⑥
その後も、エリカの帰りが遅い日は続いた。そして毎日のように、僕やプリリンやオメザメクンに向かって嘆いた。サトウさんが振り向けるようになるにはどうしたらいいか、と。
そんな太った人のことなんか放っておけばいいと思うのだけど、やっぱりエリカは優しい人なんだ。僕はそんなエリカのことを、ますます好きになった。
そうこうしているうちに季節は冬になり、朝晩の冷えこみが厳しくなってきた。身体のほとんどがフワフワの綿でできている僕たちは、寒さには割と強い方だ。どちらかというと夏の方が苦手で、特に湿度が高いときなんて、なんだか身体がズシリと重くなったような気がする。似たようなフワフワでズングリの仲間たちに囲まれているせいか、暑苦しさもハンパない。
エリカは寒さが苦手なようで、ここ最近は目覚まし代わりのミニコンポからノイズ交じりの音楽が流れ始めても、なかなかベッドから出られない。蒲団の中でいつまでもモゾモゾとしているものだから、遅刻しちゃうのじゃないかと毎日心配になる。
ようやく蒲団を出たかと思えば、震えながら何枚もの服を重ね着して、その上からさらにダウンジャケットを着込んでいく。まるで僕たちの仲間入りをしたかのようにモコモコだ。
いまなら言葉が通じるんじゃないかと話しかけてみるのだけど、「だから、ムダだっつうの!」と、プリリンから覚めたツッコミを入れられるのがオチだ。
ある日、エリカが出かけたあと、マトリョーナおばさんとプリリンがいつものようにバカだババアだと罵り合っているとき、人間様が近付いてくる足音が聞こえた。
「ちょっと二人とも、誰か来てるよ。気を付けて!」
スリッパのパタパタという音が部屋の前まで来ると、すかさずドアが開いて人間様が姿を現した。そのとき、注意したにも関わらずヘッドレストから身を乗り出すようにしていたプリリンは、体制を崩してマットレスの上へと転がり落ちた。
「あのバカッ!」
マトリョーナおばさんが怒鳴り、僕は思わず息を呑んだ。だけれど、部屋に入ってきた人間様はプリリンのことは全く気にも留めていないようだった。ひとまず安心。
部屋に入ってきた人間様は、お母さんだ。
きれいに畳まれたエリカの洗濯物をベッドに置くと、そばに転がっていたプリリンに手を伸ばした。
「あの子ったら、まだこんなのと一緒に寝てるのね」
呟きながらプリリンを手に取り、お腹をムニュムニュしはじめた。プリリンの無表情がくすぐったそうに歪む。お母さんは感触を愉しむというより、プリリンのお腹の調子を調べるかのように、慎重にムニュムニュしたあと僕らのそばに優しく置いた。
「ふぅ・・・。たまには、熟女もいいもんだな」
プリリンの無表情がイヤらしくニヤついているように見えた。
お母さんはゆっくりと部屋の中を見廻したあと、机の下においてあるゴミ箱を覗き込んだ。ときどき、洗濯物を持ってきたついでに、エリカが溜め込んだゴミをキレイにしていく。ゴミ箱の中をガサガサと掻き混ぜて、その中から一枚の小さな紙くずを摘み上げ、クシャクシャのそれを広げていたようだったけど、すぐに他のゴミと一緒にビニール袋にまとめて口を縛った。
新しいビニール袋をゴミ箱にセットし終えると、いつもならそのままゴミを持って部屋を出ていくのに、今日はまだ机の前から動こうとしなかった。
お母さんはパソコンへと手を伸ばした。二つ折りの本体を開くと電源を入れ、立ち上がるのを待ってからマウスを手にとりカチカチと操作を始めた。
「あれっ、パソコン使えるのかな?」
「そういや、お母さんがパソコン触るの初めてだな。なにしてんだろ?」
「最近の主婦は、夕食の献立をインターネットで検索したりするそうですよ」
「そうかしら・・・。なんだか挙動が怪しいわ・・・。まるでエリカがいない隙を狙ってきたみたいじゃない?」
僕とプリリンの会話に、オメザメクンとマトリョーナおばさんも加わった。
「エリカがいない隙を・・・?」
そういわれれば、なんだか落ち着きがないようにも見える。そのときプリリンが声を上げた。
「あ、わかった!」
その無表情な目にイヤらしい光を宿している。あの目は良からぬことを思いついたときの目だ。
「お父さんは長期の単身赴任だろ? しばらく帰って来た様子も無いし。きっと・・・」
