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 ◇


 タジエナは、シェシェルに恋をした。

 大好きだった兄のような人が、いつから恋しい人になったのか、タジエナはよく覚えていない。

 タジエナは幼い頃から抜きん出て美しい容姿をしていたから、男の子から交際を申し込まれることも何度もあった。

 そのうちの何人かと、おままごとじみたおつきあいをしたこともある。

 そういう男の子たちが目の敵にするのがシェシェルだった。


「シェシェルは私にとって特別なのよ」


 シェシェルに対抗心を燃やした交際相手を、タジエナはそう言ってバッサリと切って捨てた。

 そんな経験をいくつか重ね、十五になった時、初めてこの人ならと思える人に巡り合った。

 彼は優しかったし、シェシェルについて変な対抗意識を燃やすこともなかった。

 けれど、初めてその彼と唇を合わせた時、蘇ってしまったのだ。

 あの、初めてのピクニックで、タジエナの手に優しく触れたシェシェルの唇を。

 ゾクリとタジエナの背を震わせたのは、今目の前にいる彼のものではなく、遠い記憶のシェシェルのものだったのだ。


 ぽろぽろと、タジエナの瞳から涙がこぼれた。


「どうしたの?」


 そう聞いてくれた彼は、優しい人だった。シェシェルのように穏やかで、思慮深くて、好ましく思っていた。このままお付き合いを重ねれば、遠からず夫婦になるのではないかと、想像することさえあった。

 でも違ったのだ。タジエナの前にはいつでもシェシェルという存在があって、あまりに近くて、あまりに大きくて、気づかなかった。

 タジエナの瞳は、付き合ってきた男たちの向こうに、シェシェルの像を知らず知らずに結んできたのだ。


「私、あなたとお付き合いを続けることが……できない」


 ずいぶんと幼くて、自分勝手な言葉だっただろうに、彼はそれを受け入れてくれた。聡明な彼は、タジエナの気持ちにとうに気づいていたのかもしれない。


 成人したシェシェルは丘の麓の果樹園の中に小さな小屋を建てて一人で住んでいた。『変わり者のシェシェル』と呼ばれていた彼のもとに、タジエナは足繁く通うようになった。

 タジエナの両親も、シェシェルの両親も、タジエナの行動に何も言わなかった。どこかで、こうなることを予想し、認めていたのかもしれない。

 シェシェルは今、どうやったら一つの木から大きくて美味しい、たくさんの実を収穫することが可能になるのか? という研究に夢中である。

 それ以外のことには、まったく興味が無いといった様子だった。

 お弁当を作って通ってくるタジエナに優しく接してはくれたが、色っぽい雰囲気になることなどは、皆無である。


 ――シェシェルから、結婚の申込みをしてくれるのを待っていたら、おばあちゃんになっちゃうわ!


 タジエナはそんなふうに考えるようになっていた。

 よくよく考えればタジエナはまだたったの十五歳だったのだけれど、一緒に過ごしていても、まるで手を出してこようとしないシェシェルにいいかげんやきもきしだしていた。

 そんな時、変化は起きたのだ。

 思いもしない形で。


「ねえ、知ってる? 神霊チム=レサ様の代替わりが近いそうよ」


 そんな噂がレンフィーの町の中でささやかれるようになっていた。


「今ね、隣の町に神官たちが来てるんですって」

「なんで?」

「決まってるじゃないの! 次の器候補を探してるのよ」


 このマスカダインという島は、神霊様が治めていらっしゃる。

 遠い大陸のように、王様がいたりしない。だから大きな戦争もない。穏やかに人々が暮らせるのは、神霊様のおかげなのだという。

 その神霊様は、遠い昔遠いところからこのマスカダインに降り立ったのだと言われている。

 そして、マスカダインで暮らす人々と、取引をした。

 人々は神霊様の力を分け与えてもらう代わりに、神霊の力を受け、神霊の器として生きる人間を三百年に一度、差し出さなければならない。

 器となった人間は、それまでの神霊の記憶を受け継ぎ、新しい神霊様になるのだ。そうすると、次第に個人としての記憶や感情は薄れていき、新しい神霊になってしまうのだという。


