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 その後の数日間、エリカは外出することなく一日の大半を部屋の中で過ごした。久しぶりにたくさんの時間を一緒に過ごせて嬉しいはずなのに、心の底から喜ぶことはできなかった。

 エリカは、あれからずっと元気がない。上下グレーのスウェット姿のまま、ベッドの上でゴロゴロしている。髪の毛はボサボサで、顔色も悪い。ボンヤリと天井を眺めては溜息を吐いて、僕やプリリンを手にとってフニフニしては溜息を吐いて、携帯の着信音が鳴るとそれを覗きこんでは溜息を吐いて、とにかく一日中溜息を吐いている。

 ずっとベッドの上にいるものだから、携帯も枕元に置きっぱなしになっていた。そのおかげもあって、ドラックマを間近でじっくりと観察することが出来た。

 総選挙で優位に立ったプリリンは、あの弱腰だった姿はどこかにいってしまい、ドラックマにも強気な言葉を放つようになった。

「おい、テメェ、昼間っからラリッてんじゃねぇよ! テメェみたいな気色の悪いヤツがエリカさんと行動を共にすんじゃねぇ!」

「ぼかぁ・・・、わりっへ、らんは、らい・・・。ほの・・・、へんら・・・、ひはいは・・・、ほふぉ・・・、おはひ、ふ、はへふんふぁ・・・」

 相変わらずドラックマは何をいっているのか、さっぱりわからない。近くで見ると彼の健康状態が正常じゃないことが確信できた。目の焦点は合っていないし、ときどきお腹の辺りが痙攣するみたいにビクビクと震えている。ドラックといっても、相当ヘビーなヤツをキメているようだ。

「おーい、ドラックマはん。キミ、どっか身体の具合でも悪いんちゃうか?」

 アヤパンが心配そうに尋ねた。

「ほなふぁに・・・、へんら・・・、ひはいほ・・・、ひえはえへ・・・」

 ドラックマはお腹を痙攣させながら返事をするのだけれど、その姿はかなり苦しそうに見えた。でも、僕らにはどうしてあげればいいのか解らない。


 ぐうたらな暮らしをしている間も、エリカは毎晩、僕かプリリンかアヤパンの誰か一人と一緒に眠った。

 アヤパンがやって来た時には、僕が選ばれる回数が減ってしまうのじゃないかと心配したけれど、週のうち一回か二回だけプリリンかアヤパンが選ばれて、それ以外はいつも僕が隣で眠った。やっぱりエリカは僕のことが一番好きなんだ。そのことには満足したのだけれど、元気の無いエリカと毎日一緒にいるのは、やっぱり辛いものだ。

 落ち込んでいるエリカに元気が戻らないのは、僕の力不足を突き付けられているような気がしてならなかった。口の悪いプリリンから、

「オマエなぁ、毎晩毎晩一緒に寝てんだから、エリカさんの元気を早く取り戻してくれよ! できねぇのか? やっぱバッタじゃあご主人様の心の傷を癒す力は無ぇのかなぁ!」

 なんてことをいわれるのじゃないかと身構えるのだけれど、このことに関してはプリリンも、他のみんなも、誰かを責めるようなことは一切口にしなかった。

 誰のせい、ということはないにしても、僕らはエリカを元気付けることが出来ていないのは事実だ。僕は自信を失いかけていた。そんなある夜、布団に入ったエリカは顔の前で僕の身体をフニフニしながらボソリといった。