そこで言葉を切って、不穏な眼差しで僕たちを見廻した。人間様がいる前で身体を動かしたプリリンに内心ヒヤヒヤしたが、幸いお母さんはパソコンに夢中で気付かれる心配はなかった。
続きの言葉を待つ僕たちに、もったいぶるようにゆっくりと話した。
「きっと・・・、性欲が爆発寸前なんだよ」
なんだか力が抜ける。いつもの下ネタだ。
「まぁ・・・、いつもながら下品ね」
マトリョーナおばさんが呆れながらツッコんだ。
「いいから最後まで聞けって! それで、欲求不満解消と実益を兼ねてだな、危ないアルバイトを探しにきたんだよ!」
「危ないアルバイト、って・・・?」
プリリンの無表情な目に、いちだんとイヤらしさが増した。
「なんだよピョンタ、ほんとは判ってんだろ?」
「いや、わかんないよ・・・」
「カワイコぶってんじゃねぇぞ! おちゃめな顔しやがって」
「プリリンやめなさい! ピョンちゃんは、あんたみたいなゲスとは違うのよ」
「へん、ただガキなだけじゃねぇか。まぁいいや、教えてやろうか?」
「う、うん・・・」
「そんなに知りてぇか? じゃあ、教えてやろう。危ないバイトってのはなぁ、一言でいうと、お金をもらって男の人間様を気持ちよくしてあげるんだよ」
「気持ちよく・・・?」
「そうだ。男の人間様の、大事なところをああしたり、こうしたり、そんでもって、あんなことやこんなことも・・・」
「お、お母さんが!? ま、まさか、そんな・・・」
「まぁでも、そうねぇ・・・。あのお母さん貞淑そうに見えるけど、得てしてそういう人ほど絶倫だったりするものねぇ・・・」
「ゼ、ゼツリン!? もう止めてよ! お母さんのこと、今までどおりに見れなくなっちゃうよ・・・」
「そういえば、旦那さんが単身赴任中の主婦の不倫率は、三七パーセントという統計が出ています」
「オ、オメザメクンまでそんな・・・」
「もう間違いねぇな・・・。でも、しょうがねェよ。お母さんも寂しいんだって。そっと見守ってやろうぜ」
「そうね、ロシアのことわざにも、『溜まったガスはいっそのこと爆発させろ』っていうのがあるわ」
「それ、どういう意味!?」
そうこうしているうちに、お母さんはパソコンの電源を落とし、ゴミ袋を摘んで部屋を出ていった。
みんなの話を聞いたせいかその後姿が妙に艶めかしく見えて、僕はその考えを振り払おうとプルプルと頭を振ったのだけれど、プリリンみたいに上手にはプルプルできなかった。
「たっだっいまー!!」
その日の夜、いつにも増して遅く帰って来たエリカは、いつになくハイテンションだった。
「みんな、揃ってる? よーし、いい子たちだ。今日はみんなに、新しいお友達を紹介しよう!」
その高すぎるテンションに、僕らは顔を見合わせた。
「・・・エリカ、どうしちゃったんだろう?」
「悩みすぎて、ついに壊れちゃったんじゃねーか? ていうか、呼び捨てやめろって!」
「違いますよ。今日はクリスマス・イヴです。パーティがあるっていってたじゃないですか。きっと、お酒を召し上がったのでしょう」
そういえば、そんなこといってたっけ。それにしても、酔っぱらって帰ってくるなんて珍しい。
エリカは高すぎるテンションそのままにバッグを机の上に放り出して、おもむろにオレンジ色のテカテカとした袋を取り出した。その袋に手を突っ込むと、なにかを取り出した手を高く掲げた。
「タラララッタラ~ン♪ アヤパン~」
右手の中には、白くてフワフワした物体。
次の瞬間、プリリンが素っ頓狂な声を挙げた。
「ア、アヤパン!!」
なにごとかと隣を伺うと、プリリンはいつもの3倍の速さでプルプルと震えながら、エリカの手の中のモノを目詰めていた。いつもの無表情が心なしか青ざめている。
「ど、どうしたの、大丈夫?」
「終わりだ・・・。もう、オレたちは終りだ。ついに来たぞ。いや、覚悟は出来てたんだ。出来てたんだけど・・・、いざ、そのときが来ると、やっぱり怖いもんだな・・・。ハ、ハ、ハ・・・、笑えよ。いいから、笑えよ! 惨めなオレを笑ってくれよ!」
「ちょっと、どうしたんだよ。しっかりしてよ! ねえオメザメクン、プリリンどうしちゃったんだろ?」
「ピョンタさん・・・、彼のこと、知らないのですか?」