 マスカダイン島に住む者なら、誰もが知っている話だ。

 けれども、誰も自分自身にそんなことが降り掛かってくるなんて、思ってはいないだろう。なにしろ、三百年にたったの一度のことなのだ。

 そうしている内に、このレンフィーの町にも、神官の一行はやってきた。

 数名の神官と、幌の付いた馬車が一台。


 雷の神霊チム=レサの代替わりは、ダフォディルにとって大きな大きな節目ではあったのだろうが、タジエナは自分に関わりのあることとは思っていなかった。

 どこか遠くの神殿にいらっしゃる神霊様の器が入れ替わるだけ。 

 そのはずだった。


 ダフォディル神殿の神官たちがレンフィーの町へやってきて二日目の夜のことだった。

 雨の少ないダフォディルなのに、その日は珍しくお昼を過ぎたあたりから篠突くような雨が降り続いていた。

 その雨の中、もう夜だというのに、ぐっしょりと濡れそぼったシェシェルの両親がタジエナの家を訪ねてきた。

 雨の日にの夜に誰かが尋ねてくるというのはとても珍しいことだったから、タジエナはよく覚えている。

 シェシェルの母親とタジエナの母親は、とても仲の良いいとこ同士だった。


「どうしたの? こんなに濡れて!」


 タジエナの母がタオルを持ってこさせて、体を拭いてやっているが、シェシェルの母親は、ただ泣いているばかりだ。


「シェシェルが……器候補に選ばれたのよ……」


 そう言って、泣き崩れる。


「え? なんて言ったの?」


 タジエナの母が聞き返した。

 聞こえなかったわけではないのだろうが、その言葉の意味を理解することができなかったのだろう。


「シェシェルが、選ばれたのよ。昨日、神官の一行がこの町について、すぐのことだったわ……。今までずっとシェシェルと過ごしてたの。家族としての、最後のひとときですからって……神官が……でも……」


 そこまで言って、シェシェルの母は、部屋の入口で固まっていたタジエナを振り返った。


「シェシェルが……最後に……タジエナに……会いたいと言っているわ」


 その言葉を聞いた途端に、固まっていたタジエナは弾かれたように動き出した。

 水を弾く加工を施した外套をはおり、家の外へと飛び出していく。


「シェシェルは、自分の小屋にいるわ!」


 暗い雨の中へ飛び出したタジエナの背に、シェシェルの母の声が小さく届いた。


 ◇


 暗い雨の中、辿り着いた小さな小屋の中での最後のひととき。共に過ごしたシェシェルは、あまりにもいつもと変わりなくて、もう、会えなくなってしまうだなんて、タジエナには信じることができなかった。


「候補の内の一人なんでしょう? 本当に神霊様になるって、決まったわけじゃないんでしょう? もし、神霊様になれなかったらレンフィーに戻ってこれるんでしょう?」


 シェシェルはゆっくりと頭を振った。彼の顔には、こんな時だというのに穏やかな笑みが浮かんでいる。大好きなその顔が、タジエナには憎らしくてたまらなかった。


「タジエナ。器候補たちはね、代替わりの儀式のときに、一度神霊様をその身に受け入れなくてはならないんだって。そうすると、神霊様の力は偉大だからね、僕たちはもう神霊様のお傍から離れて生きていくことはできなくなるんだ。それに、神霊様と同じくらい長生きになるんだって。だからそうして神霊の器になれなかった器の候補たちは、神霊様の眷属になって、ずっとダフォディル神殿で、生きていかなくてはならないんだよ」

「うそ! 嘘でしょう?」

「来てくれてありがとう、タジエナ」


 感謝の言葉と、やさしいキスだけで別れを告げようとしたシェシェルにすがったのはタジエナだ。


「私に後悔させないで!」


 と、脅したのもタジエナだ。

 だから、後悔なんかしない。絶対に。


 シェシェルのいない日々に打ちひしがれていたタジエナは、自分の中に小さな命が芽生えていると知った時、喜びに震えた。

 まだ十六 歳のタジエナの妊娠を知った両親は慌てふためいた。

 しかも相手のシェシェルは、その頃には新たな神霊チム=レサとなってしまっていた。


「タジエナ。隣町の取引先の息子さんが、お前を嫁にしたいと言っているの。ね、この町にこのまま住んでいても、みんなの噂の的よ。生まれてくる子も、嫌な思いをするかもしれないわ」


 両親が慌ててそんな話を持ってきたのも、無理のないことだったのかもしれない。


「私、この子を産んだら、一緒にダフォディル神殿へいくわ。神官の試験を受ける」

「馬鹿なこと言わないで!」


 何度も母親と口論を重ねた。

 ある日父親が重たい口を開いた。


「タジエナ。神官になれるのは、力を持った者だけだ。いくら努力したからと言って、お前がただ単にシェシェルの恋人だったというだけでは、決して神官になどなれないのだよ。それに、お前は子どもを連れて行くと言うが、子どもを連れて神官になることは、そもそもできない」

「そんな……」

「子どものことを、考えなさい。いいかい? 十五を過ぎなければ神官の試験を受けることはできない。それはなぜだか知っているかい?」


 タジエナは首を振る。

 神殿だの神官だの、神霊なんていうものは、今まで遠い世界のことで、詳しく知ろうなんて思ったことはなかった。


「神霊様のお力は強いからね。十五を過ぎるより前、まあ、子どものうちから神霊様のお傍近くにいると、離れられなくなるのだそうだよ。そうなってしまった子どもは、神霊様のお力の届く範囲でなければ死んでしまうのだそうだ。そうだね、幼ければ幼いほど、眷属と同様のものになるのだそうだよ。お前、子どもに広い世界を見せてやることもなく、生まれる前からそんな運命を背負わせるつもりかい?」