「明日から、新学期が始まるんだ・・・。また、頑張るよ」

 エリカの瞳には、少しだけ輝きが戻っていた。僕はフニフニのリズムに合わせて、力強く頷きながら答えた。

「そうだよ、頑張ろうよ。もう、サトウのことなんか忘れちゃってさ、また僕たちと、愉しく暮らそうよ!」

 まるで僕の言葉が聞こえたかのように、エリカは僕のほっぺをギュッと摘んで左右に引っ張った。イタタタタ・・・。照れ隠しにしては乱暴だ。

「ハハッ、変な顔・・・。よーし、頑張ろっ! おやすみ!」

 控えめな笑顔を残して、エリカは部屋の電気を消した。

 ほっぺは痛かったけれど、嬉しかった。エリカが少し元気を取り戻してくれた。まだ完全復活とはいえないけれど、久々に笑顔を見ることが出来た。

 その夜も、挟まれたり、押し潰されたり、蹴られたり、散々な目に合ったが、でもとても嬉しかったんだ。


 翌朝、エリカはミニコンポから流れるノイズ交じりの音楽で目を覚ました。以前のように、のっそりと身体を起こし、だらだらと身支度を始めた。

「やっと復活してくれたか・・・」

「わたしも時報を告げる甲斐があります」

「いやぁ、ホンマによかったですねぇ。ご主人様が元気ないと、僕らも責任感じますもんねぇ」

 みんなも安堵の声を上げた。

「うん・・・。でも、完全復活というわけではなさそうな気がするんだけど・・・」

「そうか? それって、まだサトウに未練があるってことか?」

「どうだろう・・・。『お父さん』のことも関係があるのかもしれないし・・・」

「うーん・・・、サトウのダイエットが成功すると、お父さんが帰ってくる・・・。どういことだ?」

「いやいや、もうダイエットは関係ないでしょ・・・。お父さんは確か、ロシアにいてはるんですよね?」

「はい。少なくとも、エリカさんとモンキッキ先輩が留学したときには既にロシアに住んでいたはずです。その後、帰国したという情報はありません」

「そうやとしたら、お父さんが帰国するために、なにかしらサトウさんの協力が必要やということやないですか?」

 アヤパンの鋭い指摘に返す言葉もなく、一瞬の沈黙が生まれた。その沈黙を破ったのはプリリンだ。

「なにかしらって・・・、なにかしら?」

 ・・・・・・・・・

「プリリン、ふざけないでよ! 真剣に考えてんだから!」

「あぁ、わりぃわりぃ。思い付いたらつい口から出ちまってよ・・・」

「まったく・・・」

「ともかく、いまは情報がぜんぜん足りてません・・・。アイツがまともに喋れたら、サトウさんのことも、もうちょっと解ると思うんですけどねぇ・・・」

 アヤパンはそういうと、机の上のドラックマに視線を送った。ヤツは相変わらず不気味な表情のまま、携帯にもたれかかっている。

 すっかり身支度を整えたエリカが、バッグのポケットに携帯を突っ込んで、「行ってきまーす」と自らを奮い立たせるような明るい声を上げた。バッグのポケットから垂れ下がったヒモの先で、ドラックマがグルグルと回転した。

 ただでさえ具合が悪そうなのに、あんなに振り回されたらラリってしまうのも仕方がないか。


 エリカが出掛けていった後の部屋では、すっかり自信を取り戻したプリリンが、人気絶頂のアヤパンに挑みかかっていた。

「ついに、オレサマのソロ写真集が出ることになったんだ。タイトルは『プリプリしちゃうぞ!』。初版二万部だぜ」

「それはそれは、おめでとうございます。じゃあ出版後はサイン会なんかも全国各地でやらはるんでしょう? 僕もフォトブック出してもうたときは全国十一箇所廻らしてもらいましたけど、ホンマに大変でしたわ。あ、でも、プリリン兄さんクラスになったら着ぐるみは何体もありますよねぇ? それやったら同時開催できますし、それほどでもないかもしれませんねぇ」

「・・・サイン会の予定は、聞いてねぇけどよぅ・・・。あぁ、そうそう、夏休み公開の映画への出演オファーがあってよぉ、まだ返事はしてねぇんだけどぉ、全国ロードショーの準主役で結構いい役らしいんだよなぁ・・・。そのスケジュールとの兼ね合いで揉めてんじゃねぇかなぁ、サイン会は・・・」

「へぇ、ホンマですか? スゴイですやん! でも、映画の撮影もこれまた大変ですよねぇ。僕も去年公開された『踊るブラジャーと笑うブリーフ』に出演さしてもうたんですけど、映画って撮影の待ち時間は長いし、季節もちょうど真夏で、着ぐるみの中の人が汗だくになってもうて・・・。そんでまた悪いことにボクの中の人、ちょっと体臭キツかったんですわ。撮影は毎日あるから、なかなか洗濯もしてもらえへんし、あれはホンマ辛かったですわ・・・。でもその作品、舞鶴国際映画祭に出展されて、そんでヌイグルミで史上初の助演男優賞もうたんです。まあ、頑張った甲斐ありましたわ・・・」

