いっしょに帰りませんか?
「佐藤くん、いっしょに帰りませんか?」
放課後。廊下を急ぐ僕の背を、柔らかく澄んだ美少女声が呼び止める。
羽毛が耳を、そわりと撫でたような心地よさ。
僕の脳内に天使──のように愛らしい、ひとりの女子の顔と名前が浮かんだ。
「あ、坂上さんだ」
「かわいい……マジかわいい……」
「可愛すぎる……天使でしかない……」
「でも、西棟まで来るの珍しいよね」
通りすがった生徒たちのざわめきも、想像が正解だと示している。
坂上 鴇子。校内一の美少女である。
ちなみに天使なのは見た目だけじゃない。
誰にでも分け隔てなく優しく、悩み相談の達人ともいわれる。
つい先日も、酷い失恋でこの世の終わりみたいな顔をしてた女子が、坂上さんと連れ立って帰った翌日、別人のように明るく笑っていた。
真偽不明だが、当校に不登校がいないのは彼女のお陰、なんて話もあるくらいだ。
そのうえ成績も上位となると完璧すぎて近寄りがたくなりそうだけど、なにげに運動とお料理はちょぴり苦手だったりする。
さらに、趣味は読書だけど少年漫画も読んじゃうとか、親しみポイントも完備なのだ。
非の打ちどころがない。そもそも非を打とうとする者がいない。それが坂上さんだ。
「で、あの男子は? めっちゃ普通っぽいけど」
「三組の佐藤。あんな陰キャに何の用だろ」
「坂上さんはそんなの気にしないぞ。たぶん、悩みを聞いてやるんじゃないか」
「「「うらやましい……」」」
通りすがりのざわめきがハモる。
事実、学校一の美少女に呼び止められたこの僕は、学校一とはほど遠い、陰でオタクな平凡キャラだった。
身長も体格も平均値、真ん中分けの黒髪も、「いい人そう」以外の感想を聞いたことのない顔も普通オブ普通。
人より優れたことなんて、オカルト趣味として身に着けたあれこれぐらいだろう。
そもそも、彼女は本当にそんな僕に声をかけてるんだろうか。
もちろん嬉しい。そして、心当たりが全くないわけでもない。
けれど、それより他の佐藤と間違えている可能性が高いだろう。
何せこっちは日本でいちばん多い苗字だ。
「佐藤 早人くん、だよね? あっ……もし人違いならごめんなさい、後ろ姿がそっくりだったから、私……」
坂上さんは少し不安げに、だけど間違いなく僕のフルネームを呼んだ。
通りすがりたちが足を止め、こっちを睨みつけてくる。彼女を悲しませる者は、誰であろうと許されぬ。そんな意思のこもった視線がグサグサと突き刺さる。
「その佐藤です。人違いじゃないです」
覚悟を決めて振り向けば、僕の脳内に浮かんでいた顔より五割増しで可愛い美少女が、清楚に佇んでいた。
おそらく常人が記憶できる可愛さの情報量を超えているのだろう。
「ほら、やっぱり佐藤くんだ」
あまりの透明感で、彼女の周囲だけ解像度が上がったような錯覚が発生する。
さらさらの黒髪ロングをゆらして駆け寄る御身は華奢で、身長は平均より少し高め。僕より頭半分低いぐらい。
「あの、僕に何か?」
近過ぎる距離にちょっと後ずさりながら、あろうことか僕の右手に伸ばしてきた彼女の白く細い指先を、かろうじて回避する。
万が一にも手を握られたりしたら、どれだけの嫉妬が僕に集うだろう。触らぬ女神に祟りなし、とはこのことである。
「うん。佐藤くんといっしょに帰りたいのだけど──」
空振った指先を桜の花びらめいた唇に添え、困り眉を寄せて小首をかしげる。
上端が弧を描く半月型の眼の奥で、吸い込まれそうに深い黒瞳をそっと伏せた。
「──よいかな?」
ああ、あざとい。あざとすぎる。
なのに作為を感じさせない自然さがなにより怖い。
これだけ人心を惑わす彼女は天使なんかじゃなく、もっと邪悪な存在なのでは……
……いや……。そんなわけ、ないじゃないか。
きっと、陰キャが至近距離で直視していい可愛さじゃないんだ。このままじゃ思考がおかしくなってしまう。
我に返った僕は、可愛さの暴力をまき散らす彼女の顔面から視線を下に逸らした。
が、そこでは華奢さに似合わぬ膨らみが制服の内側から自己主張していて、視線は一瞬でさらに下へと追いやられる。
で、その先に待ち受けるスカートのひだの向こうこそ一番の危険地帯だから、もう細い足首を凝視するしかなく。
「よかったあ! それじゃ、行きましょう」
──結果、僕は首を縦に振ったことになっていた。