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「ただいまぁ」

 エリカが帰ってきた。もう夜の九時を廻っている。

「おかえり。今日も、遅かったね?」

 もう大学四年生なんだし、あんまり口うるさくいうべきではないと判ってはいるのだけど、でもやっぱり気になる。

「はぁ~疲れたぁ」

 エリカはバッグを机の上にドサリと手放して、その反動を利用するかのようにベッドへと倒れ込んだ。細りとした女性らしい身体をマットレスが柔らかく受け止め、その衝撃が波となって僕のところにも伝わってきた。

 うつ伏せの態勢から気怠そうに顔を上げた彼女は、僕がここにいることに初めて気付いたような視線をよこした。

「このところ毎日遅いけど、なにしてんの?」

 問い詰めるような口調にならないように気をつけて、慎重に問いかけた。

「お前はいいよねぇ。毎日ボーっとしてて」

 どうやら僕の問いかけに答える気はないらしい。

 気だるそうに伸びてきた手が僕の頭を撫でた。頭を撫でられるのは、別に嫌いじゃない。というか、エリカの滑らかな手でナデナデされるのは大好物だ。ずっとこうしていてほしい。

 けれども、これが僕の機嫌を取るための常套手段であることも知っている。流されそうになる決意をなんとか押し留めた。やっぱり今日という今日は、ちゃんと聞いておこう。自分の意見はしっかりと主張できる男でありたい。

「だから、毎日なにしてんの? 僕にはいえないようなこと?」

 僕の頭をサワサワと撫でていた手がスルリと移動して、今度はホッペをムニュと摘まれた。

「イテテテテ・・・。なにすんだよ!」

 と口にしてはみたものの、エリカの指にはさほどの力も篭ってなくて、むしろ心地よい。ここでの僕の「イテテテテ・・・」は、「もっと、もっと・・・」と同じ意味だ。

「キャハハ・・・、おちゃめな顔だなぁ・・・」

 エリカは僕の頭を抱え込み、胸元に引き寄せた。柔らかなニット生地越しに、もっと柔らかな膨らみが押し付けられる。

「あぁ、シアワセ・・・」

 思わずそんな言葉がこぼれた。僕はきっと、この瞬間のために生きているのだ。今日こそは帰りが遅い理由を問い質す、というビニル樹脂よりも固い決意は、すっかり萎えてしまった。

 そのとき、階段の下のほうから聞き慣れた声が響いてきた。

「ゴハンどうするの~? 食べないんなら片付けるわよ!」

 お母さんだ。

「食べる~。すぐ降りる~!」

 エリカはドアに向かってそう叫ぶと、僕から手を離して立ち上がった。下半身にピタリとフィットしたジーンズを脱ぎ捨てて灰色のスウェットに履き替えると、そのまま部屋を出て行った。いっさい僕の方を振り返りもしなかった。

 部屋には沈黙が訪れる。

 エリカはどうして打ち明けてくれないのだろう。

 もちろん大学生なのだから、友達とゴハンを食べたり、カラオケに行ったり、映画を視に行ったりすることもあるのだろうけど、毎日々々となると話は別だ。そういう楽しげなイベント事ではなくて、なにか事情があるんじゃないだろうか。

 そして、さらに気懸かりなのは、毎日ひどく疲れて帰ってくることだ。

 アルバイトでも始めたのだろうか。お金に困っているのかもしれない。それならそれで、ひとこと相談してくれればいいのに。たしかに、いまの僕には経済力は皆無だけれど、グチを聞いてあげることくらいはできる。少なくとも以前のエリカはそうしてくれていたのに。僕に心配をかけまいと気遣ってくれているのかもしれないけれど、そんなの水臭いじゃないか。毎晩同じベッドで過ごす僕とエリカの仲なのに。僕の痛みはエリカの痛み、エリカの痛みは僕のよろこび・・・。

