4 嘘つきました! 少尉さん
アンの指示を完全に汲み取った七十二号は、まるで目的を理解しているかのように、少年たちの馬を楽々と抜き去り、教官が追いつく前にローリエの馬に追いついた。
「ローリエ! 大丈夫! 落ち着いて!」
アンは七十二号を横に寄せ、ローリエの馬の手綱を取った。その時一瞬その馬と目が合う。
それだけで十分だった。
「ゆっくり止まって! そう! いい子ね!」
もともと悪気なく駆けていた馬はすぐに速度をゆっくり落とし、コースの脇で止まった。
「ローリエ、もう大丈夫よ!」
アンは自分の馬から飛び降りて、鞍にしがみついて震えている級友に声をかけた。乗っていた馬がアンに鼻面を寄せ、甘えるように嘶く。
「わかっているわ。あなたに悪気はなかったのよね。走れと命じられたと思っただけよ。大丈夫、大丈夫」
アンは首筋を撫でてやった。
「ローリエ、もう大丈夫よ。この馬は暴れていたわけじゃない。走れと言われたと思ったの。あなたを振り落とす気はなかったのよ」
「……ひっひっ」
恐怖のあまり、なかなか顔を上げられないローリエだが、やっと追いついた教官達が、がちがちに固まっている彼女を助け下ろした。
「大丈夫か!」
「怪我はないと思います。少し休ませてあげてください」
「わかった。アン・フリューゲル、さすがにフリューゲル閣下の御息女だ。勇気ある行動に礼を言う」
そう言うと、教官は足が震えて立てないでいるローリエを補助教官に預け、二人は救護室へと向かった。
「お前たち!」
教官が振り返ったのは、ヨアキムを中心とする少年たちである。彼らも悪いと思ったのか、周囲に集まっていた。
「お前たちは、勢いに任せたコースどりで、級友と馬を驚かせた。一歩間違っていたら大怪我をするところだったかもしれないんだぞ!」
「す、すみませんでした」
ヨアキムは不承不承頭を垂れた。
「フリューゲルのお陰でことなきを得たが、彼女に感謝するんだな! 今から私と共に、馬場を貸してくださった近衛の係官殿のところまで謝罪に行く。ついてこい! 他のものは解散とする。教室に戻って下校の支度をするように」
少年たちはすっかりしょげかえって、教官についていく。
しかし、ヨアキムだけはすれ違いざまアンを睨みつけた。
「俺に勝ったと思ってんじゃないぞ! ちょっと乗馬が上手いからって図に乗るなよ、ぶさいく女!」
ヨアキムは貴族院議員の伯爵家の出で、成績も優秀だが、いかんせん性格がきつい。今までにも、気の弱い男子や女子を馬鹿にする発言があったので、アンは彼のことが嫌いだった。
「あんなのが将来貴族院議員になったら、この国は終わりだわ!」
アンは唇を尖らせてヨアキムの背中に文句を言った。
「異論ないね」
「きゃあ!」
振り返ると、レイルダーが柵にもたれている。
彼は美しい目をやや曇らせて一人で立っていた。
「少尉さん! 少尉さんがどうしてここに!?」
「どうしてって、ここは近衛の馬場だから」
レイルダーはほとんど吸っていなかった煙草を、柵にくくりつけてあった空き缶に投げ入れるとアンの方へとやってきた。
その目はアンに向けられていて、またしても鼓動が早くなる。
「あっ! そうですけど……少尉さんも今日はお馬の練習でしたの?」
「……いや、まぁ偶然通りかかっただけだ。それよりアン」
「はい、なんでしょう?」
思いがけずレイルダーに会えたことでアンの心は浮き立っている。軍帽の鍔の影になり、アンの位置からは彼の表情がよくわからない。
「アンは馬のことをよく知ってるのかな?」
「え?」
思いがけない問いかけに、アンはドキリとなった。
「さっき、眼鏡の女の子が乗ってた馬をほとんど触らずに止めただろう? 技術も素晴らしかったが、まるで馬の方から先に言うことを聞いているようだった。アン、馬に何かした?」
帽子の下で翡翠の瞳がきらりと光ったような気がした。
「ええっと……とくには。私もローリエを助けようと必死でしたので、よく覚えてない、です」
馬と共感できるなんて言っても、変な子だと思われるだけよ。
誰にも言わないほうがいいに決まってる。
「私小さい頃から、馬が大好きなのです……だから、かも」
アンはあいまいな返答をした。
「それにしてはあまりに鮮やかな手際だ」
「え?」
「アンには馬の気持ちがわかってて、馬もアンの指示を理解しているように俺には見えた」
「でも、ここの馬は訓練された優秀な馬ばかりでしょう? それに、あの馬もちょっと間違っただけで……怒ってなかったし」
たどたどしい言い訳をレイルダーは黙って聞いている。アンはたっぷりと冷や汗をかいた。初めて彼に嘘をつこうとしているのだ。
「……そうだな」
「アン」
「はい!」
「お母上のご様子は?」
「え? お母さまですか? はい、夏は苦手でいらっしゃるせいか、あまりよくなくて……一度入院して検査したほうがいいと、お医者様も言っておられます」
アンは突然変わった話題にとまどいながらも、母の様子を伝えた。レイルダーはいつもアンの母を気にしてくれるのだ。
その理由をアンは知っている。
「ですが、お気持ちはしっかりなさっています。お優しいし、よくお笑いになるし」
「そうか……アン、母上を大事にな。近いうちに閣下とともにお見舞いに行く」
「はい。ありがとうございます!」
アンは喜んだ。また、レイルダーに会えるのだ。また、話ができる。
「またおいで、アン」
「本当なら少尉さんに乗馬を教えていただきたいのですけど……」
思いっきり勇気を出して、アンは頼んでみた。初めて会った時よりも少しは背が伸びたから、そんなに上を向かずに済む。
「アンの乗馬はきっと俺より上手だ。でもあまり危ない真似はするなよ」
大きな手がアンの肩に置かれる。暖かくて愛しい重みが肩越しに伝わった。
周囲にはもう誰もいない。
風がアンのくせっ毛を揺らし、レイルダーの指に絡みついた。それとも彼がわざと絡めたのか?
ああ、もう少し、もう少しこのままで……。
しかし、すぐに彼はその手を離した。さっきまで吸っていた煙草の匂いが鼻腔をかすめた。ぴりりと苦い香り。
同じ香りを持つ人をアンは知っている。
「じゃあ俺はもう行く。勉強がんばれよ、アン」
レイルダーがアンと話すとき、いつも最後に名前を呼んでくれるのは、考えすぎだろうか? 短すぎる名前に彼の優しさが込められているような気がするのは。
「……またな」
レイルダーは見つめるアンに微笑みを投げると、兵舎の方へと去っていった。
ヨアキム書いてて、誰かに似てるな〜と思っていたら、思い出しました。
「SPY×FAMILY」に出てくるD君に似てる。髪の色は違いますが(ヨアキムはプラチナブロンド)。