僕らの救済システム
小説家になろうの方の投稿がなんでこんなにも遅れるのだろうと冷静に考えた結果、あらすじを書くのがめちゃくちゃ苦手だからだということに気がつきました。というか、重複投稿のことも書くからてっきり運営にだけ見られるものかと思いきや全員見れるのですね。今までがっつり書いてしまいました……。今度から気をつけます。
ということでどうも、お久しぶりです。
今回は「人形」というテーマで執筆してみました。しつこいくらい詰め過ぎたかなって感じですが許容範囲であると思いたいです。部活用だったので〆切を意識して削ってしまったので、もっと早く書きたいものをしっかり書けるように頑張りたいと思います。
無理して笑って、つらいのを隠して大丈夫だと嘘をついて、私は私なりに頑張ってきた。なのに、次々と苦しみを押し付けられ自由を奪われ、人形のように生きる日々。
もう疲れた。私は何のために生きているのだろうか。周りの人間のためなら、必要とされなくなったら存在価値はない?
「死んじゃえばいいんだ。もう、生きていてもしょうがないんだから」
どうやって死のうか。包丁で自分を刺す? 毒を飲む? 海に飛び込んで溺れる? 首を吊る? 高いところから飛び降りる?
何回も挑戦しようとした。でも、死ぬのが怖くて無理だった。死ぬのってどのくらい痛いのだろうか。どのくらい苦しいのだろうか。死んだらどうなるのだろうか。怖い……怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
だから、いつも直前でやめてしまう。またつらい日々に戻っていく。いつになったらこのループから抜け出せるのだろうか。早く死ぬことが出来たら楽になれるのに、それができない。死なないで普通の生活が送ることができれば、こんなに苦しむ必要なんてないのに。
「お嬢さん、お困りですか?」
「あなたたちは……?」
さっきまで周りに誰もいなかったはずなのに、私の前に白衣を着た人たちが立っていた。
「私たちはただの研究者ですよ。あなたに少し実験に付き合っていただきたくて、こうしてお願いに来ました」
彼らはなんだか怪しそうな雰囲気で、実験というのもどうせロクでもないものなんだろうけど、今の私にとってそんなことはどうだってよかった。こんな命、誰かのために使えるならむしろ本望だ。利用できるだけ利用してしまえばいい。
「これはこれは、思っていたよりも重症みたいですね。ですが、安心してください。実験と言ってもあなたのような人を治療するためですから」
「私を、治療する?」
「そうですよ。あなたのような人のために生きることが出来る素晴らしい人間は是非とも幸せになるべきです。これはそのためのシステムなのですから」
彼がそう言うと機械が動くような音が聞こえ、それと同時に私の意識はゆっくりと落ちていく。
――ようこそ、救済システムへ。
「じゃ、これもよろしくねー」
「あっ、うん。任せて」
机の上には委員会の書類が散らばり、この後は教室と体育倉庫の清掃、配布プリントの作成……とあげていったらキリがないほどの仕事が僕を待っている。これらは本来僕がやるべきことではなかったが、頼まれているうちに膨大な量になっていた。いつものことで慣れているから、とりあえずの優先順位を決めて作業に取り掛かることにしよう。
「高藤くんって人形みたいだよね」
そう言われたのは小学五年生の時だったと思う。人より少しだけ器用だった僕は様々なことを頼まれることが多くなって、それらを断れずにいた。そんな時にクラスの少し気になる女の子に言われた言葉がこれだ。褒められていないことは当時の僕でも分かっていたけれど、誰かのために頑張ることは悪い事じゃないと信じ続けた。そのおかげで僕の心は折れずに済んだ。いや、もしかしたらとっくの昔に折れてしまっていたのかもしれない。だから、彼女はあんな言葉をかけてきたのかも……。
シャーペンの芯が折れ、集中出来ていないことに気がついて雑念を振り払った。今は何も考えなくていい。作業に集中しよう。
無事に全ての仕事を終えた頃には日が完全に沈んでしまっていた。荷物をまとめて昇降口に向かうと僕のクラスの学級委員が帰ろうとしているところに遭遇した。
「あれ、久保さんも今帰り?」
「委員会の集まりの後、生徒会のお手伝いをしててね。高藤くんはこんな時間まで何してたの? 委員会とか部活とか入ってたっけ?」
「い、いや……勉強かな?」
「高藤君は真面目ねー。今度苦手な教科でも教えてもらおうかな」
「どの教科でも久保さんには敵わないよ。じゃあ、また明日ね」
逃げるように昇降口を出て家路を急ぐ。あの時のことをまだ引きずってしまっているせいか、僕は手伝いのことは極力誰かに見せないように、言わないようにしている。そのせいで大変な量を頼まれてしまうのかもしれないけれど。言ったところで、真面目ぶっているとか八方美人とか思われるだけだから、下手なことは言うべきじゃない。久保さんのような周りから信頼されている人が言ったら、違った反応をされるだろう。それを羨ましく思うが、別に信頼されたくてやっているわけじゃない。目的を間違えてはいけない。
家に着くと電気がついていないから誰もいないと思ったら、いつも通り母親が寝室で眠っていた。この様子だと日付が変わる前に起きてくるかも怪しい。起こさないようにそっと部屋を出て、溜め息を吐いた。冷蔵庫の中身は空だったような気がするから買い物に行かないといけない。チラシの中から行きつけのスーパーのものを引っ張り出して、安いものから何が作れるか考えながら家を出た。
「ごちそうさま」
僕の作った料理を褒めることも文句を言うこともなく、黙々と食事を終えた父親は自室へと戻っていった。母親は起きる気配がなく、後で食べられるようにラップをしておいた。ご飯の時くらいは起きて欲しいけれど、無理に起こすと寝起きが最悪で父親と大喧嘩になる可能性が高いから放っておくのがベストだ。静かなリビングを見回して僕も自室へと戻った。
課題があることを思い出して取り掛かろうと思ったけれど、問題が頭に入ってこない。考えなきゃという思いが頭の中を埋め尽くしてしまって、問題については何も考えていないという感じだ。一度落ち着くために顔を洗おうと部屋のドアを開けると怒鳴り声が響いてきた。
