1 初めまして! 少尉さん
「お父様の車が見えた!」
アンはホールの階段を駆け降りた。
新調したばかりのドレスの裾がひるがえる。
やっと今日から膝丈ではなく、くるぶしまである丈の長いスカートがはけるのだ。
さらさらと涼しげに揺れる、夏のドレスは淡い草色で、飴色の髪がよく映える。
センスのいい母に見立ててもらって、昨日仕立て屋から届いたばかりのドレスだ。
ほめてくださるかしら?
綺麗だって? 大きくなったって?
今日はアン──アンシェリーの、十歳の誕生日だ。
普段は王宮詰めの父も、半月ぶりに家に帰ってきてくれるはずで、アンは朝から浮かれていた。
アンの父、フリューゲル中将は、以前、西の地で起きた内戦の折の司令官だった。今では一線を退き、王都を守る近衛の副官として、王宮に詰めている。
彼は遅くにできた娘のアンを非常に可愛がっており、また大の愛妻家としても知られていた。
「アン! 帰ったぞ!」
「お父さま! お帰りなさい!」
「誕生日おめでとう! おお、新しいドレスか。よく似合う! とても可愛らしい!」
「ほんとう!?」
綺麗ではなく、可愛らしいは、父のいつもの褒め言葉だったが、アンは素直に喜んだ。
「ほんとうだとも! さぁ、美人の娘にお父様からこれを」
そう言って父が差し出した箱から、アンはドレスと同じ色の髪飾りを取り出した。きっと両親で示し合わせて用意してくれたものだろう。
「素敵! どうぞ今つけてくださいませ」
「うむ……しかし、私は手先が不器用だからな……おおそうだ。レイルダー、ちょっと来てくれ」
「レイルダー?」
アンは振り返った父の視線を追った。
ホールの扉の前には長身の士官が佇立している。
父と同じ近衛の隊服を着ているが、初めて聞く名前だった。遠慮してずっと後ろの壁際に控えていたものらしい。
「レイルダー。すまないが、お前がつけてやってくれないか? 私ではアンの髪を引っ張ってしまう」
「承知しました」
進み出てきたその若い士官を、アンはぽかんと見上げる。
「……」
近衛の隊服は、王宮や王族を守るというその職務上、普段の服務用でもそれなりに飾りがついており、スマートなカッティングで着る人間を選ぶ。
しかし、この若い士官は、華々しいそのお仕着せが霞んでしまうほど、美しい姿をしていた。
優雅な長い手足。外国の血が混じっているのか、やや浅黒い肌に見事な金髪。それは無造作に短く刈り込まれているが、まるで冠のように、形のいい頭部を包み、襟足の部分のみ、長く伸ばして一つに括られていた。
「アン、レイルダー少尉にご挨拶を。彼は学校を出て、入隊したばかりだが、これから私のそばで働いてくれる。お前も会う機会が多くなるだろう。今日は紹介がてら連れてきた」
父、フリューゲル中将に背中を押され、アンは、緊張した面持ちで背の高い士官の前に進み出る。
「レイルダー、私の娘のアンだ。今日十歳になった」
「は、初めまして、レイルダー少尉さま。わっ、私はアン。アンシェリー・マリオン・フリューゲルです!」
背の低いアンを相手に、膝も折らない金髪の士官は、ほんの少しその美しい翠の目をすがめた。
「マリオン……?」
呟いた声はやや低めのテノール。
どこか冷たく、それなのに、しっとりと耳に馴染む良い声だ。
「どうぞアンと呼んでください!」
「アン」
青年士官はわずかに首を傾げた。美しい瞳は半ば閉じられ、なんだか少し眠そうにも見える。
「はっ、はい!」
「……では、それを」
レイルダーは手を差し出した。
長い指が純白の手袋にぴたりと収まっている。
一瞬ぽかんとしたアンだったが、彼は父から髪飾りをつけるように頼まれていたことを思い出した。
「え? あっ! す、すみません! おねがいいたします! レイルダー少尉さま」
真っ赤になったアンが手渡した髪飾りは、レイルダーの器用な指先によって、アンの悩みの種である豊かな癖っ毛を綺麗に押さえた。
「ああ、よく似合ってるよ。私じゃこうはいかん。ありがとう、レイルダー」
青年は小さくうなずいた。
「……」
アンは言葉もなく彫刻のように整った、しかし、どこか野生味を含んだ美しい顔を見上げる。
しかし、彼は髪飾りをつけ終えると、するりと父の後ろに下がった。
上下関係に厳しい軍人ならば、上官の娘にはもう少し丁寧な応対をしてもよさそうなものだが、鷹揚なことで知られるフリューゲルは笑いながら耳まで赤く染めている娘を愉快そうに見守った。
「よかったな、アン。これで立派なレディだ」
「は、はい。ありがとう……ございます。お父さま、それにレイルダー少尉さま」
「俺のことは、レイルダーと呼べばいい。敬称はいらないよ」
「……で、でも、目上の人には礼儀正しく、と教えられました。レイルダー少尉さま!」
「目上……そうか。なら、好きなように呼ぶといい」
「こ、これからも、どうぞよろしくお願いいたします!」
アンは最近なんとか様になってきた淑女の礼をする。スカートの裾がさらりと床を滑った。
「よろしく、アン」
レディーに応じて、長身の士官の背が屈められ、やっと顔が少しだけ近づく。
「……綺麗」
「ん?」
「少尉さま……目の色がすごく綺麗です」
その瞳は、山奥の湖の波打ち際のように澄んだ翡翠色だった。
「そうか? 俺はアンの目の方が綺麗だと思うが」
アンの瞳は髪と同じく明るい飴色だが、特に珍しい色ではない。
「わ、私のはただの茶色で……」
「暖かい色だ。俺のと違って」
その声はどこか投げやりに聞こえた。
「……?」
「アン。お母さまの様子は?」
「はい。今日は気分がいいからと、お庭の見える奥のお部屋にいらっしゃいます」
母は、結婚前は女ながらに軍の補給部隊の隊長として活躍した人だが、近頃は病気がちで、伏せることが多くなっている。
「そうか。レイルダー、妻にも紹介しよう。アン、茶を頼む。あと、今日の誕生祝いには彼も同席してもらうから、厨房に伝えてくれるか?」
「はい! お父さま!」
アンはどきどきしながら若い士官を見上げた。眠そうな瞳がほんの僅か、見開いたように思えたのは気のせいか?
「これからよろしく。アン」
「は……はいっ!」
「あと……」
フリューゲルの後に続こうとして、レイルダーは足をとめて振り向いた。
「十歳の誕生日、おめでとう」
「あっ……ありがとうございます!」
生まれて初めてアンは、頬が燃え上がる感覚を知る。
それがアンの、生まれて初めての恋のはじまりだった。
レイルダーの瞳の色は希少な宝石、フォスフォフィライトの色です。
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