いつもクールなオメザメクンの様子もおかしい。顔の中心にある長針と短針が、まるで秒針のように小刻みに震えている。あのエリカの右手の中のモノは、それほどまでに恐ろしいヤツなのか。
あらためて、じっくりと観察した。腕の代わりに淡いグレーの羽が生えた身体。頭には純白のマスクをスッポリと被っている。あのマスクは、どこか見覚えがあるぞ。なんだかブリーフに似ている。というか、ブリーフそのものじゃないか? え、あいつ頭からパンツを被っているのか? だとすれば・・・
「もしかして、あれは、ヘンタイ?」
「・・・確かに、一見ヘンタイに見えますが、違います。正解を教えましょう。ピョンタさん、心の準備はいいですか?」
オメザメクンがもったいぶるように、一呼吸置いてから続けた。
「あのお方こそが、いま日本中を席捲している京都府綾部市公認ユルキャラ、その名も『アヤパン』です。頭から被っているのはまさにブリーフ、綾部の『アヤ』とパンツの『パン』を合わせて『アヤパン』。今年のユルキャラ・グランプリで、なんと八五万票という圧倒的な得票数で第一位に輝いた、名実共に日本一のキャラクターです!」
「・・・・・」
思わず無言になった。
「ピョンタさん、大丈夫ですか? 気をしっかり・・・」
「あ、いや、大丈夫だけど・・・。あの、それが、なにか・・・?」
「はぁ? ピョンタさん、ノンキにもほどがありますよ。いいですか、いまやアヤパンといえばキャラクター業界では二番手以下を圧倒的に引き離している一人勝ちキャラです。それをご主人様が手にしているということはですよ、いまや世間的には全く人気の無いモンキッキ先輩をずっと大切にしてきたような、そんなご主人様までもが、ついに流行に乗っかってしまう日が来た、ということです」
「あぁ、なるほど・・・」
「古来より流行を追う人間様というのは、心移りが激しいのです。次の流行が来れば、前の流行なんてあっさりと切り捨ててしまうものなのですよ! ということは・・・」
「と、いうことは・・・?」
「アヤパンに執心してしまったご主人様は、我々をいつ見放してもおかしくない、ということです!」
「あぁ、なるほ・・・。ええっ!!」
なんだって!? エリカが、僕らを見放す!?
そ、そんなバカな。そんなことがあるもんか!
「あぁ、もう終わりだ・・・。最後にもう一度だけ、エリカさんの胸に抱かれて眠りてェ・・・」
呆然とする僕の隣で、放心状態のプリリンがプルプルと身体を震わせながら、うわごとのように呟いた。オメザメクンも昂奮した口調で一通り説明し終えると、むっつりと押し黙ってしまった。長針と短針が『へ』の字を模ったように固まっている。
エリカはそんな僕らの心境を他所に、ベッドにもたれてアヤパンをいじくり回していた。
「あはっ、パンツ取れるんだ。中の顔はなんだか普通だなぁ。やっぱパンツ被ってた方がインパクトがあっていいや・・・」
そのとき、またまた遠くから聞き覚えのある声が響いてきた。
「お風呂早く入っちゃいなさい!」
お母さんだ。
「はーい」と返事を返したエリカは、アヤパンをヘッドレスト下段、僕ら三人の隣に並べた。
「みんな、仲良くしてやってね」
そういい残すとそそくさと部屋着に着替え、階段を降りていった。
すぐ間近に日本一の大人気キャラがいる。そのことを知った途端に感じ始めたオーラが凄すぎて、眼を向けられない。プリリンのプルプルは史上最強の激しさで振動し、オメザメクンは『へ』の字のまま時が止まってしまった。
僕は眩しさに眉をしかめながら、実際のところ僕に眉毛はないのだけれど、そんな面持ちで大スターの様子をそっと伺った。そのとき、うっかりと視線が合ってしまった。
しまった!
慌てて目を逸らす。目を伏せて、気まずい空気をやり過ごそうしたけれど、ドキドキが治まらない。
相手はなにせ、二人がこんなにもビビッちゃうほどの大スターだ。もしかしたら尋常じゃなくワガママで横暴なヒトかもしれない。「なに見てんだよ!!」とか、イチャモンつけられたらどうしよう。
しばらく眼を伏せていたのだけれど、なにごとも起こる気配はない。
意を決してもう一度、今度こそ慎重に、そおっと様子を伺ってみた。
大スターはじっと僕の方を見ていた。
その表情は、ブリーフに覆われていて判らない。