「おい、耳障りなんだよ!」

 不意に、トゲのある言葉が投げ付けられた。

「さっきからブツブツブツブツうるせェって。そもそもオマエの声なんか、エリカさんには聞こえねぇっつーの!」

 プリリンだ。ここに来たのが僕より少し早かったからって、えらそうに先輩面するイヤなヤツ。

「いいんだよ。耳で聞こえて無くったって、僕とエリカは心で繋がってるんだ」

「ったくよぉ、ご主人様を呼び捨てにすんなって、何回いわせりゃ気が済むんだぁ?」

 プリリンが苛立ち始めた。でも、プリリンがプリプリしているのはいつものことだからもう慣れた。このくらいで怯んでいては、ここでは暮らしていけない。

「なんでだよ、僕がエリカって呼んでも、エリカは別に嫌な顔しないよ」

「だから、人間様にヌイグルミの声は聞こえねぇっつうの! オマエ、後から来たくせに馴れ馴れし過ぎんだよ。新米なら新米らしく、もっとシオらしくしてろっつうの!」

 そのとき、僕とプリリンの会話に別の声が割り込んできた。

「ちょっとお二人さん、もう少し静かにしてくれませんか。うるさくて眠れませんよ」

 オメザメクンだ。苛立ったプリリンはオメザメクンにも容赦ない。

「なんだよ、そっちこそ眠んの早すぎなんだよ! そもそもオレらオモチャは、子供たちが寝静まるこれからが活動時間だろうが?」

「いや、みなさんはそうかもしれませんけど、私は朝が早いのですよ。『お目覚めTV』放送開始時刻には起きてなきゃいけませんから」

 朝の情報番組『お目覚めTV』のイメージ・キャラクターであるオメザメクンは、テレビのないこの部屋では番組を見られないのに、律儀にその時刻に起床する。なんでも、起きてさえいればテレビ電波を受信できるのだそうだ。

「そんなの知らねェよ! あぁ、あれか? もしかして、人気番組のキャラクターだからって威張ってんのか!? それならオレだって、日本一のキャラクターグッズ・メーカー『サンリヲ』の純正キャラだっつうの!」

 プリリンが胸を張ったが、すかさずオメザメクンが切り返す。

「昨年のサンリヲ・キャラクター総選挙の順位は、と・・・、ありました、一六位ですね。前年から三ポイント順位を下げています。このままいくと、今年は選抜落ちの可能性も・・・」

「こ、このやろう、人が気にしていることを・・・。じゃあこいつはどうなんだよ? こいつは何位だよ?」

獲物に狙いを定めるように、プリリンはその愛くるしいふくふくとした手で、僕を指差した。

 なんだかイヤな展開だ。

「ピョンタさん? そのようなキャラクターはオメザメ・データベースにはありませんね。サンリヲ以外でも、ディズリーやウニバース・スタジオ、その他のメジャー・レーベルにはどこにも在籍していません。ランキング以前の問題です」

