5話 落下
「百メートルくらいあるか?」
崖から身を乗り出して下を覗いてみると木がはるか下に見えた。
身体能力が上がり、人間離れした跳躍力を持つようになった今でもこの高さから落ちたらと想像すると肝が冷える。
(どこから降りるんだ?)
降りる場所を探してぐるっと足元から向こう側まで崖を見回してみるが、見る限りどこも断崖絶壁で降りられるような場所は見当たらない。
「俺はここまでだ。行け」
「どこから降りるんですか?」
「どこでもいいだろう」
「? どこでもって……」
もしかしたらロープでも使うのだろうか?
ロープを使った上り下りも訓練しているためできないことはないが、アンジの手にも俺の背嚢にもロープはない。
不思議に思いながらどうやってこの崖を降りるのか思案するため、再び頭を崖から出して下を覗いてみる。
「早く行け」
「え?」
すると後ろから催促するアンジの声が聞こえると同時に、背負った【撃鉄】に衝撃が走った。
足裏に感じていた地面の感触が消え、浮遊感に襲われる。
何がぶつかったかを確認するために顔を後ろに向けると足を突き出したアンジの姿。
「あいつ蹴りやがった!!!」
俺の体は崖から蹴落とされ落下を始めた。
目測百メートルはある断崖絶壁。
不意打ちによる浮遊感で股が寒くなる。
(死ぬ!!!!)
何もしなければ数秒で地面のシミ。
崖の方に手を延ばそうとするが、少し距離が足らず手が空を切った。
この行動だけで地面までもう半分まで落ちてきた。
地面の前に木があるが、このまま枝がクッションになる事を信じて命を預けるのは心もとない。
「ふっ!」
背中に手を延ばし【撃鉄】を掴んでそのまま崖の方に向かって振り抜き、そのまま手を離した。
空中で踏ん張りの効かない態勢で振られた【撃鉄】は俺より重い。
その重たい【撃鉄】を空中で手放すことで、反作用を得ることが出来た俺の体は垂直方向に加えて横方向への力を得る。
真っすぐに落ちるだけだった俺の体は斜め方向に向かいながら、足から樹冠に突っ込んだ。
バキバキと音を立てながら枝をへし折っていく。
視界が開ける。
木の枝を折りながら樹冠を抜けた俺の向かう先には太い木の幹が見えた。
(掴めるか……?!)
幹に着地した瞬間に手を延ばせばしがみつけるかもしれない。
そう思ったが、足に衝撃が走った瞬間俺の体は幹から弾かれてしまった。
「やば!」
落ちる。
もうどう手足を伸ばしても掴める物はなく、【撃鉄】も手放してしまったため万策尽きた。
(せめて着地は足……)
そして俺の足から全身に衝撃が走った。
その衝撃に俺の膝は耐えきれずに曲がり、なすすべなく俺は地面を転がっていった。
…………生きている。
視界一杯に広がる樹冠の葉と木漏れ日。
俺は大の字で倒れているらしい。
頭についた葉を叩き落としながら立ち上がると心臓がかつてないほどにうるさく早鐘を打っていた。
「死ぬかと思った……」
下手したら猩々にボコボコにされた時より命の危険を感じたかもしれない。
「怪我……はしてないな」
全身をストレッチしながら痛みのある場所を探してみるが、どこもスムーズに動くし、奇跡的に怪我はしていない。
「ははっ……俺……凄くね?」
アドレナリンが出ているのか変な笑いが出た。
「殺す気か!!」
そしてふっと我に返り、崖上にいるであろうアンジに向かって叫ぶ。
本当に死ぬかと思った。
崖の上にいるであろうアンジの方を見ると、丁度木の隙間から小さくアンジの口角の上がった顔が見えた。
「仕返しにしてはやりすぎだろ……死んだらどうすんだ……」
アンジにしては珍しい茶目っ気のある笑顔。
恐らくからかった仕返しだ。
からかった仕返しが落下死はあまりにも重すぎる。
「生き残れるって思われてたって事か……?」
あの笑顔、俺が死ぬとは思ってなかったに違いない。
その信頼はありがたくもあるが命に関わるような事はやめて欲しい。
もしアンジが現代日本の人間だったらパワハラクソ上司になってたんじゃないか?
