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五、虎が雨

――ぽろん……。


 その音で、青年ははっと顔を上げた。

 最後の琴の音が、沈黙に余韻を残す。御前の静かな声が、やけに大きく響き渡った。

「……建久四年、五月のことでした。見事、仇である工藤祐経を討ち果たした曾我十郎祐成は、そのまま、討ち死になさいました。享年、二十二の若武者でありました」

 残り僅かとなった灯台の火が、耳障りな音を立てた。

 ゆらり、と御前の影が揺れる。

「そして、捕らえられた時宗さまも、翌日、斬首されました」

 これで終わりとばかりに、御前は目を閉じた。その白い指は、もう琴の音を奏でない。

 けれど、男にはどうしても聞きたい結末があった。

「虎女は、どうしたのだ。やはり、兄弟亡きあとは他の男に囲われたのか?」

「いいえ。虎女はその後、十九で出家し、尼となりました」

「……その、あとは?」

「さぁ?」

 だが、彼の言葉に御前は妖しく笑って首を傾げた。

「ですが、大磯に戻って高麗寺の山奥に庵を結んだとか、……或いは、尼となって諸国を流離っているとか、言われておりますよ」

 彼女の赤い唇が、灯台の光を受けて鈍く光る。

 それはまるで、血のようだと思った。とっさに脳裏を過ぎった不吉な言葉に、青年の背に悪寒が走る。それなのに、寒さで震える身体とは裏腹に、こめかみからは一筋の汗が滴り落ちた。

 くすり……と、微かな笑い声が耳朶を撫でたのは、果たして空耳か。それさえも、分からなかった。

「……御前は、ずっと、それを弄っているな……」

 沈黙が怖くて、目を泳がせながら、おずおずと口を開く。

 彼女が胸元の守り袋を弄っているのが、やけに気になった。青年の指摘に、御前が頷く。

「お守り、です。昔、愛しい方から頂いた大切な品なのです……」

 そう言って、御前は赤い綴じ紐を躊躇なく解いた。

 袋から姿を現したのは、小さな鏡だった。裏面には、細かな枝垂桜の文様が描かれている。

 随分と古い品には見えたが、表面は良く磨かれ、大切にされているのが良く分かった。まるで、水面のようにきらきらと光る。

「――ひ……っ!!」

 だが、そこに映し出されたものに青年は表情を引きつらせた。

 鏡が捉えた御前の容貌は、彼の目が映す壺装束を纏った若く美しい女の姿などではなく、黒い尼装束に身を包んだ皺がれた老婆の姿となっていた。

「まぁ……」

 ガタガタと震える彼の視線に気付き、御前は妖艶に笑って見せた。

 丹花の唇の赤が、ぬらぬらと薄暗い部屋に浮かび上がる。

「そのように驚かれるだなんて、可愛らしい方。人魚の肉を食べて不老不死となった、八百比丘尼(やおびくに)の話だってありますのに」

「そ、それなら、お前っ、は……っ!?」

 誰なんだ――という問いは、噛み合わない歯音に拒まれる。

 鏡の中の老婆が、彼の目に映る若い女と同じ笑みを浮かべた。御前のまろやかな頬が、仄かな赤に染まる。

「薄情な方。お忘れになったと、仰いますの? 先程から、あなたは何度も、わたくしの名を呼んで下さったではありませんか……」

 うっとりとするような甘い声で、彼女は身を乗り出す。

 腰が抜けて動けずにいる男に、彼女はその熱い身を撓垂れかけさせた。ぽってりとした赤が蠢き、その名を囁く。

「――虎女、と」

 はっきりとした声が耳朶を食んだ瞬間、男の中で何かが崩れ落ちた。

「く、く、くっ、来るなああああぁあああああぁ――――っ!!!!」

 恐怖に耐え切れず、彼はへっぴり腰で逃げ出した。

 白湯を入れた器は倒れ、逃げ惑う際に足を引っ掛けた衝立はひっくり返り、裏にあった経机を巻き込んだ。ガタッ! ガシャンッ! ドンッ! と、騒がしげな音が、嵐の如く去っていく。

「……本当に、可愛らしい方」

 ひとり残された部屋の中、御前の楽しげな笑い声が響いて、そして消えた。



 無様な叫び声を上げながら、青年は這々の体で逃げ出した。

 すぐ後ろから御前が追いかけてくるような気がして、後ろを振り向くことすら出来なかった。ただ一目散に、門へと走り抜ける。そこに、昨夜まで繋がれていたはずの葦毛がいないことにすら、気付く余裕などなかった。


 泥濘んだ道に足を取られながら中村通りまで出ると、向こう側から歩いてくる老爺の姿が目に入った。

「っ、た、助けてくれ!」

 恥じらいも忘れ、青年は藁にも縋る思いで老体にしがみついた。

「虎女が、大磯の虎女が……っ!」

「ほぅ。旅の御方、御前にお逢いしましたか」

 だが、うわ言のように彼女の名を繰り返す青年に、彼は何故だか嬉しそうに表情を和ませた。

「そうですか、そうですか。今年も、御前が帰っておりましたか」

 その言葉に驚きを隠せないでいると、老爺は愉快なものでも見たように、蓄えた白い髭の下で笑った。

 響き渡る呑気な声に、青年の強張っていた四肢から力が抜ける。

「……昨夜は、雨が降っていたでしょう?」

 深い笑みを浮かべて、老爺が呟く。そこには、虎女への溢れんばかりの慈愛が感じられた。

 かつて、この里で育ち、この里を愛して散った兄弟と、その兄弟を愛したひとりの女へと向けられた優しい眼差しが。

「人々は皆、虎が雨と呼んでおります。虎御前が、曾我兄弟の仇討ちの日を想って泣いた、涙の雨だと……」

 その眼差しを辿り、青年ものろのろと顔を上げる。眩い朝の光が、彼の頬を優しく濡らした。

 

 そこには、全ての哀しみを拭い去ったような、澄んだ青空が何処までも広がっていた。



 『曾我物語』は、盲目の女たちが紡いだ物語だとされている。

 彼女たちは虎を想い、虎と同じように嘆きを語り、或いは自身が虎女であるかのように、兄弟の物語を語った。


 虎御前の名は、箱根、曾我、そして大磯の地で今もなお語られている。

 そして、曾我兄弟が亡くなった陰暦五月二十八日に降る雨は、兄弟を想って泣いた女の記憶と共に、曾我の雨、或いは「虎が雨」と呼ばれている。


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