「どうしてあなたはいつもそうやって……」
「君だっていつもいつも……」
何が原因かは分からないが母親が早めに起きてしまった上に父親と会って喧嘩になってしまったらしい。昔は何度も止めに入っていたけれど、意味がないことに気づいてからは見ないふり、聞こえないふりをするようになった。今回も自分の部屋のドアを閉め、こっちに飛び火してこないことを祈ることにした。
「大樹! あんたも……」
ドアが勢いよく開き、金切り声をあげた母親が部屋に入ってきた。何を言っているかは頭に入ってこない。てきとうに聞き流しているうちに意識が途切れた。左腕が少し痛むような気がした。
目を覚ますと床の上だった。そのせいか体の節々が痛む。時計を確認すると六時を過ぎていたから、なんとか体を起こして左腕に包帯を巻き部屋を出た。両親の朝食、お弁当を用意し終える頃には家を出ないといけない時間が近づいていて、食パンを一枚くわえて学校に向かった。
通学中も教室に入ってからも、周りからは何とも言い難い視線が突き刺さった。
「高藤くん、それ大丈夫……?」
「うわ、めっちゃ痛そうじゃん。病院行った?」
「見た目ほど痛くないから大丈夫だよ。二人とも心配してくれてありがとう」
心配させるのも申し訳なくて、僕は笑顔を取り繕うと二人は安心したように自分の席に戻っていった。自然な笑顔になっていたようで良かった。たぶん今日一日はこの怪我のことで色々と言われるだろう。深く息を吐いて気持ちを入れ替える。笑顔でいられるように……。
時間が経つごとに痛みが増してきて動かすことさえも難しくなっていたけれど、今日も放課後にやらなければならないことがたくさんある。引き受けたことは責任をもってやらなければならないし、一緒にやってくれる人はいない。僕がやらなくちゃいけないことなんだ。幸い怪我しているのは利き腕ではないからどうにかなるとは思う。しかし、こういう日に限って力仕事が多いのは運が悪いとしか思えない。不安があるけれど、それを顔に出していると周りにうつってしまうから今は忘れよう。
気にしないでいると案外時間が早く進むように感じるもので、気がついたら放課後になっていた。教室から人がいなくなるのを確認して僕は生徒会室に移動した。まず、全校生徒分の便りをここから各教室に運ばなければならない。三学年五クラスある上に左腕が完全に使い物にならなくなったせいで、一度に一クラス分しか持つことが出来ない。台車でもあったら便利だけれど、無いものねだりをしても仕方ない。便りを右肩に乗せて右手で支える。ドアは、行儀が悪いけど足で開けるしかない。足を引っ掛けて一蹴りで開けると目の前に久保さんが立っていた。
「うわあああああ!……いつっ!」
体勢を崩して右肩に乗っていた紙は宙を舞う。見事に転んで叫び声も出せない痛みが左腕を襲ってきた。最高にかっこ悪いところを見られて恥ずかしさもこみ上げてきて、穴があったら入りたい。
「そんなに驚くことなくない? ほら、早く持っていくよ」
「ちょっと待って。なんで久保さんがここに?」
「一日ずーっとつらそうな顔してて、放課後ふらふらと生徒会室に向かえば何となく察するし、心配もするよ」
それだけ言うと彼女は僕が落とした紙をさっと拾い集め、一学年分一気に持って行ってしまった。たぶん、僕が今までしていたことも彼女は気付いていたのだろう。昔のことが心に絡みついてきたが、よく人のために動いている彼女は僕の気持ちが分かるのかもしれない。そう思うだけで安心できて、さっきよりも落ち着いた気持ちで便りを持って生徒会室を出た。
僕の倍以上の働きをしてくれる人がいてくれたおかげで想像以上に早く終わった。こんなに効率がいいのなら……と少し考えてしまったが彼女だって忙しいだろうし、僕が好きでやっていることだ。巻き込むのは申し訳ない。これは奇跡だったと思うことにしよう。
「ありがとう久保さん。助かったよ」
「このくらい大したことじゃないよ。私は感謝の言葉よりも、もう手伝いはやめて帰って休んでくれた方が嬉しいんだけどね」
「……はい」
流石委員長だ。クラスの人のことはよく見ている。ここで何を言っても言いくるめられてしまうだろう。だから僕は彼女に素直に従う――人形のフリをすることにした。
「分かったよ。この腕じゃこれ以上何も出来ないだろうし、今日はちゃんと帰るね」
「素直でよろしい。気をつけて帰ってね?」
「久保さんも気をつけて。また明日」
笑顔で手を振る彼女に見送られ、僕は昇降口に向かうフリをして屋上に向かう。扉がやけに重く感じ、体全体で押し開けると涼しい風が頬を撫でた。そこでようやく無意識で息を止めていることに気がついて呼吸が乱れた。それと同時に負の感情が一気に押し寄せてきて、あの時の言葉が頭の中で永遠と再生される。
まずい……まっすぐ立てない。膝に力が入らず、その場に崩れ落ちた。いつもやっていたことなのに、ここまで悪化しているとは思わなかった。でも、地面が妙に心地良くて嫌な気分ではない。今だけは、僕が僕でいられるから。
いつの間にか眠っていたらしく、目を覚ますと辺りは完全に真っ暗になっていた。少し怠いだけで左腕の痛みも少し引いて、体には問題はないが帰る気分にはなれない。ここが分かれ目だと思った。今、家に帰ったらいつもの優しい嘘に塗れた日常に戻ることになる。ここに残ったらもう何も演じなくていい。本当の自分でいられる。
……まだ大丈夫。僕は扉を開けて屋上を後にする。さっきよりも扉が軽く感じたのは気のせいではないだろう。帰り道は今日出来なかった作業をどのように進めていくか考えていたせいで僕は忘れていた。家には優しい嘘を壊す存在がいることを。
家に入るとまだ八時だというのに中は真っ暗だった。その中でゆらゆらと揺れる何かがいる。歯をガチガチと鳴らし近づいてくるそれは目が血走っていて話してどうこうなるものではなさそうだった。助けてほしいとは言わない。言ってはいけない。声にならない声が響いた辺りで僕は心を殺した。何も感じない。考えない人形に。彼女の気が晴れるまで抵抗することはなかった。
「……ったく、次会った時は容赦しないから」
どうやら怒りの原因となった相手に矛先を向けることで落ち着いたらしい。あれからどのくらいの時間が経っただろうか。痛みを堪えて顔を上げると時計の針は十時を指し示している。一時間以上もよく耐えられたものだと思うが、前回以上に体はぼろぼろになっていて起き上がることも出来なさそうだ。
