8 パーティに行くのです! 少尉さん
お母さまひどい!
少尉さんの前であんなことをいうなんて!
きっと私のこと、手近な男の子を相手にするつまらない子だって思われたわ!
給湯室の壁にもたれたまま、アンはその場にしゃがみ込んでしまった。
レイルダーに対するこの気持ちを誰にも言ったことはない。
しかし、聡いあの母ならば、とっくに気がついているとアンは考えていた。
もしかしたら冗談めかして奥手なアンを後押ししてくれたとも思う。
カーマインはアンを愛してくれている。
それは確かだ。
しかし、美しく華やかで、才能あふれた娘時代を過ごしただろう彼女には、平凡なアンの気持ちがわからないのかもしれなかった。
お母さまは私のために言ってくれている。
それはわかっているけれど……。
「でも……やっぱりパーティは欠席しよう。ヨアキムにからかわれるのも嫌だし」
「ヨアキムって誰?」
「ひゃあ!」
アンは飛び上がった。
いつまでたっても初めて聞いた時と同じく、どきどきしてしまう深い声。
「しょ、少尉さん!」
膝から力が抜けかかるのをアンは必死で堪えた。彼は父のお供で母の見舞いに来たのであって、アンに用事があるわけではない。
「そんなに驚かなくても」
「ごめんなさい! でも、なんで、ここに?」
「アン、学校でいじめられてるのか?」
レイルダーはアンの質問を無視して言った。
「え? いえ、いいえ。でも、男子ってどうも苦手で……口が悪いし、態度も乱暴だし」
「俺だって男子だぜ?」
ひょいとすくめられる広い肩。
そんな所作ですら、どうにも格好よく、アンには運動場や食堂で馬鹿騒ぎを演じている、同級生の少年たちと同性だとはとても信じられない。
「少尉さんは違います! 私が言ってるのは学校の男子ですから!」
「ああ、前に馬場で見たな。学校の男子は、女の子にああいうことをするのか?」
「いえっ! ええと、みんなではなく、一部の乱暴者っていうか……幼稚な奴がいるだけで……」
「それがヨアキム?」
「……ええ、まぁ」
「アンをからかうのは、気になるからだと思う。多分」
「からかうのは悪意があるからです。私はそんなの嫌いです」
「珍しいな」
「え?」
「アンが負の感情を出すのは」
「そ、そうですか? 今の女の子はこのくらい言いますよ」
「……言われてみたいな」
「え?」
レイルダーの言葉は多くはなく、いつもアンはその意図を図りかねるのだ。
「えっと……少尉さん?」
「俺が行こうか?」
「……へ?」
その言葉は唐突に降ってきた。
「アン、俺と一緒にパーティに行くかい?」
「……」
アンの小さな口は開いたまま、閉じることを忘れてしまっていた。
あまりにも突然で、思いがけない申し出に、思考は停止したままだ。
しかし、その言葉を発した本人は顔にも特に変化はない。「ハンカチを落としましたよ」とでも言うような様子である。
「ま、嫌なら」
「行きます!」
被せ気味に叫んだのは、思考ではなく反射だった。
「ぱ、パーティに行きます! 私は! 少尉さんと!」
倒置法で言い放ってから、アンはレイルダーが笑っていることに気がついた。
滅多に表情を崩さない彼が、今自分に笑いかけてくれている。もしかしたら自分を笑っているのかもしれないが。
「で、でも……そのぅ……近衛のお仕事は?」
「来月なんだったら、どうにかできる」
「……本当に一緒に行って、くださる、のですか? 学校のパーティなんかに?」
アンは頭を振り上げて青年を見た。
「ああ。よろしく」
「はっ、はい! こちらこそ、どうぞ、よろしくお願いいたします!」
アンの目の前に伝統ある学校の講堂が浮かんだ。
いつも学長先生の退屈な話や、苦手なダンスのレッスンに使われる、古く厳めしい苦手な場所だ。
しかし、年に二回のパーティの時だけは、たくさんの明かりが灯され、花や布で飾られて楽隊がきて、凝った料理が運び込まれる華やかな場所になると言う。
もともとその多くが貴族の子弟である。生徒のみならず、その家族が懇親を深め、交際範囲を広げるための重要な行事であった。
ダンスもあるので、生徒たちはペアとなる相手を探すのに躍起になる。もちろん家族でも友人でもいいのだが、特に女生徒達は、素敵な男性にエスコートしてもらうことを夢見ていた。
私……私、少尉さんと並んで歩けるのね……。
ああ、これはまるで!
「ゆ……」
「ゆ?」
夢のよう、と口からこぼれそうになった言葉を、アンはかろうじて飲み込んだ。
「ゆ……友人に心配をかけずにすみます」
「そうか。じゃあ、今から閣下に伝えに行こうか。きっと母上も心配している」
レイルダーは、今にも爆発しそうな顔のアンの頬をつついた。
爆発してしまったのかもしれない。目の前が金色になってしまったから。
私は少尉さんとパーティに行く!
行くのだわ!
お父さまに連れられるのじゃない、初めてのパーティに!
その瞬間のアンの足は、きっと床から少し浮いていたに違いない。