「あー、そうだっけ? ゴメンゴメン忘れてたゎ。わっはっはっはっ・・・」

 プリリンがワザとらしい笑い声を上げた。

「うーん、ピョンタさんはいったいナニモノなのでしょうねぇ? ピョンタという名前ほど、カエルにも似ていませんし・・・」

「どうせメイド・イン・チイャナのバッタモンだろ? バッタモンなら普通は人気キャラを真似るんだろうけど、それが誰だか判んねぇんだからなぁ。バッタのバッタだな」

「なるほど。ピョンタさんのピョンは、カエルではなくバッタを意味しているのかもしれませんねぇ」

「バッタのピョンタか! こりゃいいや! わーはっはっはっは・・・・」

 くそう・・・。たしかに、僕がナニモノであるのかは僕にも分からない。エリカも僕と初めて会ったとき、不思議そうな顔をして「なにこれ?」と呟いた。

 プリリンの忌々しい笑い声に、とうとう我慢が出来ず声を荒げてしまった。

「わー!!! うるさーい!!! 僕は僕だ! 僕がピョンタで、なにがいけない!?」

「おっ、キレたぞ、バッタがキレたぞ!!」

「ピョンタさん、短気は健康に悪いそうですよ。同じバッタの仲間でも、キリギリスならもっと暢気で愉快な性格だったでしょうに・・・」

 僕の我慢は限界を超え、ひときわ大きな声で叫んだ。

「僕はバッタじゃない、ピョンタだ!! エリカがそう名付けてくれたんだ!!」

 その直後、部屋の中なのに雷が落ちた。

「テメェらぁ、ヤカマシイわぃ!!」

 その轟音に、部屋の空気が一瞬のうちに凍りつき、本来フワフワの僕らの身体も固まった。

 エリカのベッドはヘッドレストが二段の棚になっていて、僕とプリリンとオメザメクンの三人はマットレスとほとんど同じ高さの下の段に住んでいる。そしてもう一人、上の段には僕たちにとって神にも等しいお方が暮らしていた。

 僕らは恐る恐る轟音が発せられた方角を仰ぎ見た。そこには、半身を乗り出したもじゃもじゃの影が見下ろしていた。

 毛むくじゃらの全身に顔だけがツルリとしたビニル樹脂製。そのあどけない笑顔が窓から差し込む街路灯の弱弱しい光を受け、オカルト映画の殺人人形と同じ色合いに見えた。恐怖が背筋の縫い目をゾクゾクと駆け上る。

 さっきまで偉そうにしていたプリリンが真っ先に返事をした。

「す、すみませんモンキッキ先輩。ピョンタのやつが大きな声を上げるものだから・・・」

「僕の所為にしないでよ。二人が僕のことをバカにしたからだろう?」

「いいからおまえは黙ってろって」

「そうですよピョンタさん。これ以上、騒ぎを大きくしない方が賢明です」

 いっつも偉そうなプリリンと、めったに感情を表に出さないオメザメクンが、二人揃ってビビッているのは余程のことだ。けれども僕だけが悪いわけじゃない。

「チョット待ってよ、僕は悪くないよ。最初に騒いだのはプリリンじゃないか!?」

「ちげーだろ! そもそも、オマエがブツブツうるせぇからだろう!」

「僕はエリカとお喋りしてただけだよ」

「だからエリカさんを呼び捨てにすんじゃねぇ!」

「そうですよピョンタさん。親近感を持つことと他人を尊敬することは分けて考えるべきです」

 二人からの攻撃に僕はまた腹が立ってきて、ついにいってはいけないことを口走ってしまった。

「なんだよ、また二人で組みやがって。ははーん、わかったぞ。最近、エリカは僕ばかり可愛がるからヤキモチ焼いてんだな!?」

 この言葉をきっかけに、二人の怒りはヒートアップした。

「オマエなぁ、後釜の分際で調子に乗ってんじゃねぇぞ!」

「ピョンタさんのそういう性格が周囲から嫌われる要因ですよ。自分がナニモノであるかの前に、どうあるべきかを見直すべきです!」

 僕も昂奮していて、もう後には引き下がれなかった。

「うるさいなぁ、なんとでもいえよ。いまエリカに一番愛されているのは僕なんだ。いまだって、ナデナデしてもらったのは僕だけじゃないか!」

 緊張感を忘れて昂奮した僕らに、再び衝撃が走った。

「いい加減にしろっ! この腐れ外道どもが!!」

 再び雷が落ちた。さっきにも増して激しい閃光が僕たちを貫いた。空気は再び凍りつき、フワフワの身体はゴワゴワに固まった。

 一瞬の沈黙のあと、感情を押し殺したようなモンキッキ先輩の低い声が、ゆっくりと語り始めた。

「くぉら、ピョンタ・・・、テメェ、いい加減にしろよ」

 あどけない表情には似合わない低くざらついた声に、またまた僕の背中の縫い目をゾクゾクとした何かが駆け上がった。こんどは何匹も。

「テメェみたいなガキにはまだ判らねぇだろうがなぁ、人間様の感情ってのは移ろいやすいもんだ。特にエリカのような若い女はな。

 オレもかつてはそうだった。いまのお前なんかよりもずっと愛されてたんだ。寝るときはもちろん、トイレもお風呂も一緒だ。ま、風呂に入ったのは一度だけだったがな。風呂でビショビショになったオレは、お母さんにギュウギュウに絞られた挙句、三分の一くらいに萎んだ身体を洗濯バサミで吊るされた。そんなオレの姿にショックを受けたエリカは、二度と一緒に風呂に入ってはくれなくなったんだ。