「二日連続で床寝か」
思ったことを口に出してみたら、口元がほころんだ。まだ余裕があるみたいで安心した。今はただただ体を休ませたくて静かに目を閉じた。
全身が痛んでいつもよりも早く目が覚めた。家にいるとまた母親が癇癪を起こしてやってくるかもしれない。どうにか起き上がって制服に着替え、家を出た。特に痛むのは左腕と右足で引きずるようにして学校に向かった。
教室に入ると誰もいなくて電気すらついていない。ホームルームが始まるまであと一時間以上あるのだから当然だろう。みんなが来るまでひと眠りすることにした。椅子に座って寝るのは体勢がきついけれど家よりよっぽどましだ。突っ伏しているとすぐに眠気がきて眠りに落ちていた。
「ねえ、知ってる? 救済システムの話」
「聞いた聞いた。つらい人の元にメールが届いて助けてくれるんでしょ?」
「あれ、アプリがインストールされるんじゃなかったっけ」
「そうだっけ? いいなー。私も救済されたい。幸せになりたいー」
「どうせただの都市伝説なんだし、自分で頑張りな」
クラスメートの話し声が聞こえてきて目が覚めた。水道で顔を洗うと寝る前に比べて調子は良くなった。朝の短時間睡眠はなかなか侮れない。今日は体育や移動教室のある授業はないから怪我のことは何とか隠すことが出来そうだ。朝から委員長が呆れた表情でこっちを見ているのは気のせいだと思いたい。
無事に一日を終えて今日は珍しく何もお願いされず、昨日の余りもすぐに片づけてしまったから真っ直ぐ帰ろうかと悩んでいると担任の先生に声をかけられた。
「高藤、ちょうどいいところに。そこの荷物を体育館裏の倉庫に運んでもらってもいいか?」
「いや、それは……」
「今からすぐに出張に行かないと行けないんだよ。頼む!」
この手足でやるのは無理があると思ったけど、どうしてもと頼んでくるし台車も置いてあるから出来ないことはない。先生から荷物を受け取り、台車をガラガラと押していく。普通に歩くよりも楽で正直登下校にも使いたいくらいだけれど、すれ違う人たちに異様な目で見られること間違いないだろう。そんなことを考えていたら体育館裏から声が聞こえてきた。
「おい、暴れんなって!」
「おとなしくしてろ!」
「ほんときもい。ここで一生寝てればいいのに」
穏やかじゃなさそうだ。壁際から覗いてみると四人の男女が倒れている女の子に暴力を振るっている。近くにランドセルが置かれているし、すぐ近くにある小学校の子たちだろう。この辺りはほとんど人が通らないからもしかしたら普段からこういうことがあるのかもしれない。
下手に間に入ってもこの手足じゃ返り討ちにあうだけだ。どうしようかと考えているうちに、一人が石を投げ始めた。それを見て他の子たちも面白がって投げ始め、何度か顔に当たっていた。このままでは失明してしまうかもしれない。僕は思いきり息を吸って叫んだ。
「おい、お前ら何してるんだ!」
「やべっ、センコーじゃん! 逃げるぞ!」
「こっちに抜け道あるから急いで!」
どうやら先生と勘違いしてもらえたらしい。小学生たちは一目散に走って逃げていった。取り残された女の子を見ると、動く様子はない。僕は台車を支えに急いで彼女に近寄った。呼吸はちゃんとしているが顔から血が流れ、手足は痣だらけだ。頭や目は見た感じ怪我をしていないけれど、無事と言える状態ではない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「大丈夫だよ。彼らはもういないから」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
目の焦点が僕に合っていなくて、うわ言のように同じ言葉を繰り返している。そんな彼女をその場に置いていくわけにもいかず、何とか台車の上に乗せて保健室まで運ぶことにした。その途中で繰り返される「ごめんなさい」の中に「助けて」が一回だけ混ざっていたのが耳に残った。
保健室に着くとちょうど養護教諭がいて、事情を説明するとすぐに女の子を抱きかかえソファに横にして怪我の手当てをしてくれた。
「事情は分かったわ。後で小学校の方に連絡する」
「あの、僕に何か出来ることは――」
言い切る前に先生の指が僕の額を突いた。その表情は僕を安心させるかのように穏やかだった。
「こういうのは先生のお仕事なんだから、高藤くんは気にしなくて大丈夫。自分自身のことを気にかけて?」
「分かりました。よろしくお願いします」
素直にお願いをして僕は保健室を出た。僕が彼女のために出来ることなんてたかが知れている。先生に任せた方が良い事は明確だった。誰かのためを考えてこれまで頑張ってきたのに、こういう時に何も出来ないなんて今までしてきたことは何だったんだとショックを受けた。帰る気になれず、校舎内をふらふらと歩き回る。真っ直ぐ歩けず、だんだん壁にもたれかかり足が止まった。いじめ現場を見て、彼女を助けられなかったことをこんなに悔やむほど僕は高尚じゃなかったはずだ。だから、きっと違う。弱々しい子があんな風にいじめられている現実にショックを受けているんだ。
考えれば考えるほど自分が何を考えているのが分からなくなる。いったん落ち着こうと深呼吸をするが、体育館裏での出来事が頭から離れない。思えばああやって暴力を振るわれる、ストレス解消の人形として扱われるのと、必要以上の仕事を任され便利な人形として扱われるのに差はあるのだろうか。僕らは……使われる存在なんだろうか。
悪意に塗れた想像が脳内をどんどん埋め尽くしていく。体が震え、上手く呼吸が出来ない。その場にいるのが怖くなって痛みを忘れて走った。廊下を、階段を、とにかく走り回って気がつくと屋上の扉を開けていた。太陽が沈みかけて街が綺麗に照らされている。その美しさに導かれるように僕はゆっくりと歩く。ポケットに入っている携帯が鳴り、画面をつけるとメールがきていた。差出人は……「救済システム」
「高藤大樹様へ
厳正に抽選させていただいた結果、あなたはテスターとしてご当選されました。こんな不条理な世界で幸福をお望みの場合は下記のアドレスからご登録をよろしくお願いいたします」
