恐怖
「空いたグラスをお下げしてよろしいですか?」
突然引き戸が開いて、店員さんが入ってきた。息が止まりそうになった。
おれはとっさに血が出ている左腕を隠し、座ったまま停止している高田の頭を店員から見えないように体を動かした。
「あ、お願いします」
大介が返事をしてくれた。それでも、よっぽどこちらの動きが不自然だったんだろう、店員さんはジロジロとおれのほうに目を動かした。
「あー、こいつらだいぶ酔っぱらってて、さっきから意味不明なことばっかするんすよ。もうすぐ出ますんで」
大介のフォローにも関わらず、店員さんは疑いのこもった視線を外してくれなかった。どうやり過ごせばいいかわからない。真っ白になる頭、背中から脂汗がにじむ。
「あー、勘定済ませてくるわ」
大介は鞄から財布を取り出して、店員さんと一緒に部屋から出ていってくれた。何の事情は分かっていないのに、大介はほんとに空気の読めるヤツだと思った。
ひと息ついて高田の後頭部を見ると、USBメモリーの点滅は終わっていた。おそらくデータの抜き取りは完了したんだろう。おれはゆっくりとUSBメモリーを抜いて、床に転がっていた高田の皮膚を後頭部に戻した。
おれはふと目についたシャツの襟を下にずらした。“K‐02”というグレーの文字が背中の上部に記載されている。こいつが間違いなく神木の言っていたアンドロイドだと思った。
「血を流したままじゃ、まずいか」
おれはカバンから黒いタオルを取り出した。手拭き用のタオル。幸いにも少し長めだったので、左腕にしっかり結ぶことができた。
「あれ、木崎さん、何してんすか?」
突然、高田が声をかけてきたので、おれは飛び上がりそうになった。何も無かったような普通の声。目の色も元通りに戻っている。どうやら、神木の言ってた通り記憶が抜けていて、さっきの壮絶な戦いは覚えていないらしい。
「そういやさっき、僕に抱きついてきませんでしたっけ」
「したよ。でもすぐ離れたじゃん」
いったいどこから記憶がないか調べなければならない。
「あれ? そうでしたっけ? なんかぼんやりするなあ」
「密かにお前が一番飲んでんじゃねえか?」
「そうですか? あんまり、飲んだ記憶もないんすけど」
どうやら、抱きついてしばらくしたあたりから、気がついた今までの記憶がないような気がした。
「ていうか木崎さん、その腕に巻き付けたタオル何なんすか」
「ああ、これ?」
ヤバい。なんと答えていいか分からない。
「それに、やたら髪の毛乱れてるし、表情も険しいし、なんかあったんすか」
高田から質問攻めにあうことを想定していなかった。今更ながら、テーブルの下で手が震えていることに気づいた。胸がやたらざわつく。この感情はなんと呼ぶのか。興奮なのか、恐怖なのか。
「木崎さん?」
「ん?」
「なんかすっげー変ですけど、大丈夫っすか?」
にこりと笑う高田の白い歯の数ヵ所が赤くなっていた。それを見たおれは、絶句した。プツプツと音を立てて腕に鳥肌がたった。あれはおれの血だ。
「さっきから、何なんすか? 木崎さん、めちゃくちゃ変ですよ」
目玉の黒くなった高田の顔が頭によみがえる。高田に自分の頭の中のデータが盗られたことがバレたら、おれはいったいどうなるのか……。
「お前さあ、さっきから変、変、言ってるけど、おかしいのはお前だろ? さっきからずっと、おれとこの部屋にいたくせに、記憶があいまいになってるとか、おかしくね?」
勝負に出てみた。開き直りと言った方が良いのかもしれない。相手が変であることを責めて、おれが全く変ではないことにしてしまおうと思った。
「うーん。そうですよね、そのはずなんですよね」
高田はテーブルに肘をついて、手の上にアゴを乗せた。眉間にシワをよせ、如何にも納得いかないという顔をしていた。
「記憶無くすぐらい飲むとかヤバくね? この腕のタオルはサッカーのキャプテンのマネとかいって、大介が巻き付けたことも覚えてねーの?」
アンドロイドはおそらく酔わない。だから、おれは別の意味を込めて、相手が酔っぱらっていることを伝えた。おれはお前を人間だと思っている。その事を暗に訴えようと思った。
「そうでしたっけ……」
高田はしおらしくなった。おれはそれを見て肩をおろした。もしかしたら、自分に故障でも発生したとか思い始めてくれたのかもしれない。しかし、それは束の間の休息だった。高田は何かを調べるように後頭部をさすり始めた。おれはすぐに下を向いた。多分、おれの顔は歪んだと思う。その顔を敵に見せるわけにはいかなかった。
高田はもうすぐ気付くのかもしれない。皮膚のフタの位置がおかしいとか、そういうことをきっかけにして。ガタガタと震え出す身体。手だけじゃなく、恐怖のあまりおれは身体まで震え始めた。