怖がり娘と化け物伯爵
※なんちゃって貴族観&世界設定はふんわりしています。
ある日、しがない貧乏子爵家の娘であるカリンのもとに、化け物伯爵と呼ばれる男から求婚の手紙が届いた。
「鋭い牙で若い娘の血肉を啜るらしい」
「無理です」
「目が三つあるとかないとか」
「無理です!」
「カリンよ」
「ほんと、ほんとに無理なので……!」
「不甲斐ない父を許せ」
「お父さまのバカーッ!」
手紙と共に届けられた大量の贈り物は語る。格下ごときに拒否権があるとは思うなと。被害妄想かもしれないが。
「ひとまず慣れるために伯爵家へ来いとのことだ。頼んだぞ」
「うっ、うっ……お父さまが食べた分だけ着実に太る体になりますように……」
「止めなさい! 怖い!」
「私の方が絶対怖い!」
かくして、妖怪とか、怪物とか、化け物とかというものを大層怖がる平凡な娘は、曰くつきの伯爵家で暮らすことになったのだった。
ガタガタと震えながら辿り着いた伯爵家は、別に血に塗れていることも、闇に包まれ烏が過剰に鳴いていることもなかった。
ただ、主の格好はちょっと変わっている。
「よく来た。俺はテオグリフだ。テオでいい。化け物伯爵と呼ばれている。強引な手を使って悪かったな」
「カリンです……か、帰ってもいいですか?」
「駄目だ」
逃がさないぞというように手を取られて馬車から降ろされた。顕著に震える手をどう思ったのだろう。ちらりとこちらに目を……やったように見えたのだが、よくわからないまま邸へと導かれる。
伯爵は分厚いベールを被っていた。透ける素材ではなく、顔の輪郭さえ見えないのだが、彼には前が見えているのだろうか。頭には金属の飾りがジャラジャラとつけられている。突起物が邪魔そうだし、いまいちセンスがよろしくない。
見た目は正直滑稽だったが、あの下には一体どんな異形が隠れているのかと思うと震えが増した。牙から血を滴らせているのか。それとも三つの目がギョロギョロと動いているのか。
青くなって俯くカリンに、淡々とした声が落ちる。
「おまえの従兄がいるだろう」
世界で一番憎き男の話に震えが止まった。
「仕事の都合で嫁を取らなきゃならんと言ったら、おまえがいいんじゃないかと薦められた」
「……伯爵さまは人の頭を丸坊主にするような呪いをご存じありませんか?」
「は?」
「いえ、大丈夫です。己の力で成し遂げます」
あの男、本当にろくなことをしない。
そもそもカリンが「化け物」という存在をこうまで怖がるようになったのは、一体誰のせいだと思っているのだ。
5歳上のあの男、幼いカリンの面倒を買って出ては、読み聞かせと称してホラー創作を恐るべき演技力で語り、類まれな画力を生かして今にも飛びかかってきそうな化け物を描き上げたのである。
そしてカリンがお転婆を仕出かすと、おどろおどろしい声で、こうだ。
――悪い子は化け物に食われちまうぞ!
