだ」
僕の率直な感想に、叔父が同意を返す。
息の合ったやりとりは、二人で数々の怪奇スポットを巡ってきた証。
「では行くか甥っ子よ」
「行こう、叔父さん」
鳥居より先は“禁足地”──何ぴとも足を踏み入れてはならぬと伝えられし場所。しかし私有地なわけでもなく、法的な拘束力は何もない。
叔父の、特別に大きくはないけど頼れる背中を追って、山道を一時間近く歩いた。
暦は春でも、夜の山はまだ冷える。
丈夫で動きやすく防水防風完備、おまけにお手頃価格のワークマン謹製ジャージに感謝しつつ、古びた鳥居を幾つもくぐった先。
立ち並ぶ樹々の隙間から、それの威容が見えはじめた。
「あれが、弉諾岩」
「でかいな。一般的な杉の樹高が三十メートルほど──」
叔父は周囲の樹々と比べて高さを概算する。常に冷静な思考と観察眼。こういう大人になりたい。
月光に照らされる、苔むして緑がかったこの巨岩こそ、常代大社の御神体「弉諾岩」だった。ゆるやかに尖った先端は、周囲の古い樹々の頂と、それほど変わらない背丈がある。
「──六階建ての建造物に匹敵するサイズだな。そして形状的には、地中に埋もれた部分もでかそうだ」
「航空写真じゃ解らないところだね。それに……」
弉諾という呼称は、日本創世の男神である伊弉諾神が由来と考えるのが妥当だけれど、見ようによっては。
「……蛹の形にも見える」
「アゲハチョウ、か。たしかにな」
交わす言葉の端々に興奮をにじませながら、僕らは歩を進める。
常代大社の成り立ちについては、ほとんど文献が残されていなかった。
そのことに関して、僕らには仮説があった。
常代大社の祭神は事代主神とされている。
コトシロが訛って、あるいは誤って伝わりトコシロになった、といういかにもなものだ。しかし、漁業の神である事代主が、海から離れた山の上に祀られていることは、有り得なくはないものの、稀なことだった。
ところで「常代」は「トコヨ」とも読める。
常世の国、すなわち死後の世界から来て信者の欲望を叶える、日本書紀に記された最古の新興宗教の神──アゲハチョウの幼虫を依代とする邪神「常世神」。
それが、立ち入りを禁じられた山中に密かに祀られてきたのではないか? 文献は残っていないのではなく、あえて隠蔽されたのでは?
──それが、僕と叔父さんの二人で立てた仮説だ。
閑話休題。巨岩に向かって、さらに進むこと数分。
「──!?」
唐突に、叔父が立ち止まる。
ハンドサインで待機を伝えつつ、前方を指差す。
少しずつ平坦になり横幅も広がりはじめた山道の先、月光に照らされて巨岩の根本がよく見えた。
そこに二つの人影が向かい合わせで立っていた。
目を凝らせば、それはうちの学校の制服を着た女生徒に見える。興奮に震える手を深呼吸でなだめ、ウェストバッグから小型双眼鏡をとりだして覗き込む。
レンズの向こう、月明かりのなか映し出された少女の横顔を、僕は知っていた。
肩の上で雑に──まるで感情に任せ自らハサミを入れたかのように──短く切られた髪。同じクラスの栗原さんだ。
なんでも大学生彼氏の二股が発覚し、どちらか選ぶよう迫ったところ即振られた──とかいう話が僕の耳にも聞こえていた。
本来その手の話題は我ら陰キャとは別世界の事象だ。
けれど今日の帰りの駅ホーム、この世の終わりみたいな顔でじっと線路を見詰める彼女に気づいたときは、さすがに声をかけるべきか迷った。
──そこに現れた坂上さんが、優しく話しかけて彼女の手を引き去っていったときには、その背中に輝く白い翼が見えた気がしたものだ。
なぜ栗原さんがここにいるのか。
いや、たしかにここは坂上さん家の裏でもあるから、流れとしてはおかしくないけれど。
こんな時間に、こんな場所で悩み相談?
そして対峙するもうひとりの少女。
月を映して艶やかに光る黒髪、華奢なスタイル、真っすぐ前を向く美しい顔立ち──すべてが坂上さんのそれに見える。流れ的にも、そう考えるのが妥当だろう。
けれど僕は彼女をなぜか、坂上さんではないと認識していた。
彼女の背で、何かが蠢いている。
月光にちらちら薄緑色にきらめくそれは、入り組んだ紋様の描かれた大きな──まるでアゲハチョウの羽に見えた。