僕はスマホを叩きつけたくなったが、その場に置いた。まだ良心的なものが残っていたらしい。
「救えるものなら救ってみろよ! 僕はもう、こんな世界嫌なんだ!」
柵を乗り越えて照らされた街に向かって僕は飛び下りた。
「うっ……」
意識がだんだんと戻ってきて辺りを見渡すと僕は校舎の下でもなく、病院でもなく、学校の廊下にいた。さっき屋上から飛び降りたはずなのに傷一つなく、それどころか手足の痛みすら消えていた。もしかして僕は死後の世界にいるのだろうか。教室を見てまわるがたしかにここは僕が通っている学校だ。いったい何が起こっているのか分からない。恐る恐る歩いていると、視聴覚室の電気がついているのが見えた。中に入ってみると人が集まっていた。一、二、三……三十人ぴったりだ。うちの制服じゃない生徒やスーツを着た社会人など、この学校に関係なさそうな若い人が多い。なんでここにそんな人がいるのだろうか。
「全員揃いましたね。はじめまして、皆様。ワタクシ、救済システムと申します」
スピーカーから突然合成音声のような声が聞こえてきた。救済システムって今朝クラスメートが話してた、さっき僕にメールを送ってきたやつだ。誰かのいたずらだと思っていたのにまさか本当に実在していたなんて思わなかった。
「この度はご利用いただきありがとうございます。みなさまにより良いセカンドライフを過ごしていただくためにバックアップをさせていただくのがワタクシの目的となっております」
噂じゃなかったんだ。これで救われる。つらい思いをしなくていいんだといった声があちこちから聞こえてくる。これで僕らは本当に救われるのだろうか。急に言われても何だか現実味がなくてもやもやする。
スクリーンが上がって、その後ろの壁がゆっくりと開いていく。そこにあるのは文字通り金の山。いくらあるのか分からない一万円札の束だった。誰もがすごい速さで群がり、それらを手にする。表情は皆、至福そうだったけれど僕はそう思えなかった。この状況には狂気という言葉が一番しっくりくる。
「しかし、こんなものでは皆様を一時的にしか幸福にすることが出来ません。もしかしたら逆に不幸にしてしまうかもしれません。よって、ワタクシはこんなものがなくても幸福を得ることが出来る楽園へと導くことにしました」
そう言った瞬間、大きな音が鳴った。ドンだったか、パンだったか分からない。ただ、その音が鳴った瞬間一人の男性が倒れ……胸から血を流していた。
「うわあああああ!」
誰かの悲鳴を引き金にみんな我先に教室の外に向かって走り出した。僕は何が起きたのか分からず、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「早くしろよ! どけよてめえら!」
「どこから出られるんだ!? 昇降口はどこだ!」
「とにかく走ってよ! 階段を下りれば外に出られるでしょ!」
怒鳴り声が飛び交い、邪魔な人を突き飛ばし転んだ人を踏みつけてみんな自分のことしか考えていなかった。緊急事態だからこそ協力すべきじゃないか。全員で助かろうってどうして考えられないのか。嫌気がさして僕はその場に座り込んだ。幸福を求める人がこんな人ばかりだというなら僕はそんなものいらない。同じになりたくない。
「お、お兄さんは……逃げないのですか?」
突然の声に顔を上げると、放課後体育館裏でいじめられていた女の子が僕の顔を覗き込んでいた。こんな子もシステムのテスターに選ばれるなんてこれを企画した人間は何を考えているんだろう。
僕が返事をしないせいか、彼女は不安そうに手を口元に近づけおどおどとしていたが、鞄を漁って何かを取り出すと僕に向けた。
「こら小僧。真帆が心配しておるのに無視とは何事じゃ。何でもいいから反応しろ」
「……は?」
向けられたのはCMでよく見る女の子の人形で、それが喋った……のではなく彼女の腹話術だ。しっかりと口が動いてしまっているけれど。
「ゆ、ゆき、そんな言い方よくない……」
「別にいいのじゃ。こやつが真帆の優しさを仇で返すのが悪い」
「ははは……」
まるで姉妹のようなやり取りを見て、少し心が温かくなったような気がした。みんながみんな、あいつらと一緒というわけではない。それに気づけて良かった。
落ち着くことが出来たところで状況を整理しよう。救済システムのテスターとして呼ばれた僕らは突然システムに楽園に連れて行くと言われ、一人殺された。それを見て僕らを除く全員が、出口を求めてこの部屋を出て行った。争うような叫び声は聞こえてくるが、システムに謀殺されている様子はない。瞬時に一人殺せたのだから殺すのが目的ならとっくに皆殺しにされているはずだ。いったい僕らに何をさせたいのだろうか。
「あ、あの……」
「え?」
「私は寿真帆です。この子は大切な友達のゆきって言います」
そういえば僕らはまだ自己紹介すらしていなかった。体育館裏で会った時はあんな状態だったから僕のことを覚えていないだろうし、知らない人の側にいるのは不安だろう。
僕は彼女に目線を合わせて笑顔をつくった。
「僕は高藤大樹。よろしくね。真帆ちゃん」
「よろしくお願いします。は、早くここから逃げましょう」
真帆ちゃんは僕の手を握って走り始めた。僕は振り返って殺されてしまった人を見たが、連れて行くことは身体的にも精神的にも状況的にも難しい。本当はあるべき場所で供養してあげたいけれど、今は緊急事態だから僕らは逃げることを優先した方がいい。後で警察が何とかしてくれるだろう。
「そうだ。警察に連絡を――」
ポケットに手を入れるが携帯は入っていない。そこであの時屋上に置いてきてしまったことを思い出す。なんてことをしてしまったと後悔するがそんなことをしても携帯が戻ってくるわけじゃない。今はとにかく走ることに集中した。
窓を叩いて叫ぶ人。蹲って泣いている人。言い争いをしている人。暴力をふるっている人。廊下は地獄のような状況になっていて、それを極力彼女に見せないようにして走った。昇降口まで無事に来れたがドアはしっかりと鍵がかけられていてびくともしない。中からなら鍵を回して開けることが出来るはずなのに、それも硬くて全く動く様子がなかった。仕方ないと思って近くの掃除用具から箒を取り出し、棒の部分で思いきりガラスを叩いたが割れるどころか傷一つつかない。上の階にも人がいる理由がよく分かった。僕らは閉じ込められたのだ。そして、彼らはどこかに出口があるだろうと歩き回っているのだ。
