②
一晩中聞こえていたモンキッキ先輩の呻き声は、朝にはもう治まっていたけれど、大丈夫なのだろうか。僕ら三人がいるヘッドレスト下段からは、様子を伺うこともできない。見に行きたいのはヤマヤマだけど、ズングリとした僕らの体型では、自力で上段にまで登ることはできない。
そのときプリリンが、こんな作戦を提案した。
エリカが慌しく朝の支度を始めたタイミングを見計らって、誰かがベッドの目立つところまで転がり出る。それに気付いたエリカは朝の慌しさにかまけて、無造作に上段へと仕舞ってくれるのではないか、というものだ。
プリリンは謀らずも何度かその経路で上段に上がったことがあるらしい。
僕らはその作戦を実行に移した。ボンヤリとしたままベッドを出たエリカの眼を盗みつつ、エッチラオッチラと枕の頂上へと登り、そこから最も丸に近い胴体をしたオメザメクンを、二人がかりで一気に押し出した。
「わぁーーーー、眼が廻りますぅーーーー!!」
オメザメクンは勢いよく回転しながら枕の山を下った。しかし、丸い胴体から生えた手足やベルによって不規則にバウンドし、そのたびに方向を変え、あっという間にベッドからも転がり堕ちてしまった。クローゼットを覗き込むエリカはそのことに気付いていない。
着替えを済ませたエリカが足早にベッドの方へと戻ってきた。ふと嫌な予感が過ぎったそのとき、
「ウギャーッ!!!」
オメザメクンの断末魔の叫び声が轟いた。思わず僕らは耳を塞いだ。いや、正確には塞げていなかった。プリリンの短い腕は耳には届いていなかったし、僕にいたっては耳そのものが付いていなかった。
足元に異変を感じたエリカが屈み込み、踏んづけてしまったナニモノかを拾い上げた。
「あれ? なんでこんなとこにいるの?」
エリカは首を傾げながらも無造作に、オメザメクンをヘッドレストへと戻した。作戦通り上段だ。
「やった、成功だっ!」
グッタリとしたオメザメクンを他所に、僕とプリリンはハイタッチを交わした。初めてヤツと心が通い合った瞬間だ。
「おーい、どうだ?」
エリカが部屋を出たのを見計らって、上段を仰ぎ見ながらプリリンが問いかけた。
「イタタタタ・・・、酷いめにあった。私の内臓がはみ出すところでしたよ」
オメザメクンが顔を覗かせた。こころなしか表情が曇っている。そんなはずは無いのだけど。
「オマエの縫い目はまだしっかりしてるから大丈夫だ。それよりモンキッキ先輩は?」
「酷いなぁ、少しは私のことも心配してくださいよ」
愚痴りつつも気を取り直したかのように、オメザメクンは立ち上がった。
「ちょっと待ってください。近くまで行ってみますから・・・。よっ・・・、ほっ・・・、よいしょと・・・」
僕はまだ上段に上がったことが無いから判らないけれど、いろいろなモノが置かれているらしい。それらを掻き分け乗り越えつつ、オメザメクンはモンキッキ先輩のもとへと向かっていった。
しばらくして、オメザメクンのやや潜めた声が聞こえてきた。
「モンキッキ先輩、大丈夫ですか? どこか痛みますか?」
続いて、ようく耳を澄ましていないと聞き取れないほどのか細い声で、先輩が答えた。昨夜のおぞましいほどの力強さは微塵もない。
「ん・・・。あぁ、オメザメクンか・・・。いや、少し内蔵がはみ出したようだ・・・。ちょっと、ここを押し込んでくれないか?」
「え、えええぇええ・・・! こ、これを、押し込むんですかぁ?」
オメザメクンの声はわかりやすく狼狽していた。僕は固唾を飲みながら、上段の様子に無い耳を傾けた。
「あぁ、ちょっと頼むわ・・・。情けねぇが、自力ではどうにもならねぇ・・・」
「い、いや、でも・・・、私は医学の心得はありませんし・・・」
「医学なんて大層なもんはいらねぇ・・・。ここいらへんを力任せに押し込めゃあいいんだよ」
「いやいやいやいや・・・、だってこれ、内臓ですよ・・・」
「いいからツベコベいわずにヤレってんだよ。ほら、ここだよ!」
「ひぃー・・・、ちょっと・・・、そんな・・・、うわっ・・、わ、私はヒトの内臓なんて触ったことがないんですよ」
「ウッ・・・、よし、そこだ・・・、オウッ・・・、いちいち怯むな! ほら、もっと力入れろ!」
「えぇぇ・・、いや、手が、手が内臓にめり込んでますよ!? 大丈夫ですか? ひぇぇぇ・・・」
