8/31 ③
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「また叱られたの?」
憐憫の中に仄かな優しさと怒りを込めた眼差しで、右頬を酷く腫らした僕の顔をのぞき込む。彼女は姫原。青空と太陽をいっぱいに吸収して育ったような、それでいて、時に夏の終わりを感じさせるような、涼しさと美しさを兼ね備えた子だった。元気いっぱいな風鈴、と言ったところだろうか。
「違う。ベッドから落ちたらこうなったんだ。」
わかりやすい嘘だ。自分でもそう思う。
彼女に心配をかけたくないという思いと、彼女にもっと心配されたいという欲求が、僕の喉からこのセリフを引き出したのだ。
「ふぅん。じゃあそんな危ないベッドで眠るのはやめて、私の家で一緒に暮らせばいいのに。」
冗談だけれどね、恥ずかしそうにそう呟く。
でも、僕は知っている。彼女は僕の家の環境をよく知っているということを。それでいて、僕が彼女に心配をかけたくないという思いがあって、だから僕の家の事情に気づかないフリをしようとしていることを。その範疇で、まるで冗談かのように、はぐらかすように、それでもしっかりと僕に手を差し伸べてくれているということを。
この子と一緒に暮らせたら。彼女の照れ隠しのその先を想像しようとして、
「また明日ね。」
彼女の声が聞こえる。
気づけばもう、彼女の家の前まで来ていた。僕の家ももう少し先にある。
「うん、また。」
別れの寂しさを悟られないように、穏やかにそう応えた。明日のいつも通りを約束するように。そんな保証なんてどこにもないけれど。
今日は水曜日。両親共に1番ストレスが溜まっている頃だろう。
ベッドから転がり落ちるだけでは済まないだろうな。そう思った。
事実、その後の平日2日と土日の計4日間。僕は学校を休み、顔と腕にできた無数のアザを冷やすことに専念することとなるのだった。
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彼女がいなかったら、僕の人生はもっと早い段階で挫折していただろう。生きることの意味や自分の価値なんて見いだせず、あの両親からただ逃げ出したい一心で、でも逃げ場所なんてどこにもないことを悟り、1人静かに息を絶つのだ。
僕は彼女に救われていた。
そうやって過去のことをいくつか思い出しているうちに、かなり歩いていたようだ。自分の知っている街並みと知らない街並みの狭間のような、この先に踏み込むことを許されないような、そんな場所まで来ていた。
帰ろう。そう思って踵を返そうとした途端、
微かに電話の鳴る音が聞こえたのだった。