僕らは仕方なく視聴覚室に戻ることにした。下手に廊下や他教室にいると気が立っている人たちに何をされるか分からない。この部屋ならきっと誰も近寄ってこないだろう。システムが何もしないと断定できるわけでもないから、すぐに逃げられるようにスクリーンから離れて体力を少しでも温存するため座ろうとした時、スピーカーからマイクが入ったような独特のノイズが聞こえてきた。
「三階に五人、二階に十一人、一階に十四人ですか。いい感じにばらけましたね。さて皆様、どうやら楽園よりも絶望しか残されていない現実の方がお好きなようで。……なら、この学校内にいる人を誰でもいいから殺して出口を見つけた人を元いた現実に帰してあげましょう」
僕らを殺したいなら最初にやったみたいにすればいいのに、現実に帰る権利を賭けて殺し合いをさせていったい何のメリットがあるというのか。こんなんで僕らが幸福になれるとは思えない。システムが何を企んでいるのか分からない。本当に死んだら楽園に行けて、誰かを殺してまで生き残った人間は現実に絶望して後悔するなんていうシナリオでも描いているというのか。
「うわああああああ!!」
どこから発せられたのか分からないような悲鳴が学校中に響き渡った。まさか今の放送で殺し合いを始めてしまったというのか。急いで教室から飛び出して廊下に出ると、生温かい何かが顔に付着した。そっと指で拭うとぬるりとした感触がして、真っ赤な液体が僕の指を染めた。そして大きなものが倒れてきた。それが人であったことに気づくのに少し時間が必要だった。
「真帆ちゃん、来ちゃ駄目だ!」
視聴覚室に引き返し、ドアの鍵を閉める。意味の分からない叫び声と共にドアが叩かれているが、結構頑丈だからその程度で壊されることはないだろう。振り返ると真帆ちゃんは震えていた。悲鳴と僕の指についた血で察したのだろう。小学生がそんな状況に陥ったら怖いに決まっている。
「大丈夫だよ。ここにいれば安全だから」
「こ、小僧……何があったのじゃ」
この状況でも腹話術――厳密には違うが、ややこしいのでそういうことにする――をする彼女に違和感を抱いたが、これが彼女にとっての普通ならば乗ってあげた方が落ち着くだろう。
「さっきのシステムの言葉のせいで、みんな本当に殺し合いを始めてる」
「そんな……」
「このままここで籠城してる方が安全だと思う。僕たちみたいな子どもは真っ先に狙われると思うから」
「二名を殺したテスターが出口を発見したため、現実へと戻りました。生存者は残り二十一名です」
突然システムの声が聞こえてきて、僕らはスピーカーを見た。それ以上何かを話すことはなかったが、最初のフロアごとの人数の通知と今の発言、システムが僕らを監視しているのは明らかだ。そして、一人目の帰還者。本当に殺せば現実に戻ることが出来る……?
「大樹さん?」
「おい、小僧。どうした」
この教室にいるのは僕とか弱い少女の二人。邪魔をするものはどこにもいない。誰にも気づかれないで無事に生きて戻れる。
僕の足がゆっくりと彼女に向かって歩を進めた。彼女の表情がみるみるうちに青ざめていく。
「やめて、やめてください!」
「目を覚ませ! やるなら、真帆ではなく妾にしろ! 妾なら、その……もう楽じゃ! 簡単じゃ!」
そして僕は手を伸ばして……彼女の頭を撫でた。今までのことを思い返して、こうすることが一番正しいように思えた。
「真帆ちゃん、僕を殺せばいいよ」
「なっ、な、何を言っているんですか!」
「抵抗しないし、他は大人ばかりだ。君が生きて帰るにはこの方法しか――」
「落ち着いてください! そんな言葉聞きたくありません……」
彼女はそう言うと泣き出してしまった。僕はそれをただ見ていることしか出来ない。落ち着いていたつもりだったけれど、システムの言葉に焦っていたのかもしれない。生きるためとは言え、小学生に殺せと強いるなんてどうかしていた。かける言葉が思いつかなくて、僕は心の中でごめんと謝った。
彼女が泣き止み落ち着いて話せるようになったのはそれから十分ほど過ぎてからだった。
「私、いじめられることが多くてずっと一人ぼっちだったんです」
静かに話し始めた彼女に、僕は黙って耳を傾けた。
「友達はゆきしかいなくて、そのせいもあって余計にいじめられて……『死ね』って何十回、何百回言われたか分かりません。だから、私が生きるための方法を言ってもらえた時は嬉しかったんです。でも、それで大樹さんが犠牲になっていいわけではありません……!」
肩を震わせ、真剣な表情で僕を見つめる彼女に圧倒された。気が弱い子だと思っていたけど全然そんなことない。自分の思いがちゃんと言える子だ。
僕はその場に大の字になって寝転んだ。彼女が僕を殺さないと誓ったからには別の方法を考えなければならない。そもそも相手を殺すというのが曖昧なんだ。自殺教唆は含まれるのか、殺人の過程にどこまで関与していればいいのか分からない。確実に自分が殺したと認識してもらえるレベルの殺人は真帆ちゃんでは難しい。
ため息をついて思考を中断すると、ドアを今にも壊してしまいそうな音が聞こえてきた。考えに集中しすぎて今の状況を忘れていた。僕が廊下に出てしまったから、ここに子どもがいることは誰かに気づかれているに決まっている。このままだと二人一緒に殺されてしまう。
僕は掃除用具入れから出来るだけの物を取り出して教室の奥に置き、彼女の手を引いてドアの真横にかがんだ。これで入ってきた瞬間に正面に意識がいってくれれば僕らがすぐに見つかる可能性は低くなる。が、この体勢だとすぐに力を入れにくい。見つかったらおしまいだろう。死が目前まで迫っていて体が震えた。彼女だけでもどうにか生かしてみせる。そう覚悟した瞬間、ドアが突き飛ばされ中年の男が恐ろしい笑みを浮かべて入ってきた。作戦通り、教室の奥を気にして僕らに気づいていない。そのチャンスを無駄にするわけにはいかない。