 それはともかく、あの頃のエリカとはいつでも一緒にいたし、毎日毎日オレを抱きしめ、あるときはチューチュー吸われ、またあるときはオネショに塗れたんだ! オレの毛並みがゴワゴワしているのは、エリカの汗と唾液とオネショがこうさせたんだ! テメェらなんかより、ずっとずっと愛してもらってたんだぞ!」

 ゆっくりと語り始めたモンキッキ先輩の様子が少しずつ変化しはじめた。

「モンキッキ先輩、わかってます。わかってますから。先輩に比べればオレらなんてまだまだ・・」

 プリリンが宥めにかかったけれど、無駄だった。モンキッキ先輩の語調は少しずつ重石が取れていくように、熱を帯びていった。

「うるせぇ、テメェらに何が判るってんだ! テメェらなんかにわかって堪るか!? いいか、オレはな、エリカがこんなちっちゃい時からずぅーと一緒にいるんだ。エリカが初めて立ち上がったときも、初めて喋ったときも、初めて独りで靴下が履けたときも、初めてブラを付けたときも、初めてエッチな雑誌を読んだときも、初めて男を部屋に連れ込んだときも、オレはいっつもエリカのそばで見守っていたんだ。オレとエリカの絆の強さが、テメェらみたいな昨日今日やってきたヤツらに判るわけがねぇだろ!」

「はい、すみません! モンキッキ先輩、落ち着いてください! それ以上昂奮すると・・・」

 プリリンはさらに宥めたけれど、全く効果はなかった。むしろ火に油を注ぐかのようにモンキッキ先輩の怒りの炎は一気に燃え上がった。

「これが昂奮せずにいられるかってんだ! いいかテメェら、老いぼれだと思って舐めてんじゃねぇぞ! まだまだテメェらなんかに・・・・・・、うっ! イテッ! イテテテテ・・・!!」

 突然モンキッキ先輩が呻き声をあげ、もがきはじめた。俯いていた視線をそっと上げると、右脇の縫い目がほつれ、そこから白い綿がはみ出している。すでに細かな綿は埃となって、僕らの上に降り注いでいた。

「ゴホッ、ゴホッ・・・、ほら、モンキッキ先輩、暴れちゃダメです。内臓が全部出てしまいますよ。 落ち着いて・・・。ゴホッ・・・」

「うわーっ! イテェ、イテェよぉ! 判るか、テメェら!? これが、この痛みが、オレとエリカが育んできた愛の痛みだぁ!!」

 プリリンもオメザメクンも酷く動揺している。僕は必死になって謝った。怖くて怖くて、でも僕には謝ることしか出来なかった。

「わかりました。わかりましたから、落ち着いてください! ゴホッ、ゴホッ・・・」

「ごめんなさい。僕が調子に乗っていました。ゴホゴホ・・、僕なんかまだまだです。反省してます!」

「ゴホホ・・・、ピョンタさんもこういってますから、モンキッキ先輩、もう許してやってください!」


 その夜、エリカは僕に頬擦りしながら眠りに就いた。僕は誰よりも間近にエリカの天使のような寝顔を眺めることができたのだけれど、いつものような幸せな気分には浸れなかった。

 一晩中、痛みに耐えるモンキッキ先輩の呻き声が聞こえ続けていたからだ。

その呻き声は、内蔵がはみ出した痛みによるものではなく、心の痛みであるかのように部屋中に響き渡った。

 モンキッキ先輩がいった、エリカが心変わりするというのは本当だろうか。エリカが僕から離れていってしまう日なんて、本当に来るのだろうか。

 そんなの信じられない。ウソに決まっている・・・・。

 でももし、そんなときが本当に来たとしたら、僕は正気を保っていられるだろうか?

 食事を終えて部屋に戻ってきたエリカは、モンキッキ先輩の内臓がはみ出していることに気付きもしなかった。

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