俺はため息をつき、崖の傍に落ちた【撃鉄】を拾って霧の地の奥へと足を踏み出した。
「さて、どこにいるか」
まずは歩く。
落ち着いてアドレナリンが切れたのか体のあちこちが痛むが、落ちた時に確認した通り骨折のような致命的な怪我はなさそうだ。
ケシャという俺がこの世界に来た時に襲ってきた獣を倒し、その頭を持って帰ってくるというのが試練の内容。
戦おうにもまずはこの広い霧の地の中で奴らを見つける必要がある。
たまたまケシャに出会えればいいが、運任せでは何日かかるかわかったものじゃないので先ずは奴らが残す痕跡探しだ。
地面を注意深く確認しながら足跡や糞を探す。
向かう方向は崖の上から見えた中央を分断するように流れる大きな川だ。
ケシャは木の実の他に魚や肉を食べる雑食性らしい。
そのため川までいけば魚や、水を飲みに集まった他の力の弱い獣を狙うケシャを見つけることが出来るかもしれない。
少なくとも無暗に歩き回るよりはいいだろう。
暫く歩き続け、座るのに丁度いい手ごろな岩を見つけた俺は休憩のために腰かけた。
気温はそうでもないが、湿度が高くて気持ちのいい気候ではない。
多分この湿度は陥没した地形と中央を走る川のせいだろう。
そのせいなのか木や俺の座る岩などには苔が生えている。
「水には困らなさそうだな」
苔に手を突くと手が濡れるほど水分を含んでいる。
数日分の水は持ってきているが、最悪水が尽きた時は苔を集めて搾ればなんとかなるだろう。
そんな水分を多く含んだ苔の生えた岩に腰かけた俺の尻は既に濡れている。
失敗したなと思いながら背嚢から干し肉と水嚢を取り出し、食事を始めた。
干し肉を噛んでいると、ネズミにも見えるしリスのようにも見える小動物が寄ってきた。
茶色い毛におおわれた体と同じくらい大きい尻尾、頭と同じくらい大きな耳、かなり可愛らしい見た目の小動物だ。
リスのような小動物は俺の持つ干し肉をじっと見つめており、干し肉を持つ手を左右に動かすと小動物の顔も一緒に左右に揺れる。
試しに千切った干し肉を渡してみると小動物は飛びついてかじりつき始めた。
「肉食なんだ……」
木の実とか食べてそうな見た目でがっつり肉を食べる姿に少し恐怖を感じる。
「そういやリスとかネズミが何食べるか知らないな」
干し肉を食べ終えた小動物は干し肉が気に入ったらしく、もっとくれと後ろ脚で立ち上がっておねだりしてきた。
そういえば干し肉には保存のために塩が多く使われているし、小動物が食べるのは良くないとか聞いたことがある。
その事を思いだした俺は干し肉をあげたい気持ちを抑えて立ち上がった。
「もう駄目だ」
俺の傍に寄ってくるくらい人懐こいし、ペットに出来ないだろうか?
