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岸辺の物語「ルルヌイの子」  作者: 観月
ネマの島の子どもたち
6/23

2

「ほらほら! お客様がいらっしゃる! お前たちはどこへなりと消えな!」


 大きなだみ声に、イオネツははっとした。


 橋の向こうから、一夜の夢を求めて、もうすぐ客たちがやってくる。

 ランタンを灯すという役割を終えた子どもたちは、この楼閣の客室にいることはできない。


「じゃあ、今日は清華亭の奴らんとこに遊びに行ってみねえ?」


 同じ階にいた、子どもたちがまた相談を始める。

 その時年かさの使い女(つかいめ)


「モニエル! フド・イオの刻(夜八時頃)になったらミラルディ様の所に薬湯を持っていっておくれ!」


 と、子どもたちの中で一番年上であるモニエルに声をかけた。

 階下へ向かおうとしていたモニエルが歩みを止め、声をかけてきた使い女に「わかりました」と返事をしたので、後ろから階段を下りようとしていたイオネツは、危うくぶつかりそうになる。


「あ、ごめんね」


 腰をかがめたモニエルがイオネツを覗き込むようにして言った。

 だがすぐに階下からモニエルを呼ぶ鋭い声がして、二人ははっとしてそちらを見下ろす。

 ひとつ下の踊り場では、子どもたちのリーダーであるテノッサが、睨むようにこちらを見上げていた。

 テノッサは、ひときわ背が高く、すでに男の気配をまとわせ始めている少年だ。モニエルとは同い年で、艶麗館に住む子どもたちの中で最年長組である。

 イオネツと目が合うと、テノッサは「チッ」と小さく舌打ちをして、すぐにモニエルに視線を移した。


「薬湯を運ぶ仕事が終わったら、清華亭に来いよ!」


 テノッサはモニエルがうなずくのを見届け、回りを取り囲んだ子どもたちに、


「行くぞ!」


 と顎をしゃくってみせる。

 テノッサが歩きだすと、子どもたちは、皆慌てたように彼の跡を追いかけて行った。

 あっという間に、子どもたちの姿が階下から消える。


 モニエルは何か言いたげにイオネツの視線を捕まえようとしてきたが、イオネツは彼女の脇を通り抜け、自分の足元だけを見つめながら階段を駆け下りて行った。

 階下に降りると、他の子どもたちは、裏口から艶麗館を出て行くところだった。取り留めのないおしゃべりの断片や笑い声がイオネツの耳にまで届く。

 イオネツは、遠くなっていく物音に耳をすませながら、柱の陰で彼らが出て行ってしまうのをじっと待っていた。

 しばらくすると、艶麗館の中からは子どもたちの気配が消えた。

 このまま艶麗館の中で一晩を一人で過ごしてもいい。意地悪な友人たちはだあれもいないのだ。読み書きの練習をしたり、母からもらった、きれいな絵の付いた本を読むのもいいかもしれない。

 けれど……。

 イオネツは裏口の先の夕闇に目を向けた。

 しっとりとした湿気を含んだ夜気が開け放たれた戸口から入ってくる。

 イオネツは一度館の中へ目を向け、それからまた外へと視線を動かした。

 パチリと一つ瞬きをすると、裏口から外へと駆け出していった。

 そうして、島の中央にあるナトギの社を目指した。

 マスカダインの自然の精霊ナトギ様を祀る社には、夜の間訪れる者はほとんどいない。だから、誰にも会いたくない時は、イオネツはそこで一晩をやり過ごすことにしている。

 門をくぐり抜け、曲がりくねった道を歩いて行くと、たちまちイオネツのまわりはナトギ様の濃い気配に包まれた。

 歩く速度を緩めながら、イオネツはほっと肩の力を抜いていく。

 祠のある場所まで来ると、清めの場に用意された水で手を濯いだ。


「こんばんは、ナトギ様」


 イオネツがそう言うと、祠の前に備えられた何本ものろうそくが、ふわりと揺らめいた。

 祠の前には参拝者用にと小さなろうそくが何本も用意されている。

 イオネツは石造りの箱に入ったそれを手に取ると、社の前の大きな燭台の真ん中にある一番大きいろうそくから火をもらう。そして、空いているところへと火の灯ったそれをお供えし、静かに手を合わせた。

 燭台の中央に灯された一番太いろうそくは、ちょうど一晩燃え続ける大きさで、強い風が吹いても消えてしまうことがないのだそうだ。それこそが、ここにナトギ様がいらっしゃる証拠なのだと言われている。


