大介からの誘い
せっかく近くにあった目的地が急に遠のくあの感じ。確信が持てないながらも、自分が歩いてきた方向は間違っていないと思い込んでしまう自分。さっさと人に訊くなり、スマホで地図を広げればいいものを、頑固にも突き進み、結局は今きた道を引き返さなければならなくなったことは何度もある。
「木崎さん」
気づくと、高田は食べ終わって席を立ち上がっていた。
「先、行ってますね」
親指で出口を指す高田に、おれは無言でうなづいた。
おれはというと、まだ半分もカツ丼を食べていなかった。これは、まずい。おれは丼を持ち上げ、急いで口にかきんだ。
「脂身の量が絶妙でしたね! 豚のジューシーさ、食べごたえ。一歩間違えばくどくなるところを、シャキシャキのねぎがそれをさっぱりさせてくれるし、玉ねぎなんかも多目で、クセになる甘味がまたよかったっすよねー」
高田はおれと合流するなり熱く語り、「また、行きましょう!」と言ってきた。
「じゃあ、ここのMONOさんはお前が担当になるか?」
おれはカバンに財布をしまい、「お客はあっち」と言って歩く方向を指で示した。
「僕でいけますかね? まだメインはって仕事したことないんで、不安っす」
急に顔を曇らせた高田が、妙にかわいく見えた。
「最初の担当になるには、いいお客さんだぜ。明日からよろしくとは言わねーし、今日から少しずつできるようになりゃいいんだよ」
おれは高田の背中をポンポンと叩いてやった。
「分かりました! ありがとうございます!」
と、元気よく言葉を返してきた高田。背中を叩いた感触も人間のそれ。気持ちよく先輩面をさせてくれるし、こいつに微塵も血が流れてないなんてやっぱり絵空事だったんじゃないかという思いが強くなっていった。
あの日、MONO製薬さんとの打合せは無事に終わった。高田は名刺交換をきっちりこなし、打合せでは発言までしていた。
おれは分からなくなってきていた。それからというもの、初めの頃はポケットの中に入れたUSBメモリーをにぎっては離しにぎっては離すことをよくしていたのに、その回数は時間が経つにつれてあからさまに減っていった。
USBメモリーを手にした日から、もう一週間という時間が経過していた。高田は全然モノに見えなくなってしまい、人間としか思えなくなっていたし、じゃあ他の誰かがおれを調査しているかと言えば、そんな風には全く見えない。非人間的証拠も誰も出さないし、あのブラックアウトとかいう黒い空間に誰かが関わっているなんてことも、まったく繋がってこない。会社では普通に仕事で忙しくしているし、営業という職業柄か、みんなオープンに話をすることが多く、話を聞いていても定時後はまともな人間の生活を送っていそうな感じがする。ましてや、何か企んでるとかそんな陰気な空気は誰からも伝わってはこない。
おれの日常生活は、もう戻ってきていた。ズボンの右ポケットに突っ込んであるUSBメモリーを使わなくたって、危険とは無縁ないつもの生活がすでに戻ってきていると思った。普段と違うといえば、神木から催促のメッセージがやたらきていた。ここ三日ぐらいはしつこいぐらい、“早くしないと命が!“みたいなことを入れてくる。それに対しておれは、“分かってるつーの!”と返すものの、正直言うと死への恐怖は薄れてきていた。
カバンに入れてあるふたつのお守りをそっと覗いてみた。このふたつのお守りをギュッと握ると、元気と勇気が湧いてくる。元気はいくらでも使い道があれど、勇気のほうは使い道を失っていた。別にこのままでもいいじゃないかという思いがムクムクと湧いてきて、今ではすっかりその思いに支配されていた。
“今日ひまか?“
午前十一時。いきなり会社のパソコンに大介からメールが届いた。
大介はとなりで何食わぬ顔をしながらパソコンをカチカチ鳴らしている。こういうときはだいたい決まっている。
“どこ行くよ?“
おれはすぐに返信した。
“いい焼鳥屋見つけた“
すかさず、返事が返ってくる。
“鳥か。いいね。おれ、つくね食いてえ“
甘いタレに、香ばしく焼かれた肉団子が目に浮かぶ。やべぇ。さっそく、晩ご飯が要らないことを里果に伝えようと思った。
“じゃあ、予約しとく“
“よろしく“
大介とおれは女子みたいなところがあった。行きつけの飲み屋は特に無く、多少高めの人気料理店に行くことが多かった。そのため、店への予約は必須だった。男同士は飲むことを重視する人が多く、適当に安くて飲み放題が頼める店に行くことが多い。それに、店を予約するなんてめんどくさいことはほとんどしない。
今日は朝からMONO製薬向け社内打合せがあり、昼から長谷部運輸向け社内打合せのあと、お客先であるハザマ銀行に移動してからさらに打合せがあった。計三回の打合せ。こういう日は人前で話したりすることが多いからか、やたら体が疲れを覚える。打合せの間、焼鳥屋で飲む一杯目のビールを何度も想像してしまった。