骨の髄まで化け物の怖さを擦り込んだ化け物大好き男が、よりによって化け物伯爵に従妹を売り渡すとはどういうつもりだ。婚約が決まる前に突然家に訪れ、ベールを被った化け物の話をしてきたのはこのせいか。ご丁寧に、ベール男の絵の差分として、ヒャクメやノッペラボウの絵まで持ち込んで。
この恨みはらさでおくべきか。絶対に、ありとあらゆる手段を用いて仕返しをしてやるから覚悟しとけ。
恐怖の震えが完全に武者震いに変わったところでカリンの部屋に到着した。内装はシンプルで、でもカーテンのレースだったりベッドシーツの柄だったり、細かいところが可愛らしい。
「夕食は部屋に運ばせる。今日はゆっくり休め。明日からは伯爵家の者として相応しい知識を学んで貰う」
「はい……。あの、伯爵さま、私、牛のお肉が好きです」
「そうか。……? 俺も牛が一番好きだ」
よかった。人肉が一番好きとか言われなくて。
「俺のことはテオでいい」
「あ、はい」
やや首を傾げて去って行くテオグリフ伯爵は、ベールは大変怪しいが、首から下は普通の人間のようだった。会話の調子はややぶっきらぼうだけれど、普通の人と同じだった。少なくとも憎き従兄よりはずっと人間らしかったと思う。
「頑張ろ……」
なお、少し遅めに運ばれた夕食は柔らかくとろけるような最高級の牛肉だった。リクエストに応えてくれたのだろうか。いい人だ。化け物は怖いが、やっていけるかもしれない。
その夜ふかふかのベッドで寝たカリンは、丸々と太ったところをガブリとやられる夢を見た。そういう可能性もあるのか。やっぱり怖い。
まだ暗い中飛び起きて、ガタガタと震えて、震えて、震え疲れてまた寝た。
朝食も肉だった。血の滴るようなレアステーキ。カリンは朝からガッツリ食べられるタイプなので完食したが、後から夢を思い出して蒼褪めた。
だが、あの美味しそうな肉を我慢することなどできない。ひとかけらだって残したくない。
「無理よ……」
「何かわからないことがありましたか?」
「いいえ。ごめんなさい、先生。お腹が空いてしまって」
「朝から二食、分厚いステーキを完食されたと伺いましたが」
「でももう三時でしょう? 私、消化がいいんです」
うんうんと悩みながらも、早速与えられた課題をこなした。そんなに難しくはなくて安堵する。
カリンはアホの子っぽい見た目をしていると評されることが多いが、こう見えて頭脳派なのだ。なぜなら肉体派ではないから。伯爵は恐らく肉体派だろう。結構筋肉がしっかりしているように見えたので。
そして夕食。今日はテオグリフと同じテーブルで食事を取るらしい。あまりの恐怖に、一心不乱にカトラリーを繰る。今回もとっても美味しい肉だった。
「食事が口にあったようで何よりだ」
「お肉美味しいです!」
「ちゃんと噛めよ」
噛まなくても飲み込めるほど柔らかいからと横着していたのがバレてしまった。ペースを落としてしっかり咀嚼することにする。
噛んでいる間が暇だったので、恐る恐る顔を上げた。あえて目を向けないようにしていた伯爵は、こちらに頓着せず食事を進めている。
「あっ」
「なんだ?」
「なんでもないです!」
ベールが昨日見たものより短い。なるほど、食事用なのだろう。口元は露出しており、僅かに鼻が覗いている。
気づいた途端に、美味なる肉に癒されていたカリンの震えが再発した。
鋭い牙が見えてしまう。あるいは、もしかしたら三つの目がこちらを射抜くかもしれない!
伯爵の食事風景は、どこか野性味がありつつも行儀がいい。肉を口へと運ぶ姿をカリンは震えて見ていたが。
「……あれ?」
「なんだ」
「いえ……」
形のいい薄い唇。赤い咥内。ちらりと見えた舌は先が割れている――ようなことはなく、普通である。そして……もしかして……牙は生えていないのでは……?