彼女を抱えて身を低くしたまま、教室を出た。後ろから気づかれたような声が聞こえてきたが、振り返って確認している暇なんてない。僕は全力で廊下を走った。廊下は異臭と血と倒れた人で大変なことになっていたが、それを彼女に見せないように強く抱きかかえ、とにかく走り続けた。後ろを振り返ったらすぐそこにいるような気がして、無我夢中で前だけ見て走っていると気がついたら一階の家庭科室に辿りついた。ドアを閉めて誰も来ないことを音で確認すると体の力が抜けた。彼女をおろして床に寝転がる。全身が酸素を欲しているようだった。
「あ、あの……ありがとうございました」
「僕がこんなに早く走れるなんてびっくりしたよ」
場を少しでも和ませるために笑顔を作ったが、真帆はつらそうな表情をして俯いてしまった。まずい。こういうことを言う状況ではなかった。しばらく沈黙が続き、廊下からは誰かの切羽詰まった声が聞こえてくる。なんとか逃げられただけで状況が好転したわけではないのだ。
焦りが伝わってしまったのか、真帆ちゃんは震える手で優しく僕の手を握った。
「お、お話があります」
「どうしたの?」
「私のせいで、このままでは誰も殺せないまま人数だけが減ってしまうと思います。だから、大樹さんは私のことは気にせず、自分のことだけ考えてください」
「ちょっと待って。それって、真帆ちゃんを見捨てろってことじゃ――」
「それは違います」
「そうじゃ小僧。ここで妾の出番なのじゃ」
「ゆきの出番……?」
ずっと静かだったゆきが突然話し始めた。彼女の出番と言われても、一人で動くわけでも意思を持っているわけでもない。いったい何が出来るというのか。
真帆ちゃんの言葉を待っていると、彼女は唇を力強く噛みしめて涙を流していた。僕が言葉をかけようとすると、ゆきが腕を伸ばして制した。
「これは真帆が決めたことじゃ。揺らぐようなことをしてはならぬ」
「揺らぐって真帆ちゃんは何をしようと――」
「短い間だったが出会えてよかったぞ。妾の役目はここで終わりじゃ。真帆のことは頼んだぞ、大樹」
「役目は終わりって……。全然分からないよ。どういうことなの」
「ゆきを、ゆきを……殺します。始めにシステムから放送があったとき、これで全員と言っていました。私、人数を数えていたんですがあの場にいたのは間違いなく三十人です。でも、一人殺された後のフロアごとの人数確認でも三十人でした。つまり、本当は最初に三十一人いたんです」
もしかしたらその人数確認は死者も含んでいる可能性があると思ったが、帰還者が出た時の人数確認ではちゃんと人数が減っていた。たしかに最初の人数は三十人だったはずなのに、もしかしてその一人って……。
「そうです。ゆきもちゃんと人数としてカウントされていたんです」
「でも、ゆきは真帆ちゃんにとって大切な友達なんでしょ!? みんなで現実に帰れるように僕が考えるから。だから……」
「いいんです大樹さん。いつかはゆきから卒業しないといけないんです。それが今来ただけですから」
「真帆ちゃん……」
「ゆき、今までありがとね。楽しい時も嬉しい時も苦しい時もつらい時も、いつも側にいて話を聞いてくれたよね。私これからは一人でもちゃんと頑張るから。だから……だから……ごめんね。ゆきぃ……」
真帆ちゃんは思いきりゆきを抱きしめて嗚咽した。僕はそれを静かに見守ることにした。彼女が覚悟を決めるまで……。
しばらくして彼女は泣き止み、近くの戸棚から包丁を取った。
「大樹さんも一緒に」
「真帆ちゃんの大切な友達なんだから、君の手だけで優しく眠らせてあげて」
二人で殺した場合、システムにちゃんと二人とも殺した扱いにしてもらえるか不安だったというのもあるが、口から出た言葉は確かに本心だ。僕が手を出す状況ではない。僕の気持ちを察してくれたのか、彼女は包丁をしっかりと握り、ゆきと向き合った。
「ごめんね。ありがとう。そして……さよなら」
刃がしっかりとゆきの胸元に刺さり、ゆきはただの人形へと戻った。どう言葉をかけていいのか分からなかったが、彼女は悲しそうだけど笑って僕を見た。
「私はゆきの分までしっかり生きます。そのためにも大樹さんの足手まといならないためにも、出口を見つけて先に現実に戻ってますね」
「……そうだね。それがいい。出口を探しに行こうか」
余計な言葉を交わさなくても、彼女が一歩前に進めたのが伝わってきた。差し出してきた手を強く握り、僕も気合を入れ直す。一番の問題を乗り越えられたんだ。出口もすぐに見つけてみせる。
出口とはどんな見た目をしていて、どういうところに隠すだろうと考えながら教室を出ると急に左腕が引っ張られた。安心して気が抜けてしまったのか、手を繋いだまま真帆ちゃんが転んでしまったせいだった。そんな普段の彼女に戻ってしまったことに苦笑して、起こしてあげようと腕を引いた時僕は気がついた。彼女の背中を染め上げる真っ赤な血に。
「真帆ちゃん……? どうして!?」
「はは、はははははは! こ、殺したぞ! 殺してやったぞ!! これで俺も帰れるんだ!」
「お前えええええ!」
突然背後から現れた男は、にたにたと笑いながら血で染まった刃物を真帆ちゃんの背中の上に放り投げた。かつてないほどの怒りを感じ、胸の辺りが一気に熱くなり、一瞬立ち眩みのような症状が出るほど頭に血がのぼる。無残に殺してやるという思いが溢れ出してきたが、男は殺したらもう用がないといった様子で僕に目もくれず走った。全力で追いかければ追いつけたかもしれないけど、彼女を一人ここに置いていくわけにはいかない。背中から溢れ出る血をどうにか止めようと上着を脱いで押し付けるが止まる兆しは見えず、上着も僕の手も赤く染めていくだけだった。口元に頬を近づけても呼気を感じず、首に手を当てても脈はない。その上、体温が低くなっているような気がした。
どうして彼女が殺されなければならなかったのか。一生懸命で他人を思いやれて、自分の唯一の救いを断ち切ることが出来て前を向いて笑っていたのに。真帆ちゃんは生きるべき存在だったのに。
「ふざけんな……ふざけんなよ! なんでだよ。なんで、あんなやつが現実に戻れる権利を得られて真帆ちゃんが死ななきゃいけないんだよ! 誰か答えろよおおおお!!」
僕はただひたすら叫び続けた。誰かに答えてほしくて、こんなことを仕組んだやつが許せなくて、床を思いきり叩いて泣き叫んだ。それで彼女が戻ってくることはないと分かっていても、この思いを止めることは出来なかった。