一瞬肩にこの小動物を乗せた自分の姿が頭をよぎったが、まだ一人前になっていない俺にそんな資格はないと思いなおす。
「じゃあな」
後ろ髪をひかれながら俺はさらに霧の地の奥に進んだ。
しばらく歩いていると水の流れる音が聞こえた。
意外に早く着いたと思いながらその水の音がする方に行ってみると、崖の上から見えた霧の地の中央を流れる巨大な川ではなく、俺がジャンプしなくても渡れるくらいの小さな川が流れていた。
「なんかいるな……」
川に近付いて左右を見回してみると、下流の方に水を飲んでいる鹿のような獣の群れがいた。
数は……十匹。
俺の知っている鹿よりかなり大きく、胴体部分の高さが俺の身長くらいある巨体で、頭に生えた角にも毛が生えている。
幾重にも別れた毛の生えた角の先端は鋭くとがっており、毛はふさふさというより一本一本浮き上がっていてかなり硬そうに見える。
(角毛か……)
アンジ達が【角毛】と呼ぶ獣だった。
積極的に襲ってくることはないが、近づけば襲ってくる程度には獰猛だ。
ケシャは肉食と聞いているが、この角毛を襲うかどうかはわからない。
俺は見たことがあるだけで戦ったことはないが、角毛は戦士でなければ倒すことのできないタフネスを持った獣らしい。
可食部は大きいし、なかなか美味いらしいが、積極的には襲ってこないのに喧嘩を売るにはリスクの高い獣とのことだ。
俺が角毛を見つけた時には何匹か顔を上げてこちらを向いたので、確実に俺に気付いている。
そのまま水を飲んでいるのでこれ以上近づかなければ襲われることはないだろう。
(離れるか……)
ケシャが角毛を狙う可能性は勿論あるが、群れをなす上にそこそこ強い獣を襲うかどうかは微妙なところだ。
このまま不確定な希望で角毛を観察していれば、もしかしたら俺が角毛に襲われるかもしれない。
リスクとリターンがあっていないと判断した俺は川を跨ぎ、更に奥へと向かおうとした。
その時だ。
鈍く大きな石が落ちた時のような音が背中越しに聞こえた。
俺が振り返ると、なぜか角毛が群れが全てこっちを見ている。
(なんだ?)
角毛の群れの異様な様子に冷や汗が流れる。
角毛を刺激しないようにゆっくり後ずさりして森の奥へ向かう。
(木で目線が切れたら走る……)
そう決心しながら近くの木に向かって後退していると、突然角毛の群れの中心に岩が落ちてきた。
再び鈍い音が鳴り響く。
(岩が飛んできた?)
岩が落ちてきた。
誰かが投げた?
獣か?
色んな疑問が浮かぶが、俺の考える余裕は直ぐになくなってしまう。
「はぁ?! 俺じゃねぇぞ!」
角毛達がブモーっと牛のような鳴き声を上げて一斉に俺の方へ走り出してきた。
俺が岩をあいつらに向かって投げたと思われたらしい。
「クソ!」
俺は全速力で走り出した。
無意味に戦うには数が多すぎる。
草食らしいし角毛にとっても俺を襲うのは無意味なはずだ。
逃げるそぶりを見せたら見逃してもらえるかもしれない。
そんな考えは甘い事はわかっているが願わずにいられないのが人間だ。
「駄目かっ……」
背中に迫る無数の足音。
角毛は俺を見逃す気がないようだ。
足の速さもあっちのほうが速いし追いつかれるのは時間の問題か。
「俺にお前らと戦う気はない!」
俺は立ち止まると叫びながら【撃鉄】を引き抜き、角毛の群れに相対した。
角毛の群れが俺に迫ってくる。
俺に一番近い角毛は頭を下げて鋭い毛の生えた角を俺に向けてきた。
見た目通り角が武器らしい。
【撃鉄】を持ち上げ後ろに引き、タイミングを計る。
あの角が刺されば毛が返しのようになっているため引き抜くのは難しいだろう。
また動きが止まれば他の角毛達に囲まれて一巻の終わりだ。
(毎度のことながらクソゲーだな)
一発クリーンヒット貰えば即アウト。
その事実に俺の心拍数はあがり、【撃鉄】を握った手に力が籠る。
俺は【撃鉄】横に構える。
角毛はでかい上に足が速い。
角をこちらに向けて走ってくる角毛の運動エネルギーは凄まじいものになるだろう。
たとえ奴らに角がなかったとしても突進だけで人を殺せるに違いない。