「……カリン、追加の肉でも欲しいのか?」
「あっはい! もう少し頂けると嬉しいです!」
「そうか。野菜も食えよ」
肉を追加してくれた上、健康まで気遣ってくれる。優しい。
牙が生えていないということは、血を啜るという噂はあくまで噂という可能性もある。もしかしたら化け物ではないという可能性も――いや、本人が化け物伯爵を自称しており、頑なにベールを被っているのだから、なにがしか化け物要素があるはずだ。ううん、でも、もしかしたら。
「あのう……大変、大変不躾なのですが」
一縷の望みを込めて問う。
「化け物伯爵は化け物なのですか……?」
「本当に不躾だな。そうだ」
「そうですか……」
やはり化け物だそうである。
でも、とりあえず今のところは優しい。質問に対する返答は罵声でも暴力でもなかった。使用人の数は邸の大きさに比べて物凄く少ないが、壁際でニコニコとこちらを見守る執事たちの顔は明るい。
一概に化け物と呼べど、彼は理性ある心優しい化け物なのだろう。そうであれ。
でも一応自衛はしようね。
「それはそれとして、運動がしたいのですが、庭を駆け回ってもよろしいでしょうか?」
「……程々にしておけよ」
翌日には運動用の服が届けられた。優しい。
コロコロ美味しそうに太った豚のように成り果てなければ、この優しさをずっと享受することができるだろうか。
教育と運動、たまにぽつぽつと伯爵との会話を交わす日々。
甘い言葉はないし、本人から直接受けるわかりやすい好意も多くはない。けれど端々で垣間見える彼の優しさは、カリンの心を度々温めた。
例えば運動をしている少し荒れた庭から小石が消え、代わりに花が増えた。彼の命令で肉ばかりだった食事は、料理人に栄養の偏りを怒られて撤回させられたらしい。最初から部屋に用意してくれていたドレスが徐々に数を増やして、クローゼットを圧迫している。ふと邸を見上げると、たまにテオグリフがこちらを見ていて視線があった。
恐怖に震えるカリンを、いつも苛立ちすらせず辛抱強く待ってくれる。
……嫌になる。そんなによくしてくれているのに、どうしてカリンはこんなに彼を怖がっているんだろう。
テオグリフと話をしていると、段々と恐怖心はなりを潜めていく。ときには強張っていた表情筋が緩み、笑顔すら浮かぶようになった。
伯爵夫人としての教育の中、彼の領民を大切にする心も知った。カリンの父だって領地の運営は中々のものだったが、テオグリフの施策には抜け目がない。隅々まで行き届いた治水とバックアップ。そういった方面に詳しくはないカリンでもわかるほど理想的な状態だった。
彼は善良で、堅実で、個人としても貴族としても尊敬できる人だった。
なのに、ふとした瞬間に想像力が羽を広げてしまうのだ。
従兄に詰め込まれたありとあらゆる化け物たちの顔。隠されたベールの下に、勝手に絵の数々を当て嵌めてノドを詰まらせる。
カリンの顔がさっと顔が蒼褪めるとすぐに踵を返してしまうのは、彼の優しさのひとつだ。今日もまた、同じことをさせてしまった。
色々な顔が浮かぶからいけないのか。いっそ気絶してしまうほどのグチャドロぶりでも、イメージが固定されてしまえばその内慣れることができるかもしれない。
わからない。自信がない。
慣れるかどうかもわからないし、悲鳴を上げて倒れても、傷つくであろうテオグリフがなお優しく接してくれるかも自信がない。
ただでさえ自分は面倒な女なのだ。積もりに積もった疎ましさで、今度こそ見捨てられてしまうことだってないとは言えない。
「嫌われてしまったら……悲しいわ……」
摘んだ花を、彼の部屋の前に置く。
子供じみた行為だけれど、カリンには彼が確実に傷つかない謝罪の方法がわからなかった。
そんなじりじりとした日常に、ある日小石が投じられた。
「領地のお祭りですか?」
「ああ。ささやかながら、古くから続く催しだ。挨拶が必要でな。婚約者として同席してくれ」
あからさまに気が乗らないという態度だ。ベールを被ってまで顔を隠しているのだから、人前に出るのが嫌いなのだろう。