それからどのくらいの時間が流れただろうか。僕はふらふらと校舎の中を歩き回っていた。誰でもいいから殺してほしかった。彼女を守れない自分なんかが生きるのは許せなかった。ゆきに任せたと頼まれたのに、どうして僕はこんなにも無力なんだ。自分への怒りが抑えきれず、目の前のドアを思いきり蹴ると中から物音がした。この部屋には誰かがいる。そう確信して教室に入るとそこは理科室だった。ただ、いつもと違って床の至る所に血が飛び散り、教室の中心で誰かが俯いて座りこんでいた。
「高藤くん……?」
「え――」
聞きなれた声が聞こえてきて、その人をよく見るとそこにいたのは久保さんだった。なんで彼女がここにいるのだろうか。いや、今はそれ以上に床や服についた血が気になる。彼女の様子や声の雰囲気から、その血は彼女自身のものではないことが分かる。もう一つの可能性を認めたくない気持ちと彼女になら殺されてもいいという気持ちが交錯して言葉を発することが出来なかった。互いに無言のまま見つめ合う。先に沈黙を破ったのは彼女だった。
「どうしよう……私、人を殺しちゃった……」
震えながら怯えた表情をしている彼女の口元は微かに笑っていた。普段の僕なら怖くて見ていられなかったと思うが、今は逆に安心している。彼女はもう壊れてしまっているのだ。だから、きっと挑発すれば僕を殺してくれる。よく知っている人に殺されるなら悪くない。僕は一歩前に進み、彼女に挑発の言葉をかけようとしたその時だった。
「このうつけ! あんなにお前を生かしたいと願った真帆の気持ちを無駄にする気か! その上大事な友達を見捨ててつらいことから逃げるなんて、大樹はそんなやつじゃなかろう!」
突然脳内にゆきの声が響く。そして、今まで自分が目指していたものを思い出した。僕は自分の心の弱さのせいで、真帆ちゃんだけでなく久保さんまでも殺してしまうところだった。真帆ちゃんをちゃんと供養して久保さんを現実に戻すのが今の僕の役目だ。だから今、僕がすべきことは――。
ゆっくりと彼女に歩みを進めると反発した磁石のように彼女は後ろに下がっていく。が、後ろには壁がありすぐに下がれなくなった。彼女の不安な表情に対して僕は笑顔を向けて手を握った。
「帰ろう、久保さん」
その言葉をきっかけに彼女は糸が切れたかのように僕の腕にもたれかかり、声を押し殺して泣き始めた。一日で二人も女の子を泣かせて少し心が痛んだけれど、それで彼女が少しでも楽になるなら大したことない痛みだ。
「ふう……みっともないところを見せちゃったね」
涙を拭うと、彼女はいつもの見慣れた笑顔に戻った。久保さんも僕と同じだからここにいることに気がつき、今まで彼女をちゃんと見ていなかったことを思い知らされた。そんな彼女になんて言葉をかければいいのか分からない。そもそも今までどうやって話していただろう。自然に振る舞おうとすると逆に不自然になって、悩んだ思いの行き場がなくて腕が空中でふらふらと動く。そんな僕の様子を見て、彼女は自然な表情で笑った。僕もそれに釣られて笑った。まるでこの世界に僕ら二人だけしかいないような気がして、今はその錯覚が心地良かった。しかし、夢はいつか覚めるように、お互いに血がついた部分が目に入ると現実に帰ってきた。彼女はまた怯えた表情に戻って口を開いた。
「私は自分の欲のために取り返しのつかないことをしちゃった。だから、高藤くんに私を殺してもらいたいの」
「それは違うよ」
考えるよりも先に言葉が出ていた。そして気づいた。人を殺した自分に生きる価値はないと死を望む彼女と、真帆ちゃんを守れなかった自分を責め、死んだ方がいいと思っていたさっきまでの僕が同じだということに。
それは違う。僕らが死んだって真帆ちゃんも殺してしまった相手も生き返るわけではない。自責の念から逃げているだけだ。彼らをあるべき場所に納め、しかるべき時に手を合わせることが生きた者のすべき償いなんじゃないかと思う。だから僕は一言だけ言うことにした。
「僕らは、生きなきゃ」
「……うん」
僕より賢い彼女は本当は分かっていたのだろう。覚悟を決めた表情で立ち上がり、自分自身の背中を押すように何か呟いていた。僕らは無言のまま目を合わせて互いに同じことを考えていることを理解すると、教室を出た。
足音に耳を澄まして誰もいないことを確認すると、近くの教室から探索していく。机、ロッカーに何かが入っていないか。窓は開いていないか。手分けして素早く調べていく。しかし、どこにも何も入っていないし開きもしない。掃除用具入れから箒を取り出し、もう一度窓を叩いてみたがやっぱり傷一つ付くことはなかった。
その音に反応して女性が入ってきたが、久保さんがドア付近にしかけた理科室から拝借した延長コードによる罠でバランスを崩させ、ロープであっという間で縛り上げてしまった。冷静さを取り戻した彼女を見て、これから絶対に彼女を敵にまわすようなことをしないように気をつけようと心に誓った。
その後は何とか誰にも見つかることなく探索を進めることが出来た。明らかに人が減っているのが分かる。もうほとんどの人が死んでしまったか、動けないほどの怪我を負ってしまったのだろう。そんな人たちも心配だけれど、今は彼女を現実に戻すことが最優先だ。他のことは後で考えよう。そう思いながら三階の音楽室の窓を調べていると、上側の窓が一か所だけ鍵が開いた。顔を出して外を見ると、ロープが屋上からぶらさがっている。これが出口への道だろう。
「久保さん、ここから屋上に行ける!」
「本当!? ってこれはなかなかスリルのある行き方ね」
「僕が先に登るよ。ロープの強度と屋上の様子の確認が必要だし」
「待って、それなら私が――」
彼女の制止を聞く前にロープを握り、引っ張って強度に問題がないことを確認して体を外に出した。顔を下に向けると、校庭が見えるはずなのに黒い靄のようなものがかかっていて何も見えない。下りたら大変なことになりそうだと直感して、上を見るようにして壁を歩くようにして登っていく。
無事に屋上に辿りつくと、特に危険そうなものはない。不自然に扉が一つだけ立っているが、あれが出口なんだろうか。
「問題ない! 登ってきていいよ」
念のためロープを強く結び直し、両手で握っていると彼女はすぐに登ってきた。持ってきたロープを体に巻き付けて、屋上からぶらさがっているロープに結ぶことで命綱代わりにしていたらしい。さっきの制止は彼女が先にするということではなく、それをつけてから行こうということだったのかもしれない。無事に登ってこれたけど自分もつけておけばよかった。