「いいから、もっと力いれろってんだよ! ウガァァァァ・・・、ウォォォォ・・・」
「も、もう、どうなっても知りませんよ! いきますよ! わぁぁぁぁー・・・」
「ギャァアアアア・・・、グワァアアアア・・・」
もう聞いていられなかった。僕は本来ならこの辺りに耳があると思われる顔の両側を力いっぱい手で塞いだが、二人の叫び声を塞ぐことは叶わなかった。プリリンも大きなタレ耳の先端をようやく摘んで、力いっぱい引っ張りながら耳を塞いでいる。
どのくらいの時間が経ったのだろうか、ようやく二人の叫び声が納まった。
僕はゆっくりと両耳の辺りから手を離した。となりでは、プリリンもたれ耳から手を離し、いつもは憎たらしさしか感じない無表情が、心なしか心配そうに見えた。
ほどなくしてオメザメクンが顔を覗かせた。窓から差し込む朝の光が逆光となって、その表情は伺えない。オメザメクンは上段から覗かせた顔の面積を徐々に広げていき、やがて口元まで完全に露出させた次の瞬間、その身体をなげうった。オメザメクンの平べったい円筒形の身体は空中で反転し、枕の横にパフリと着地した。
「オメザメクン!」
僕とプリリンは駆け寄った。
放心したような表情でオメザメクンは中空を眺めながら呟いた。
「もう、大丈夫・・・。モンキッキ先輩は、助かりましたよ・・・」
「よくやった!」
「オメザメクン!」
僕とプリリンはオメザメクンに抱きついた。
オメザメクンの全身は、おびただしい量の白い綿埃に塗れていた。プリリンはそんなの気にならない様子でオメザメクンに抱きつき、その勇敢な行為を湛えた。
僕はちょっと我慢しながら、オメザメクンを湛えた。
決して口には出せないけれど、知り合いとはいえヒトサマの内臓の一部が身体に触れるというのは、どうしたって気味が悪いものだ。
その夜。
エリカは今日も帰りが遅かった。昨日と同じように、カバンを手放すとすぐにベッドに倒れ込んだ。僕らは何食わぬ顔でその様子を伺っていたが、エリカはそんな僕らの異変に気付いた。
「どうしたの、これ?」
上体を起こすと、オメザメクンを手に取った。
「すごいホコリ・・・。踏みつけちゃったからかなぁ・・・。ゴメンね」
エリカは立ち上がるとクローゼットからコロコロを取り出してきて、再びベッドに寝転がり、オメザメクンの顔を鼻歌交じりでコロコロし始めた。
「いいなぁ・・・」
思わず言葉が漏れた。あの粘着テープでコロコロされるのは、なんとも気持ちがいい。ナデナデされるときのやさしい心地好さとは違って、ほんの少し毛が抜けるような、チクチクとした刺激がクセになる感じだ。でも一度だけ、粘着テープが切れていたときがあって、その代わりとしてガムテープでホコリを取ってもらったことがあったけれど、あれはいけない。粘着が強すぎて僕には痛さしか感じないし、終わったあともヒリヒリとした痛みがニ、三日も続いた。でもプリリンにいわせれば、
「あのくらいの刺激がないと物足りないぜ!」
とのことらしい。もうほとんど変態だ。
オメザメクンのコロコロが終わると、ついでのようにプリリンと僕にもコロコロしてくれた。コロコロの粘着はいつも通り気持ちよかったのだけれど、僕の番のときには粘着テープにモンキッキ先輩の内臓がたくさんくっついていて、それでコロコロされるのはやっぱり気味が悪くって、心地好さは半減だ。
僕ら三人のコロコロを終えたエリカは、モンキッキ先輩がいる棚の上段に眼をやって驚きの声を上げた。
「あれぇ、こないだ掃除したのになぁ・・・。もう、こんなにホコリがたまってる」
オメザメクンが乗り越えていったと思われる本やティッシュペーパーの箱をコロコロし、やがてオメザメクン以上にホコリ塗れのモンキッキ先輩を手に取った。
「なんだかホツレが酷くなってる気がするなぁ・・・。ホコリの犯人はもしかしてオマエか?」
その言葉に、僕は少なからずショックを受けた。
エリカったら、きれいな顔をしてなんて残酷なことをいうのだ。モンキッキ先輩はエリカの心が自分から離れつつあることを解った上で、それでも全身全霊でエリカへの愛情を表現した結果、内臓を撒き散らすという大惨事に至ったというのに。それなのに、部屋を汚した犯人だと咎められるなんて哀しすぎる。ビニル樹脂製のあどけない笑顔の裏側は、いまごろ涙で濡れているに違いない。