豊穣に関する例祭らしいが、特別することはないようだった。一年無事に過ごせたことを祝い、翌一年の豊穣を祈願する。その際に領主の挨拶があるだけだとか。さして交流を深める場でもないというから、今のカリンでもどうにかなりそうだ。
結論から言って、つつがなく終わった――挨拶自体は。
「なあ」
壇上で淡々と挨拶の言葉を連ねるテオグリフの勇姿。肩までかかる、いつもより堅牢なベールの揺れを貴賓席から見守るカリンの耳に、ふと声が届いた。
大衆の中の催しだ。ひそめたつもりなのだろう声が少々響いたとはいえ、一々咎めるほどのことではない。
だが、それは内容次第である。
「あれってここの領主サマだろ」
「そうだよ……おい、もうちょっと声小さくしろって」
連れの男が身を縮めながら嗜める。
軽薄に笑う声の大きな男は、領外から来た見学者なのだろうか。この辺りで短い伯爵の挨拶が終わり。
最悪なタイミングで、最悪な言葉が響き渡った。
「布なんか被ってさ、化け物なんだろ? こっわ。そんなのに統治されてて、おまえら大丈夫なのかよ。実は生贄とか要求されてたりして」
「私からすれば」
切り裂くような鋭さを伴う声が、自分のノドから出たものと気づくまで、数秒を要した。自分がいつの間に立ち上がっていたのかも。
「公の場で貴族に向かって堂々とそのような暴言を吐く、あなたの残念さの方が余程怖いですけれど」
「な、なんだと……!」
「おい、止めろって!」
騒ぎを大きくするのはいけない、と心の冷静な部分がカリンを諫める。けれど口は止まらない。
「テオグリフさまはお優しい方です。彼の統治が大丈夫かどうか? この町や、あなたのご友人の様子を見れば一目瞭然では?」
「カリン」
壇上から下りて来たテオグリフに宥めるように名を呼ばれ、腕にそっと触れられた。
興奮のまま、その手を握りしめる。伯爵家に来た日から触れることのなかった大きな手はとても温かかった。
「優しくて、立派で、凄い方です。ベールが何よ。彼を化け物と呼ぶなんて、そう呼ぶ人の心根こそが化け物なんだわ!」
――化け物は、自分だ。
「カリン、大丈夫だ。落ち着きなさい」
抱き寄せられて、厚い胸に顔を埋める。
ジャケットを頭から被せられると途端に頭が冷えた。なんてことをしてしまったんだろう。感情のまま自分を棚に上げて叫んで、折角の行事を台無しにして。
何やら喚き散らしていた男性の声が止んだ。しばらくの後、ドタバタと町長が駆け寄ってきて頭を下げる。
「閣下、この度はとんだご無礼を……!」
「構わない。こちらも油をそそいだしな」
「いいえ……その、もしかしたらお貴族の方ではああいった場合、流すのがよろしいのかもわかりませんが……」
恐々と顔を上げると、少々気弱そうな男の優しい眼差しとかち合った。
「私は、我らが敬愛せし領主さまに相応しい、愛情深い婚約者さまだと思いました」
「そうか……ありがとう」
その言葉にテオグリフがどんな顔をしたのかは、やはりベールに阻まれてわからない。救いなのは、嫌がるような声ではなかったことだ。
カリンのやらかしはそれであっさり収まって、当初の予定通りに早々に町を後にした。
それなりにぽつぽつと会話が交わされた行きとは違い、帰りの馬車には気まずい沈黙が漂った。
カリンはひたすら腹の前で組んだ手に視線を落として思考に耽る。
化け物は自分だ。カリンが非難した男は、何も知らずに噂と見た目でテオグリフを蔑んだ。場所と立場こそ悪かったが、彼の行為とカリンの怯え、一体何が違うというのだろう。むしろカリンの方が罪深いではないか。テオグリフが優しい男だと知った上で、未だ化け物の名に怯え続けている。
こんな化け物が婚約者だなんて、テオグリフが可哀相だ。
「カリン」
名を呼ばれて気づく。いつの間に邸に到着していたのか。差し出された手はやはり温かくて、指先まで冷え切った自分がなおのこと化け物じみて感じられた。