迫りくる角毛。
俺はその角毛の頭を【撃鉄】の横っ腹で殴りつけた。
両腕に感じる凄まじい圧力がかかる。
足が土に沈み、腕の血管が浮き上がる。
視界一杯に広がる角毛の大きな体。
「ふんっ!!!」
俺は角毛を斬るのではなく横から殴り倒した。
勢いよく俺に迫って来ていた角毛は、俺の横を頭から地面に突っ込み転がっていった。
鉄の塊を横から顔にぶつけられ、角毛は気を失ったようだ。
一匹目は倒したがまだまだ他の角毛がいる。
一匹目を倒した俺を警戒したのか、角毛達はすぐに突進はしてこず、俺を囲んで威嚇の鳴き声をあげてきた。
周りを自分より遥かに大きい生物に囲まれた上、鋭い角を向けられているため途轍もない圧迫感を感じる。
だが俺は直ぐに目の前の角毛に向かって突っ込み、【撃鉄】を振りおろした。
【撃鉄】は角にぶつかり、角毛の太い首が受けて立とうと一瞬拮抗するが、角がへし折れて撃鉄が地面へとめり込む。
どうやら角毛の角より【撃鉄】の方が頑丈らしい。
角を折った角毛はたたらを踏みながら後ろに下がり、俺を包囲する他の角毛が怒りの鳴き声を上げながら包囲を狭めてくる。
俺は【撃鉄】から手を離し、たたらを踏む角毛を追いかけ、下がった角毛の首に上から腕を回した。
俺に触れられて驚いた角毛が首を上げようとするが、その前に首に回した腕を締めあげ、引き抜くように持ち上げた。
背中に角毛の気配が迫ってくる。
俺は振り向きながら腕に抱えた角毛を振り回し、迫って来ていた角毛にぶつけるように投げ飛ばした。
一番近くまで迫って来ていた角毛と俺の投げた角毛が絡みあいながら倒れる。
迫ってきているのは残り七匹、こいつらはまだ戦意を失っていない。
「おおおおお!!!」
怒る角毛達に向かい俺は雄たけびを上げた。
俺は強いぞ。
獣のように大きな声を上げる事でそれを伝える。
結局獣にはこういう獣の流儀で上下関係を突き付けるのが一番効果がある。
(どうだ?)
角毛達の足が止まっている。
一歩足を踏み出すと角毛の足が一歩下がる。
(おっし! 威嚇成功!)
霧の地には人が立ち入ることはないだろうし、俺が弱く見えたんだろう。
【撃鉄】を拾い上げた俺は、先ほどより弱弱しい鳴き声を上げる角毛達から目を離さいようにしながら後ろに下がる。
今度は追いかけてくる様子はない。
少し離れたのを確認し、俺は角毛に背を向けて走り出した。
ミナトが角毛達の元を去った後、角毛達は再び威嚇の鳴き声をあげていた。
角毛達の視線の先には倒れた角毛を抑え付ける様に圧し掛かった長毛の獣。
ブモーと鳴き声を上げながら角毛は長毛の獣の下から必死に抜け出そうと身をよじるが、長毛の獣の腕が盛り上がると太い角毛の首から乾いた音が響き渡り、角毛から力が抜けた。
長毛の獣は息の根を止めた角毛から離れ、次の倒れた角の折れた角毛に向かって突進する。
仲間の角毛達が鋭い角を突き出して、ミナトに角を折られた仲間を守ろうとするが、長毛の獣とぶつかる寸前に角毛達は回避する。
長毛の獣に角が役に立たないことを知っているからだ。
角を折られた角毛はまたあっけなく長毛の獣の手で首の骨をへし折られる。
長毛の獣が、気絶して地面に転がる角毛の方に顔を向けた。
角毛の群れに気絶した仲間を助ける手段はない。
角毛達はそこで仲間を見捨て逃げ出した。
群れがいなくなり、残された長毛の獣は気絶した角毛向かって人のように四角い歯が並んだ顎を開き、食いついた。
突如首に走った激痛により覚醒した角毛が叫び声をあげるが、太い腕に押さえつけられ逃げ出すことは出来ず、生きたまま喰われていく。
長毛の獣の名前はケシャ。
通常、角毛は足が速く、感知能力も高いため、ケシャが角毛の狩りに成功する事はほどんどない。
そのため、ケシャが角毛を狙うことはほとんどなく、遭遇しても無視することが殆どだ。
だが今ケシャの前にはミナトによって弱った角毛が三匹。
ケシャは角毛を捕まえられないから襲わないだけで、角毛は大好物だった。
ケシャは久々のごちそうに機嫌よさそうに唸り、再び角毛にかぶりついた。