僕の全て、僕の存在理由そのものといってもいい、エリカに対する無条件の愛がほんの一瞬だけれど、揺らぎそうになった。
でも、それも束の間のことだった。
エリカは机の一番大きな引き出しを開くと、奥の方から何かを取り出した。少し大きめのお弁当箱のような箱。蓋を開けると中にはなんと、大きなハサミや小さなハサミ、沢山の針と糸。そう、手術道具だ。エリカに医学の心得があるなんて知らなかった。
「あれ、オマエ知らなかったのか? ああ見えてエリカさんの手術の腕は、なかなかのもんだぜ」
プリリンが訳知り顔でいった。
エリカは鮮やかな手つきで針の穴にこげ茶色の糸を通し、モンキッキ先輩の毛むくじゃらの脇腹を縫い始めた。もちろん僕らに効く麻酔なんてない。モンキッキ先輩の脇腹には耐え難い激痛が走っているに違いないけれど、先輩は呻き声を漏らすどころか、あどけない笑顔を保ち続けた。
「できた!」
エリカはあっという間に手術を終えると、傷跡を労わるようにコロコロで優しく撫でた。すっかりキレイになったモンキッキ先輩を眺めまわして満足したように頷くと、ヘッドレストの上段、この部屋で一番見晴らしのいい場所へと優しく座らせた。
僕は感動した。エリカは決してモンキッキ先輩のことを忘れていなかった。そして、その愛情を受け取った先輩は激痛に耐え抜いた。
エリカはやっぱり優しい人なんだ。僕はそんなエリカがやっぱり大好きだ。
ほんの一瞬とはいえ、エリカへの想いが揺らいでしまったことを後悔したそのとき、遠くから聞き慣れた声が響いてきた。
「ゴハンどうするの? 食べないんなら片付けるわよ!」
お母さんだ。
「食べる~。すぐ降りる~」
エリカはテキパキとグレーの部屋着に着替え、出ていった。
部屋に静寂が訪れた。
僕がまだ感動の余韻に浸っていると、プリリンがいつになく穏やかな口調で話しかけてきた。
「ピョンタ、わかったか? ちょっとくらいチヤホヤされてるからって調子に乗んじゃねぇぞ。いつかオレらの縫い目が解れたとき、同じように縫ってもらえるとは限んねぇからな」
その言葉に驚いて、プリリンの方へと向き直った。プリリンは無表情のまま、じっと上段を見上げていた。モンキッキ先輩の姿は見えない。プリリンの無表情からは何を思っているのか読み取れない。
「プリリンは、不安なのかい?」
ふっ、と息を吐いてプリリンはその不敵な無表情をこちらに向けた。
「オレらは所詮オモチャだ。ご主人様がチヤホヤしてくれる間だけ、できる限り楽しんでもらえばそれでいい。飽きられれば、ゴミ箱にポイッ、さ。それで本望だ」
驚いた。あの下品でイジワルで口汚いプリリンが、無表情の裏側でそんな覚悟を決めていたとは。でも、僕にはとても共感できない。
「・・・それって、哀しくないかい?」
「いいか、人間様は成長するんだ。成長に合わせて、その年頃に合ったオモチャが必要だ。いつまでも同じオモチャでは遊べない。だからオレたちは、ご主人様が必要としてくれる間にどれだけ楽しんでもらえるか、それが全てだ。それさえできれば、ご主人様の記憶の中で永遠に生き続けることができる」
プリリンのいうことも解らないではない。けれども、いまの僕にはやっぱり素直に納得することは出来なかった。
「でも、でも・・・、僕はエリカとずっと一緒にいたいよ」
ふっ、と再び息を吐いたプリリンの無表情に、心なしかイジワルな光が宿った気がした。
「だから、呼び捨ては止めろって何回いわせんだ!」
「だって、エリカはエリカだろ!? 僕がエリカって呼んでもエリカは全然嫌な顔しないよ!」
「だから、人間様にはヌイグルミの声は聞こえねぇつってんだろうが!」
「ちょっとお二人さん、もう少し静かにしてくれませんか。毎日毎日、うるさくて眠れませんよ」
「なんだとぉ! そっちこそ眠んの早すぎだろうが! そもそもオレらオモチャは、子供たちが寝静まるこれからが・・・」
そのとき、またもや雷が降ってきた。
「テメェら、毎晩々々ヤカマシイわぃ!!」
その轟音に、空気が一瞬のうちに凍りついた。
でもそれは、ほんの一瞬のことだった。僕らは笑顔で轟音のした方を仰ぎ見た。
上段から見下ろすビニル樹脂製の顔には、あどけない笑顔が溢れていた。