「本日は……誠に申し訳ありませんでした……」
「さしてかしこまった場でもなし、何も問題ない。それより」
放そうとした手を、そのまま強く握られる。引かれるままに足を進めると、辿り着いたのは彼の自室だった。
「少し時間を寄越せ」
言いながら、指を自室の中へと向ける。
「何もしない」
逡巡するカリンの手を更に引いて、返答を待つこともなく問答無用で連れ込まれた。不埒なことをされるとは思っていないが、心の準備くらいはさせて欲しかった。
座れと言われて一脚しかない椅子に座る。テオグリフはどっかりとベッドに腰かけた。
……不埒なことはしないだろうが、カリンも乙女であるから、ベッドの軋む音に少々落ち着かなさが加速してしまう。
そわそわと手を揉むカリンに頓着せず、彼は重い声で言う。
「カリンは、俺が怖いか」
それは疑問ではなく確認だった。
言い訳もできずにこっくりと頷くと、軽い溜息が聞こえて慌てる。テオグリフに悪いところなどひとつもなくて、全てはカリンが怖がりなのが悪いのだ。
「いや。おまえを嫁に薦められたとき、おまえが化け物を怖がっていることは既に知っていたんだ。それでもとカリンを求めた俺が悪い」
「わかっていて、なぜ……」
「元々、あいつからカリンの話は聞いていた。死にそうに怖がるくせに、ちょっと可哀相な化け物の話を聞くとすぐに同情するお人好しの従妹がいるとな。それなら俺も頭ごなしに否定されず、怯えながらもそばにいてくれるんじゃないかと夢を見た」
「それは……申し訳ありません」
「どうして謝る? 夢見たとおり、おまえはそばにいてくれてる」
慰めではなく、本気でそう思っているようだった。
青くなってガタガタ震え、恐怖の眼差しを婚約者にそそぐ女など、どこをどう取ればそんなに好意的な解釈ができるのだ。
「他の女の反応を見せてやりたい。酷いものだぞ。化け物めとあからさまに見下して、およその場合は挨拶すら成立しない」
その点カリンはよかったと彼は言う。
怯えているくせに会話が成り立つ。化け物を警戒しているつもりでも抜けていて、共に食事をしてももりもり食べるし要望ははっきりと述べる。当たり前の対応に優しさを感じ、受け入れられない自分に罪悪感を覚え、どうにか歩み寄ろうと苦悩する。
「婚約の手紙が届く一月ほど前に、茶会で子猫を助けただろう」
それには覚えがあった。
庭を散策していたら突然やけに木が揺れて、すわ化け物かと心臓が止まりそうになったのだ。逃げ出そうと足を下げたところで主催者の子猫が逃げた話を思い出し、もしかしたらと近付いたら案の定だった。
みっともなく腰が引け、全身を震わせていたのだが。
「まさか……見て……!?」
「偶々だが。あの男も一緒だった」
従兄はもしかして疫病神の類ではないのか。
羞恥に涙ぐむカリンの頬を、擽るように指の背が撫でた。くぐもった笑い声が小さく聞こえる。
「そんなに怖いなら逃げればいいものを、愚かな子だと思ったよ」
柔らかな調子で貶してくる、そのベールの下の表情を知りたいと思った。
じっと見詰める視線に彼はしばらく沈黙を返した。やがておもむろにベールへと手をかける。
しゅるり、と衣が擦れる音がした。顔を晒そうとしているのだと気づき、ハッとして両手で己の目を覆う。
「怖いか」
「テオグリフさまは」
「テオでいいと言っている」
「て……テオさまは、どんなお顔であれお優しい方に違いはないと、思うのですが」
そばにいるというだけで喜んでくれる寂しいこの人を、怖がらずに受け入れたいと思う。恋愛対象としてまでは多分辿り着けていないけれど、カリンは間違いなく優しいテオグリフのことが好きだ。
でも、思いだけではどうにもならないこともある。
「私はきっと悲鳴を上げて……テオさまを傷つけてしまいます……」
「悲鳴を上げてもいい。倒れても。もし恐怖のあまり逃げたくなったら……逃げても、仕方がない」
ぐっと唇を噛んで涙を堪えた。そんな寂しい声を聞きたくはない。
「こ、心の準備をさせてください!」
