四、仇討ち
「っ、兄上……?」
目許に悲嘆の影を残した兄の姿に、時宗は、ぎょっと肩を強張らせた。
だが、佑成が何も言わずに黙々と支度を始めると、彼も倣うように無言のまま手を動かす。出立の準備が整うと、ふたりは馬を並べて屋敷をあとにした。
その道中、湯坂峠で立ち止まり、佑成はそっと後方を振り返る。炊事の煙をくゆらせながら、曾我の里はぼんやりとした早朝の光に包まれていた。遠方に目をやれば、酒匂、国府津、そして大磯の高麗寺の山々が目に映った。
「足引の……」
その光景を目に焼きつけながら、佑成は小さく詠う。別れた恋人の面影が、走馬灯のように揺れた。
――足引の山うち越えて明日よりは柞の紅葉妹や嘆かん
(わたしが今日この山を越えると、明日からは母や恋しいあの人が嘆くことになるだろう)
「兄上……」
それまで、名残惜しげに足を止める兄に、訝しげな視線を寄越していた時宗も、このときばかりは声を詰まらせた。母を想い、巨体を震わせて、しばし曾我の里を見つめていた。
けれど、彼らに残された時は決して有限ではない。時宗はすぐに気を取り直し、いつまでも踏鞴を踏む兄に見せ付けるように、その馬の横を通り抜けた。
馬上に揺られる背中が、早く行こう、と告げていた。そんな暇はないのだと。
佑成は、ぐっと歯を食いしばり、やがて諦めたように葦毛の腹を蹴った。もう、引き返すことは出来なかった。
◇
曾我より箱根峠を通り、伊豆の三島大社に参詣して敵討ちの成就を願った。
その間に頼朝が浮島が原へ入ったことを、ふたりは知る。馬の脚を速めて、兄弟たちも追いかけるように駿河国へと入った。
頼朝の一行は、予定通りに富士野の巻狩を楽しんだ。その間も、佑成たちは仇討ちの機会を狙っていたけれど、さすがに将軍の行幸ということだけあって、周囲に侍る御家人たちもいつにも増して神経質に辺りへと気を配らせていた。
そして、とうとう巻狩の最終日がやって来た。曾我兄弟は、夜討ちを決めた。
夜は更け、辺りはすっかり静寂に包まれいた。
佑経は、遊女を呼んで酒宴に興じていたらしく、屋形は遅くまで嬌声と明かりに包まれていた。
佑成と時宗は、頭を突き合わせて屋形の様子を確かめ合い、仇討ちに備えた。微かな興奮がふたりの緊張を皮肉にも和らげる。最期の盃を交し合い、そのときを待った。
両脇が大きく開いた白い帷子に、黄色の大口袴を纏うと、佑成は足捌きをよくするため、その裾をびりびりに割いた。その下には虎が着ていた綾の小袖を着て、更にその上には群千鳥の文様が入った直垂を重ね、襷をかけた。
烏帽子懸けの緒をきつく締め、赤銅作りの太刀を佩くと、嫌でも身が引き締まった。隣を見やると、同じように身支度を整えた時宗が誇らしげに笑った。その腰には、兵庫鎖の太刀を佩いていた。
「いよいよだ、兄上」
頬を昂揚で赤く染めながら、時宗は言った。
その声は、喜びと興奮と、そして微かな不安で小刻みに震えていた。――しかし、ふたりが屋形に忍び入ると、そこにいるはずの工藤祐経の姿はなかった。
「……佑経は、何処だ……!?」
郎等たちも狩りの供に疲れ果て、或いは酒に酔って大鼾をかいて寝入っている。
呆然と佇むふたりのに気付く者は、幸いにもいなかった。
「まさか気付かれたのだろうか、兄上……」
「……いや。ここは、侍所が近い。鎌倉殿の宿直に参上しているのだろう」
時宗の手を引き剥がし、佑成は駆け出す。
屋形の縁側から飛び降り、侍所の外廊の上に上る。掛け金のかかった妻戸を力任せに破り、時宗を引き連れて部屋へと雪崩れ込んだ。佑成の思った通り、そこには、遊女と共に褥を並べた祐経の姿があった。噎せるような酒の匂いが鼻を突いた。
(これが、父上の仇だというのか……?)
その醜態に、すっと血の気が引いていく。
込み上げる吐き気を堪え、刀を振るう。赤い飛沫が、部屋を鮮やかに染めた。
「ぬっ……!?」
肩を刺されて起き上がった祐経が、慌てて傍にあった太刀を取って応戦しようとする。
佑成は躍り出て、迎え撃つ刃をはっしと打った。時宗も興奮気味に、仇である男の身体へと刀を叩き込む。佑成の心は、この期に及んでも、冷え切っていた。
(このために、このためだけに、わたしたちは、生涯のほとんどを捧げてきたというのか?)