僕らは扉の前に立った。ゆっくり開けると向こう側は真っ暗で何も見えない。やっぱりこれが出口で間違いないだろう。なのに、僕らは動くことが出来なかった。ここにきて迷いが生じてしまったのだろう。しかし、いつまでもここで立っているわけにはいかない。そう思っていると不安を和らげるためか、彼女が力強く手を握ってきた。僕も握り返して彼女を見ると、無理して作ったとバレバレな笑顔を向けてきた。きっと、僕も同じような表情をしているのだろう。深呼吸をして心を落ち着かせた。よし、大丈夫。
そして彼女の手を前に引いて、背中を押した。振り返って驚いた表情をする彼女に、僕は上手く笑えているだろうか。
「先に向こうで待ってて。必ず追いつくから」
「絶対……絶対だからね。私たちは、友達なんだから」
「そうだね。僕らは友達だ」
「待ってるよ。大樹くん」
「ありがとう。ゆかりさん」
彼女が扉に入っていくと同時に僕は彼女に背を向け、下に戻るロープに向かって歩く。しばらくつらい日々が続くと思うけど、分かり合えた僕らはきっと前を向いて進んでいける。現実に戻ると約束したからには覚悟を決めて、ロープに手を伸ばしてその時だった。背後から大きなものを潰すような音が聞こえてきた。振り返ると、扉には腕が一本挟まっていて、下から大量の血が流れていた。
「うっ……」
目を逸らして一気に襲ってくる嘔吐感を、左手で口を塞ぎ右手で塞いだ手を抉るように力を込めて抑えた。あれは彼女の一部なんだ。吐くな、吐くな吐くな吐くな吐くな吐くな。
なんとか堪えて顔を上げると静かに扉が開いた。扉の向こうはさっきまで真っ暗だったのに、絵筆を洗った水のような色をしていた。本当に向こう側は現実に続いていたのだろうか。状況が飲みこめずに座り込んでいると、もう聞きなれた小さなノイズが聞こえてきた。
「おめでとうございます。あなたが選ばれた一人です。高藤大樹さま」
「救済システム……! どういうことだ! 彼女は約束通り人を殺して出口を見つけたはずなのに、どうして殺された!」
「質問にお答えしましょう。ワタクシはたしかに殺したらと言いましたが、一人だけでいいとは言っていません」
「なら、最初からそう言えば――」
「現実に戻るのは自分一人でいい。そう思うほどの貪欲な人間でなければ、あなたたちは現実に戻っても生き残れないのです」
とんでもないやつだ。何が救済だ。何がセカンドライフを過ごすためのバックアップだ。こいつははじめから僕らを実験道具としか見ていなかったんだ。
システムの言葉を思い出しているうちに僕は一つの謎に気がついた。そして、すぐにその言葉の真意に気がついてしまった。
「序盤に誰かが現実に戻ったって放送したよな……? それってまさか――」
「流石、最後の一人は察しがいいですね。あなたのように本当に帰れるのか疑問に思う人間が何人かいたので嘘を流させていただきました」
「最後の一人……? なら、僕を殺して彼女を生き返らせてくれよ! 僕なんかよりも彼女の方が優秀で生きるべき存在だったのに」
「それは不正解です。彼女はあのまま現実に戻ってもまた利用されて殺されるだけでした。あなたのように誰にも直接手を出さず、皆を利用して殺した人間こそ、現実に戻るのにふさわしい生き残れる人間だと判断しました」
その言葉に僕の中で何かが切れたような気がした。真帆ちゃんのことも、ゆかりさんのことも本当に生きてほしいと願っていた。利用して自分が生きてやろうなんて微塵も思っていない。それを、人の心を読んだかのように堂々と言って、僕を迷い狂わせようだなんてどこまで人を馬鹿にしたら気が済むんだ。
「出てこい! どこかで僕を見ているんだろ。僕はお前を絶対に許さない!」
「あなたはどこまでも面白いですね。ワタクシは咎砕死すテム。世界に対抗する存在を創り出す存在です。そ、そ、そのためニハどんなコトでもやってみせマス。わ、ワタクシ、ワタクシはワワワワワワ」
「他人を利用して生き残るなんて、現実のやつらと同じじゃないか。僕はそんな風にはならない」
「仕方ナイですね。それでは、あな、あ、あなたをサクジョいたしままままま」
狂ったように同じ言葉を繰り返し続けるシステムの言葉が途切れる前に、頭部に激痛が走った。視界が歪み、まともに立つことが出来ないほどの痛みが襲ってくる。僕は膝をつき、そのまま倒れた。そして意識が途切れた。
「続いてのニュースです。××中学校集団自殺について、警察は何者かによる自殺教唆の可能性があると――」
「ほんと物騒になったわねー」
患者のことを気にしてか、先輩はテレビを消してカーテンを開けた。雲一つない青空で陽の光が病室を照らしてくれた。それでも彼は表情一つ変えない。言葉も発することもない。
「高藤さん、今日は良いお天気ですよ」
わざとらしいくらいの明るい声で言葉をかけるが、やっぱり返事はない。集団自殺の唯一の生き残りで、原形を留めていない人たちの中を座り込んで発見されたらしいが、そんなところにいたら心が壊れてしまってもおかしくないだろう。
もう一度彼を見てみるがさっきと何も変わらない。それでも私はいつも通り明るく接することしか出来ない。詳しいことは分からないが、医師曰く自然療法が一番良いらしい。早く治してあげられない今日の医療にはがっかりだ。
何気なく外を見ると近くの火葬場の煙突から陽炎が見えた。そういえば、今日は亡くなった子どもの葬儀が行われると誰かが言っていた気がする。どうか、その子たちが天国に行って幸せになれますように。
「ま、この仕事に就いていれば色々なことがあるから、塞ぎこむ前に私に言うのよ」
私の頭をぽんぽんと叩いて先輩は病室を出て行った。心の中を読まれたから、悔しいような恥ずかしいような気持ちになって、私は思わず目の前の彼の頭を撫でていた。
「あっ、ごめんなさい! 先輩に変なことされたから気が動転して――」
急いで手を離すと、彼の表情は変わっていないけれど涙が零れ落ちていた。頬を流れてはまた目から流れ落ち、今まで耐えてきたものを洗い流しているように見えた。
「そうよね。頑張ったんだもんね」
どうか、彼が見ている夢が幸せなものでありますように。私はそう願って彼の頭を撫で続けた。