「うん……?」
女は度胸、と拳を握る。
「口はお顔以外にありますでしょうか!」
「は? いや、あるわけがない」
「鼻はさすがにおひとつですよね!?」
「当たり前だ」
「目……目は、8個……いえ、6個……我儘を言えば、できれば、できれば偶数がいいのですが……!」
「ふたつに決まってるだろ。待て、待て」
「では、なんですか、腕が6本くらいあるんですか、怖い……」
「顔の布を取ると腕が生えてくるのか!? それは俺でも怖い!」
じゃあ一体何が化け物要素だというのだ。顔を上げると、自棄になったような粗暴さでテオグリフがベールの飾りを取った。
ジャラジャラという音の後、はらりと薄い布が落ちる。
現れたのは端正な顔。切れ長の目がふたつ、程良く高い鼻がひとつ、見慣れた形のよい口がひとつ。
「……」
「…………」
見惚れるほどの色男に眉を寄せると、彼は座った眼差しをして長い前髪を上げる。
ベール飾りと同じサイズ、親指より少し小さいくらいの、ツノのようなものがふたつ生えていた。
「…………ええ、それだけ?」
「どんな化け物だと思ってたのか言ってみろ!」
「だってえ!」
化け物といったら、もっとドロドロぐちょぐちょの恐ろしいものを想像するに決まっているではないか! カリンは悪くないはずだ!
淑女らしくもなくドタドタと自室に戻り、バタバタとテオグリフの部屋に戻る。
持ってきた平たい箱に入った大量の紙を、できるだけ視界に収めないように差し出した。
うわ……と引いた声が漏れる。
「……あいつは……また無駄な才能を……」
「怖いでしょう? 怖いでしょう! そういうのを化け物っていうんですよ!」
「部屋の隅に逃げるほど怖いなら、絵など捨てればよくないか」
「捨てたら呪われそうじゃないですか!」
否定はされなかった。あの従兄の絵は、それほどまでにおどろおどろしいのだ。
「なるほど、それでか」
何がなるほどなのだろう。
「耐性があるということだ」
「?」
嫌そうな顔をしながら一枚一枚紙を捲るテオグリフの顔は、紙面とは大違い。
化け物なんてとんでもない。ただの美青年にしか見えなかった。
それから、テオグリフはベールを被ることを止めた。
ツノが生えている理由はわからないそうだ。先祖が魔物だったとか竜だったとかいう話はあるものの、資料のひとつも存在しない眉唾物だという。つまりただの突起物である。
色々と騒ぎは起きた。カリンにとってはただの突起物だったが、一部の人は声高に彼を化け物と罵り、怖がった。世の中にはカリン以上の怖がりがいるらしい。可哀相に。強く生きて欲しい。
なお、彼を知る人は大体、ただ驚いただけだ。
「おや、隠しておられたのはツノでしたか。ベールを脱がれたのは、どういった心境の変化で?」
顔を晒して出歩くようになったテオグリフは、以前より格段に声をかけられるようになったと言う。そりゃあ、いくら気性が穏やかでも、不審人物より美男子に声をかけたいだろう。
「私の怖がりな婚約者が」
涼やかな目元を溶かして、彼は笑う。
「そんな突起物よりニキビの方が痛くて怖い、などと言うものでな」
「ははっ、それは確かに!」
長々と大笑いされた日を思い出して唇を尖らせた。カリンは真面目に言ったのに、酷いではないか。呼吸困難で死ぬかと思ったなどと。
「おい、拗ねるな。可愛いエピソードだろう」
「あなたの披露するお話のせいで、最近の私は豪胆な女だと言われてるんですよ!」
「どちらでもいいじゃないか」
「よくありません。豪胆な女なんて、可愛くない」
「そうは思わないが」
機嫌を取るように指先を撫でられても、頭に口づけを落とされても、すぐに許したりはしてやらない。あまりカリンのことを面白おかしく言いふらさないよう、しっかり釘を刺しておかなければ。
顔を背けたカリンに、彼は何か考えるように口を閉ざした。何を考えていようと知ったことではない。存分に困ればいいのだ。
この優しい人のことなど、カリンはもう何も怖くはないのだから。