「ねえねえナトギ様、今日の鍵役はお母さんだったんだよ。ナトギ様も見たでしょう? ここからお練りが始まるんだもんね。僕は艶麗館の一番上から見ていたんだけどね……」


 しんと静まった社の中に、イオネツの声だけが響いていた。

 いくらイオネツが普通より霊力が強いと言っても、人と話すように精霊と会話ができるわけではない。

 ただこうして話しかけていると、炎が揺らめいたり、まわりに浮遊する精霊の興味がイオネツに向かい、こちらをうかがっているのを感じることができる。

 イオネツが笑えば、炎の揺れが大きくなり、一緒に笑ってくれているように感じる。

 ナトギ様との交信を楽しんでいたイオネツがふっと言葉を途切らせると、後ろを振り返って、スンスンと鼻を鳴らした。


「ね、ナトギ様、誰かくるよ」


 ナトギの社に背を向けたイオネツの瞳が輝く。


「きっといい人だよね。だって、澄んだ水のような、すごくステキな匂いがするよ」


 期待に胸を膨らませて細い参道の向こうを見つめるイオネツに、


「ナトギ様とやらは、本当にいるもんなのかねえ……?」


 という声が聞こえた。

 若い男の声だった。いや、男というよりは少年らしさの残る声だ。もしかしたら、イオネツと同じくらいの年齢かもしれない。

 木立に遮られた参道の先は、イオネツの立っているところからは見えない。

 けれど、相手にもイオネツの気配が伝わったのだろうか、こちらへ近づいてくる男の歩みが遅くなり、ぎゅっと緊張感を漲らせていく。


「ナトギ様はいるよ」


 イオネツがそう言うと、参道から姿を表した若い男は立ち止まり、しばらく目を見開いてイオネツを見つめていた。

 イオネツの金の髪と白い肌は、このロワンザでは珍しいから、こんな反応をされることには慣れている。

 けれど、目の前にいる男からは嫌な気配はしない。とても澄んだ、水の匂いだ。

 イオネツはすっと左手を振った。

 参拝者が手を清めるために用意された桶の中の水が浮き上がる。右手を振ると、ろうそくの火が伸び上がり、ろうそくから炎だけが離れて、意思を持ったように蠢き出す。

 男が息を呑む。


「お前……だれだ?」


 警戒はしているのだろうが、この不思議な現象を見て驚いてはいるようだが、イオネツに対して畏怖や悪意の感情は持っていないようだった。


「僕、イオネツだよ」


 小さく笑いかけながら、イオネツは答えた。


 ◇


 ルルヌイ川中流から下流にかけての流域は、雨の降る日数は少ないのだが、いったん降り出すと地雨となり、数日降り続くことが多い。


 ナトギの社で一晩を明かし、今しがたウォルセフと別れたイオネツは、そんな薄暗い雨の街を、軽い足取りで艶麗館へと向かっていた。

 人影のまばらな早朝、イオネツの立てる水音だけが、静かな通りに響いていた。

 物見遊山の観光客は、たいてい夜のうちに逗留(とうりゅう)先の宿へと引き上げてしまう。昨夜は雨が降り出したために、早めに中洲を後にする客が多かったはずだ。

 一方、贔屓の女の元へ通う客は、まだ女の腕の中でまどろんでいるはずで、マスカダイン最大の歓楽街は、いっときの静寂の中に沈んでいた。


「島を出たら、訪ねてこいよ」


 別れ際に言われた言葉が、胸の中でほわんと跳ねている。

 昨日までは、ネマの島を出て行かなければならないことが、不安でしょうがなかった。

 生まれてからこれまで、島から出たこともなければ、母から一日以上離れていたこともない。自分の生きてきた十三年間の全てが、ここにあった。

 今でも、不安がないと言えば嘘になる。ネマの島にこのまま留まれるのなら、そうしたい。

 だが、昨日までの気持ちとは、少しだけ違ってきている。


 ――だって、友だちができたんだ。


 イオネツは目の前の水たまりをぴょんと飛び越えた。

 チャプ、ピチャ、パチャ……。

 足下で、そこここに溜まりはじめた水が音を立てる。艶麗館の近くまで戻ってきた時、前を行く子どもたちの一団を見つけた。

 まず目に飛び込んできたのはテノッサの姿だった。テノッサは背が高く、遠くからでもすぐに彼だと知れた。

 いつもなら、気づかれて嫌味を言われるのが嫌で、距離を開けノロノロと後ろからついていくのだが、今朝のイオネツは、石畳を蹴り上げる足に力を込めて、グンとスピードをあげた。

 水しぶきを上げ、子どもたちの一団の横をすり抜けていく。

 数人がイオネツに気づき、びっくりしたような目をして見ていたが、駆け抜けていく勢いに、声をかけるタイミングを失ってしまっていたらしい。

 イオネツはなんだか笑い出したいような気持ちになって、艶麗館の裏口に勢い良く飛び込んだ。

 入り口には、年老いた使い女(つかいめ)が、ちょうど番をしていた。

 使い女というのは、年を取りすぎたり、病気があったりして、遊女として働くことのできない女たちのことだ。


「イオネツ? びしょ濡れじゃないか!」


 女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑いながら柔らかい布を差し出してくれた。子どもたちの中では浮いているイオネツだが、特に高齢の使い女たちは、イオネツに優しくしてくれる。


