生き方を見つける
この作品はあくまで考えたものでありますので、全く意味のないものです。
もしこの世で感情という概念がなかったら僕たちはどうなっていたのでしょうか。
ある程度のことを知ってしまったとき人はどうしていたのでしょうか。
改めて考えるいいきっかけとなるでしょう。
明日がつらいなら明日が楽になる生き方をしましょう。
明日が楽しいなら明日がもっと楽しく成る生き方をしましょう。
もし、新たなことを新たな生き方を見つけることができたときあなたの人生は大きく変わっていくことでしょう。
僕はいま穴の前にいる。
この果てしない道のりに答えはあるのだろうか。誰しもが悩むべきことであるが、決して答えあるものではない。ただ自分なりに答えを出せたとき人はどうなるのだろう。それが僕の疑問である
今までさんざん残酷な部分を見て生きてきたわけだが、その中ですこしいいことだってあった。小さい幸せをうれしがった時期もあった。大人になっていくにつれその感情は薄れはかなく散る。
ある時を境に全くの感情を失ってしまった僕からしてみれば、何もないことのほうが幸せだと感じる。
今、人々は刺激を求め生きている。その刺激すらも必要としなくなってしまった。ただ、刺激がなくても生きていけることは誰しもできることではない。例えば、彼女がほしい、彼氏がほしいといった自分のための幸せに対する刺激。もしくは勝負事で勝つ負けるといった刺激。この刺激達を追って生きることがどれだけ疲れることかまだ知らない人たちも多い。僕はそれを知ってしまった。瞬間的に感情が薄れ、生きることに全力を尽くさなくなった。
かといって、死にたくなったわけではない。生きていることに感謝もしているし、親にも非常に感謝している。ただ、生き方が変わっただけなのである。
小学生のころは日に日に変わる出来事がうれしくてたまらなかった。中学生は社会に少しだけ触れていやになった。高校では自分でしなければならないという責任に押しつぶされた。大学では自由が怖くなった。経験してきたことが悪かったわけではないだろうが、僕を形成したのは紛れもなく経験だし今の自分になったのも経験からだ。
そして冒頭に戻る。
穴というものは非常に感慨深いものである。入ることもできるし、埋めることもできる。まさに人間の心を表している。
幸せを感じるときは埋まっていき、悲しみ・憎しみを感じるときは穴は大きく開いてしまう。どうしてそんなに変わってしまうのか。この何十億という心の穴を埋めること、開けること。いとも簡単に行ってしまう人間とは。
もしこの答えがあるのならば、この世に悪は生まれず善も生まれない。まとめるならば、刺激のない世界になっていくだろう。哲学的に考えることで迷宮入りしてしまうが。その迷路の中で心の開き方を見つけることができたのなら、僕はいま社会に貢献し、幸せを作る努力をしただろう。答えが決まっていないレールの上をただ進むだけでない生き方をしていただろう。
人は誰しも答えを見つけるたびに出る。それが自分を苦しめる主な原因になるとも知らずに。壁にぶち当たったときそこを乗り越えるべく努力を重ねる人もいる。壁を作るのはそのたびが険しくなっているからで、決していいことではない。乗り越えるための答えがすでにあるならば、もちろん望んでその壁と対面する。ただ、何も知らない何の技術もない状態で壁にぶち当たるからそこで挫折してしまう。失敗は成功の元とはよく言うがその失敗がとんでもなく道を外れた失敗なら何の元になるのか。失敗するためのもとになってしまうのではないか。すべては神のみが知る答えを追い求める過程の中で人々は形成されていくのかもしれない。
話を変えよう。今度は恋愛についてだ。この世には男女が存在し子孫を残すそれが現段階における世界だ。もちろん愛にはいろいろな種類がある。純粋に異性が好きになる、純粋に同性を好きになる、不純な動機で好きになったり、あるいは執着して依存して。アイノカタチは世界的に全く違う。
身近に付き合っているカップルがいて、それぞれの個性がある。それを見てうらやましい、うらやましくないと思ったことがあるだろう。なぜ勝手にそう判断してしまうのか。なぜそう思ってしまうのか。それもおおきな疑問の一つだ。例えば春のきれいな桜をみて綺麗という人がいて、冬の枯れた桜の木をみて綺麗という人がいる。この二人を対談させたらきっと反発するだろう。しかし最終的には桜ってきれいだよねっといった結果になっていくだろう。
根本的な部分は変わらずとも具体的に見ていけばいいか悪いか個人的にわかれ、一種の文化を作り上げる。滑稽である。なにも対極にあるわけでなく人が勝手に陰と陽を作り上げてしまっている。
僕は穴の前にいる。だがそれは決して答えを見いだせるものではない。穴の前に立ち止まったとき何をすればいいのか。それは新たな感情を見つけていくことだ。人ぞれぞれが持つ個性を少しずつ見つけ出して自分の養分として、死ぬ時までに大きな樹木に成長することが人生であるのだろう。死ぬ間際にふと思う。ああいい人生だったと。感情がないぼくが初めて僕には感情があったんだと理解する場面であり、悲しまれて僕の人生は幕を閉じる。こういう悲しい人生を送るために僕は来世生まれ変わる。もしかしたら悲しいで終わる人生の中で少しでもうれしい、楽しいがあったら人はそれだけで幸せなのかもしれない。
人生については全くの未知でいいんじゃないでしょうか。
僕の人生とあなたは全く関係のないものかもしれませせん。もしかしたら関係あるのかもしれません。
ただ一つ言えることは生きていて損はありません。いじめや暴力の問題が多い中で、新しい人生を始めようとすることと、新しいことを見つけることは全くの別物です。どうか自分を責めないでください。僕には経験がありますが、ない人はないでいいと思います。感情とは人を大きく気ずつけ大きく元気づけます。新しい自分を見つけるたびへどんどん出かけてください。それがまだ咲かない花だったとしても、いつかは咲きます。周りから見て汚くても自分から見て綺麗ならそれでいいんです。立派な花を咲かせられるように頑張ってください。