「そ、そうなんだ・・・。ちなみに、オレの映画は、アニメだけどよぅ・・・。なんだよっ! テメェ、オレのことバカにしてんのかっ!」

「いえいえいえ、滅相もない! すんません、気ぃ悪うしたんならすんません!」

 二人がワイワイやっている間、僕はマトリョーシカをそっと観察していた。あれからエリカのことが心配で、マトリョーシカに話を聞かなきゃならないこともすっかり忘れていた。

 彼女は今日もムッツリと押し黙ったままだ。花柄があしらわれたオレンジ色のほっかむりは優しい雰囲気を醸しているのに、パチリとした瞳の奥に灯る冷酷な光が、僕たちを遠ざけようとしているかのように感じられた。

 でも、いつまでもビビっているわけにはいかない。マトリョーナおばさんのように、突然いなくなってしまうかもしれないのだ。僕は自分を奮い立たせ、ついに話しかけた。

「マトリョーシカ、ちょっと話をしてもいいかい?」

「・・・」

 返事はない。

「ちょっと、聞きたいことがあるんだ」

「・・・」

 ワイワイやっていたプリリンとアヤパンも、僕の声に注目し始めた。

「マトリョーシカ、教えてくれないかい? 前に、僕のことを見たことがあるっていったよね? そのこと、まだ思い出せない?」

「・・・」

 彼女は滑らかな木材の表面に描かれた愛らしい表情をピクリとも変えることなく、黙ったままだった。

 やっぱり、ダメか・・・。と諦めかけたそのとき、

「イギリスよ。あんたによく似たのを見たわ」

 ぶっきらぼうに彼女はいい捨てた。

「イギリス? ど、どんなだったの、僕は? たくさんいた? 一人だった? お店? それとも、誰か優しいご主人様と一緒だった? それから・・・」

「もう、一度に沢山聞かないでよ! イギリスっていっても、モスクワの英国大使館よ。あんた、大使のお嬢さんからとても可愛がられてたわ。こんなヘンテコリンなの、なにがいいのか分んないけどね」

「イギリス大使のお嬢さん? 僕は、大使のお嬢さんに可愛がってもらえるほど、ちゃんとした生い立ちのキャラクターだったの?」

「ちゃんとした生い立ちって何よ? ご主人様がオモチャを可愛がるのに、生い立ちの良し悪しなんて関係ないでしょ?」

「そ、そうなの!?」

「そうでしょ? 現にあんた、仲間からはバッタだなんだっていわれてたって、毎晩毎晩あんなに可愛がられてるじゃない・・・。ともかく、生い立ちがどうかは知らないけど、たしか、『ハンプティ・ダンプティ』って名乗ってたわよ。童話か何かのキャラクターらしいけど」

 ハンプティ・ダンプティ? 聞いたことの無い変な名前だ。

「おい、オメザメクン、知ってるか?」

 プリリンが小声で確認している。

「ちょっと待ってください。オメザメ・データベースを検索しています。あ、ありました。ハンプティ・ダンプティは、タマゴを擬人化したキャラクターで、『鏡の国のアリス』など、たくさんの文学作品や映画に登場しているそうです。どうやら、欧米ではメジャーキャラのようですね」