「母さんは、まだ仕事中?」


 イオネツは手渡された布で、頭の先から足先へ向かって、大急ぎで体を拭っていった。


「いや、もう上がったはずだよ。お客様がわりと早く帰られたようだったからね。部屋へ上がってもだいじょう……」

「ありがとう!」


 使い女が「大丈夫だよ」と言い終わるより前に、イオネツは礼を言うと、しっとりと濡れた手ぬぐいを女に渡して、走り出していた。


「あっ、こらっ! イオネツ、走るんじゃ……」


 そこまで言って、使い女の女は後の言葉を飲み込んだ。

 館の中に、まだ残っている客がいることを思い出したのだろう。

 イオネツは、咎められなかったのをいいことに、急な階段を駆け上がった。

 母であるタジエナの部屋は、この艶麗館の最上階、第五層にある。第五層がまるまるタジエナの部屋となっており、それは、ジュンランであることの特権であった。

 この島の中の最上級の遊女であるタジエナは、その他にも多くの面で優遇されていた。例えば彼女のためだけに仕える下衆と使い女を一人ずつ持っていることも、そのうちのひとつだ。

 最上階にたどり着き、部屋の引き戸を開ける。

 部屋の中で母のタジエナは、窓際に寄せた椅子に座り、物憂げに雨にけぶるロワンザの町を眺めていた。 


「母さん!」


 イオネツは、まっすぐに母の膝に飛び込んだ。タジエナのふわふわとした金の髪がウォルセフの頬に落ち、くすぐったさにイオネツは目を細める。


「イオネツ。まだ館にはお客様がいるの。走ってはダメ」


 頭の上から母の声がする。


「体が冷えてるわ。ピティナ……」


 タジエナに呼びかけられた使い女は、手早く厚手の手ぬぐいと、イオネツの着替えを用意した。


「あのね、母さん。僕、友だちができたんだ。あのね、昨日はナトギ様の社に遊びに行ってね。そこでウォルセフに会ったんだよ」


 ピティナに体を拭かれたり、着替えさせられたりしながら、イオネツは母に向かって昨夜の出来事を話す。

 イオネツの世話を終えると、ピティナが部屋を辞したため、広い部屋には親子二人だけになった。

 イオネツは母の足元に座り込み、温かい膝に頭を乗せる。


「ウォルセフはルルヌイの子なんだって。母さん知ってる?」

「ルルヌイの子……ルルヌイ川の渡しを生業(なりわい)にしている孤児たちね?」


 タジエナはそう言いながら、膝の上にある息子のしっとりと濡れた髪の上に手を滑らせた。

 いつも後ろで一つに縛っているイオネツの金の髪は、今は解かれ、タジエナの膝の上に散っている。


「うん、そう。しかもウォルセフはね、ルルヌイの子のグループのリーダーなんだって。それで……それでね」


 イオネツはそこで少しだけ声をひそめた。 


「ウォルセフからは、すごくいい匂いがしたんだ」

「いい……におい?」


 イオネツは、タジエナの膝の上で、スンスンと鼻をうごめかした。


「母さんもいい匂いだけど、ウォルセフとは違う」

「ウォルセフはどんな匂いがするの?」

「うん。母さんの匂いはオレンジ色。それで、ウォルセフのは透明な青い色なんだ」


 イオネツの言葉にタジエナはくすりと笑った。


「素敵な色ね。ルルヌイの子らしいわね。でもイオネツ、匂いのことは内緒にしなくてはいけないの。普通の感覚とは違うから」

「うん、わかってる。でも、ウォルセフには……言っちゃった」


 怒られるのではないかと、イオネツは不安げな瞳で母を見上げたが、タジエナの瞳は優しく笑んでいた。

 タジエナの笑顔に勇気づけられて、イオネツは事細かにウォルセフとの出会いを語って聞かせた。

 

 気がつくと、だいぶ時が過ぎていたらしく、刻の門が閉じられていく様子が、窓の外にみえた。

 雨雲に陽の光を遮られたうす暗がりの中、開かれるときとは打って変わった静かな閉門だった。


「さあ、イオネツ。私は少し休むわ。あなたはどうする?」


 タジエナの言葉に促され、イオネツが立ち上がる。

 その時、階下がざわざわとし始めた。バタバタと何人かの人間が走っていくような音が聞こえる。良くは聞き取れないが、誰かが大きな声を上げていた。

 何事だろうと、イオネツとタジエナは顔を見合わせる。

 イオネツは様子をうかがおうと、部屋の戸を開け下をのぞきこんだ。


「荷改めだー。荷改めが行われるぞー! 全員、自分の荷物を持って、一層の大広間に集まるんだー!」


 下衆の野太い声が、艷麗館に響き渡っていた。


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