 タジエナは自分の身体がすうっと冷えていくのを感じた。握った手のひらが冷たいのに湿っている。


「私の知り合いでね、子どものいない夫婦がいるんだよ。お前の子が生まれたら育てたいと言っている。お前はまだ若い。隣町の取引先の息子さんと、もう一度やり直してもいいんじゃないかい? 向こうは、お前の出産が終わるまで待っていてくれると言っているよ。父さんも会ったことがあるけれど、優しそうないい息子さんだったよ。あちらがタジエナを気に入っていてね。そうしてくれると、父さんも助かるんだが……」


 なんでも手に入ると思っていた。

 誰からも愛されて、何不自由のない生活をしていた。

 いままでずっと、そう思っていた。


 タジエナには、目の前の父親が、急に知らない人になってしまったかのように思えた。

 大きくて、頼りになる人。

 けれど、今目の前にいる男は、くたびれて、自分の得のために娘を売り渡そうとしているのだ。

 取引先の息子。

 もう、親同士では話がついているのだろう。


「わかりました」


 そう答えたタジエナは、けれども、身の回りのものをまとめると、その日の夜の内に家を抜け出し、徒歩で南のアマランスへと向かって旅立ったのだった。

 


 ◇


「その人が……僕のお父さんなの?」


 黙ってタジエナの話を聞いていたイオネツが初めてつぶやいた。


「そうよ。だからあなたのお父さんは今はダフォディル神殿にいらっしゃるの。神霊の器として、これから何百年という時を生きていく人なの。あの人の力はあなたにも受け継がれている。そうでしょう?」


 初めて母の口から語られた父の話に、イオネツは口をあんぐりと開けた。

 今までたった一言だって、父について母のタジエナから語られたことはなかったのだ。中洲の子どもたちは父親の知れない者がほとんどだから、そのことをイオネツが疑問に思ったこともなかった。


 神霊様というのは、このマスカダインを導いてくださる方々のことだ。マスカダインに住んでいる者なら、そんなことは誰でも知っている。

 彼らは人間を器として、器から器へと乗り移りながら永遠の時を生きつづけることができるのだと聞かされている。

 器となった人間も、神霊を受け入れることで普通の人間ではなくなってしまう。自分というものを次第になくしていき、神霊と同化しながら、三百年にもなる寿命を生きていくのだそうだ。そうして器が長い生を閉じようとする時、神霊はまた次の器を探すのだと言う。

 自分の父親が生きている。そのことだけでも驚きなのに、父は神霊の器となって、神霊をその身に受け入れ、ダフォディル神殿にいるのだという。

 そんなこと、すぐに信じろという方が無理な話だ。


「それで、母さんは一人でアマランスまで……このネマの島まで来たの?」

「いいえ」


 母はすぐに首を振った。


「ダフォディルとアマランスの国境のヤヴェロワ川を渡ったところで、ワノトギが私を迎えにやってきたわ」

「ワノトギ?」

「ええ、眷属や神官は神殿や、自然霊ナトギをっ祀った大社に住んでいる方々のことだけれど、ワノトギは神霊によって浄化されたトギをその身に住まわせて、このマスカダイン中に散らばる旅人たちのこと、知ってるわね?」

「うん。マスカダインを旅して歩いて、悪霊をやっつけてくれる人のことでしょう?」

「ええ……ワノトギである人がここまで私を連れてきてくれたの。そして、彼の知り合いだったミラルディに私を引き合わせてくれたのよ。なんでも、自然霊ナトギ様から、私が神霊さまの子どもを身ごもって、旅に出たと伝え聞いたのですって」


 予想を遥かに上回る母の告白にイオネツは言葉を失ってしまった。

 そんなイオネツに母はなおも言葉を繋いだ。


「イオネツ。あなたには力があるわ。十五歳になったら神官になるための試験を受けることができるし、あなたの力ならきっと合格するわ。本当はね。ヴェイアには神官の試験を受けられる十五歳までお前を預かって貰う約束になっているの。少しずつお前に伝えようと思っていたけれど、しょうがないわ。イオネツ。外の世界へ出て行きなさい。そしてお父様のところへ……ダフォディル神殿へ行くのよ。そのためには、この十三歳までにネマの島から出なくてはいけないの。そうしないと、もう外へは行けなくなってしまう!」


 そこまで話を聞いて、ようやくイオネツは我に返った。

 


「そんなの! 無理だよ……お父さんなんて、今まで、名前すら知らなかったのに……、そんなの、神殿に行けだなんて……しかも、アマランスじゃなくて……ダフォディル? 僕、ネマの島から出たこともないんだよ?……僕には……無理だよ」


 母の顔が涙で霞んでみえた。


「ねえ母さん! 僕、鞭で百回叩かれたっていいよ! 罪人の入れ墨を体に彫られたってかまやしないよ! 僕の指だってあげる! だから僕……ネマの島にいたい!」


 零れ落ちそうになる涙を腕で拭う。


「母さんのそばにいたいよ! ダフォディルなんて、行かない!」


 押さえきれなくなった思いが言葉となって、そして流れる涙となって溢れだし、もう拭うこともできずに、イオネツの頬を濡らしていた。

 

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