 オメザメクンのコメントに、場が少しザワめいた。オメザメクンはさらに続けた。

「『鏡の国のアリス』といえば随分古い童話ですから、私たちキャラクター業界でいうと大先輩に当たります」

 しばしの沈黙のあと、仲間たちが次々と口を開いた。

「オマエ、実はスゲェ由緒ある血筋だったんだなぁ・・・」

「ほんまに・・・。いや、どうりでええ生地つこうてはるし、縫い目もしっかりしてはると思てたんですよ・・・。どうりで・・・」

「でも、正規品のタグが付いてねぇんだから、商品としてはバッタに変わりはねェだろう?」

「いやいや、バッタモンにしては、生地がよすぎますって・・・。もしかしたらピョンタにいさん、とんでもないヴィンテージ品ちゃいますか?」

「え、僕が、ヴィンテージ?」

「いや、それはないだろ! だって、こいつ、なんも知らねぇし、子供みてぇにすぐムキになったりすんじゃん。ヴィンテージって歳じゃねぇよ、絶対!」

「まあ、そういわれたら、ヴィンテージにしては若々しいですもんねぇ・・・。でもまぁ、生い立ちが判ってよかったやないですか」

「あ、ありがとう・・・。でも、ホントかなぁ・・・」

 まるで『みにくいアヒルの子』のような展開だ。バッタモンと馬鹿にされていた僕が白鳥、いや、イギリス生まれの由緒正しいキャラクターだなんて、夢のようだ。夢かもしれない。ホッペをギュッとツネってみたら、ふんわりと柔らかかった。

 騒然とする僕らをよそに、マトリョーシカは話題を変えた。

「ところであんたたち、ここのご主人様のこと、なんにも知らないのね?」

 上から目線の物言いに、プリリンがいい返した。

「なんにもって、なんだよ? ちゃんと知ってるぜ。バストは八八のDカップ、ウエスト六〇、ヒップは九〇、それから・・・」

「そういうんじゃなくて・・・。いいわ、教えてあげる。あたしがここに来たこととも関係があるから。あの子はねえ・・・」

 そのとき、突然ドアが開き、僕たちは息を呑んだ。

 開いたドアから顔を覗かせたのはお母さんだった。おかしい。お母さんがこの部屋にくるときには、その足音に気付くはずなのに。

 部屋に一歩踏み入ったお母さんは、いつものように洗濯物を抱えてはいなかった。なにかが違う。そう感じた直後、背後から二つの影がお母さんを追い越すように部屋に侵入してきた。スーツ姿の男たちだ。しなやかな身のこなしで一人は机の前、もう一人はクローゼットへと向かうと、乱暴に部屋を荒らし始めた。

 突然のことに、僕らは目を白黒させて眺めることしかできなかった。男たちは全ての引き出しを引っ張り出し、本棚の本や雑誌をひっくり返し、服やズボンのポケットをひとつひとつ裏返しにし、カーテンの陰、ベッドの下、枕カバーの中、とにかく部屋中をものすごい勢いで荒らしていった。何かを探しているみたいだ。

 ついには、ヘッドレストも彼らの餌食となった。僕らは次々とマットレスの上に投げ出され、コロコロと転がった。その直後、二階からいろいろなものが降ってきた。写真立てや大小のアルバム、ティッシュペーパーの箱。そして最後に、モンキッキ先輩が降ってきた。一度大きくバウンドして仰向けに着地するなり、叫び声を上げた。

「ウキィッ!!」

「先輩、大丈夫ですか!?」

「くぅ・・・、またやられちまった・・・」

 僕らは一斉に、先輩のそばへ駆け寄った。僕らの前では見栄を張ってか、いつも通りのあどけない笑顔を保っていたけれど、一目で重傷であることが分かった。エリカに縫ってもらったばかりのわき腹がまた開き、内臓がはみ出しかけていた。

 そのとき、追い打ちを掛けるようにお母さんの手が伸びてきた。思わず身を縮めた。しかし、その手は僕の頭上を通り過ぎ、プリリンの身体をかすめて、掴まれたのはアヤパンだった。

「え・・・、な、なんですの? なにが始まりますの?」

 そんな問いかけにもお母さんはもちろん答えない。左手にアヤパンを鷲掴みにして、右手は机の引き出しから転がり出てきた手術道具をあさり、小さなハサミを手に取った。

「え、ま、まさか・・・」

 思わず、息を呑んだ。なぜだ? 何のためにそんな酷いことを!?

「いや、お母さん、ちょっと、それは堪忍、おかあさ・・・・・・」

 次の瞬間、

「ギャー!!」

 アヤパンの悲鳴が響き渡った。

 眼を閉じたくても瞼の無い目は閉じられず、耳を覆ったところで耳がついていない僕には、アヤパンの叫び声が鮮明に聞こえ続けた。

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