祐経の血を吸った太刀が、急に重たく感じた。
そのことに、喜びも、興奮も覚えない。堪らなくなって、佑成は縁側へと走り出した。
ただ、叫びたかった。虚しくて虚しくて、何もかも吐き出してしまいたかった。息が詰まって苦しかった。この突きつけられた現実を、嘘だと信じたかった。
「かねてより、噂には聞いていただろう! 今は、その目でとくとご覧になられよ!」
夜の闇に、佑成の声が孤独に響き渡る。
「伊豆国の住人伊東次郎祐親が孫、曾我十郎祐成、同じく五郎時宗兄弟が、将軍家の陣内をも憚らず、親の仇・工藤祐経を討って躍り出た! 我こそはと思う者、我らを討ち留めよ――っ!」
だが、どれだけ待ってみても、その声に応えてくれる者はいない。それが、さらに祐成の心を冷たく抉った。
「なぁ、時宗……これが、わたしたちの宿願だったというのか?」
静寂の闇の中、佑成は問いかける。
血染めの袴から伸びた脚が、ガタガタと震えた。
「誰も、我らに応えるものはいない。この隙に、もう一度だけ、母上にお逢いして、さらに逃げ延びることが出来たなら。どこかの山野の奥に引き籠って、静かに念仏をして、そして自害を……」
「――何を呆れたことを仰るのです、兄上」
顔を上げると、時宗がぴんと背を伸ばし、真っ直ぐとした眼差しで佑成を見ていた。
「ここを逃れたからと言って、何処までも逃げ切ることが出来ないのは、兄上もご存知でしょう」
「時宗……」
そこに、佑成が抱くような迷いは微塵もなかった。
彼だけがひとり、覚悟を決めていた。
「それに。たとえ、万が一、逃げ延びたとしても、我々の死は免れない。それよりも恐ろしいのは、途中、田舎の無頼者の手にでも掛かって、無様に死ぬことです。しかるべき侍たちと打ち合い、名を後代にまで残し、屍を将軍家の陣内に曝してこそ、我々の本意を遂げるということだ」
腰の太刀を打ち鳴らし、時宗は振り返る。
「兄上、行きましょう。誰も応えてくれないのなら、我々から出向くまでです」
なおも強い光を目に宿したまま、時宗は得物の重さを感じさせぬ足取りで、兄の前へと躍り出た。
その後ろ姿に、佑成は息を零した。弟の背中が急に遠いもののように感じた。
(時宗。お前は、それしか知らないのだな……)
ふらり、と一歩を踏み出す。弟を責めることは出来なかった。
母と引き離され、ひとり箱根の山へと入った時宗にとって、その心の支えは兄と誓った「仇討ち」だけだったのかもしれない。それだけが、孤独な少年の心を慰めるものだったのだ。家族との、唯一の繋がりだった。
母に勘当されてまで仇討ちを望み続けた彼には、兄のような、他の未来を描くことなど出来ないのだ。
母が吐き続けた、あの呪いのような望みを果たすことだけしか……それ以外の生き方を、時宗は知らない。
「御陣に夜討ちが入ったというのに、誰も気付かないとは、無下なる侍どもめ! 伊東次郎祐親が孫、曾我十郎祐成、同じく五郎時宗が、親の仇を討って出たのを知らないか――っ!」
今一度、大声を張り上げれば、騒ぎを聞きつけ、屋形から次々と人影が飛び出してくる。
「各々方、曾我の兄弟を討ち捕らえよ!!」
その声を合図に、御家人たちが佑成たちへと一斉に向かってきた。
兄弟たちも、それに応戦した。時宗は容赦なく太刀を振るい、対峙する青年の肩を切る。佑成を討とうと躍り出た男は、太刀の柄を握りなおしたところで、その指を二本落とされ退却する。
彼らに続き、兄弟たちを次々と新たな手勢が迎え撃つ。しかし、死を覚悟した時宗たちに恐れるものなどなかった。日頃の鬱憤を、これまで押し込められた怒りを晴らすかのように、鮮やかな手付きで、四方八方より突きつけられる得物を跳ね除けた。
闇に鮮やかな、紅い色彩が辺りを染める。む……っとした熱気が、彼らの頬を撫でた。それを宥めるように、ぽつりぽつりと空より雨粒が落ちる。
頃は五月二十八日、夜半過ぎのこと。次第に雨は激しくなり、ただでさえ暗い視界を曇らせていく。何より、もう何人の御家人たちを相手にしたかも分からない状況で、兄弟ふたりの体力は限界に近づいていた。
「っ、……くそっ……!」
血塗れた太刀も、もう、彼らの攻撃をかわすだけで手一杯だった。装束を、更に重たく雨が濡らしていく。それでも、彼らは戦い続けた。
そんな兄弟たちに、最初は恐れをなして逃げ惑っていた兵たちも、次々と立ち向かう。松明の灯りが焚かれ、小さな戦場をゆらゆらと濡らした。
「我の名は、新田四郎。曾我十郎佑成殿とお見受けする!」
「いかにも」
夜をも吹き飛ばすような声を上げて、ひとりの男が佑成の前へと進み出る。彼の名乗りに、佑成は大きく息を吸い込み、震える手に力を込めた。その視線の先では、今もなお、時宗が疲れを悟らせない様子で戦っていた。
だから、佑成も笑む。疲れを押し込め、にやりと口の端を歪めた。
「夜は更けたが、まだまともな敵に会わない。そなたのような者と戦うことを願っていた!」
肩で息をしながら、佑成は声を張り上げ、叫んだ。
激しく刃がぶつかり合い、火の粉を散らす。
佑成は長い太刀で躍りかかって打ち、まずは相手の鬢を、次いで右腕の肘から先を斬った。だが、新田も優れた兵であり、それしきの怪我で怯むことはなかった。ふたりの打ち合いは互角にも見えた。
「……っ、……は……」
けれど、佑成の体力は既に限界を超えた。太刀を握ることさえやっとであった。
それに加えて、赤銅の太刀の柄についた血が、彼の手を滑らせた。
「っ」
ぐっと拳を握りしめ、何とか太刀を薙ぐ。その隙を見逃さず打って出た新田に対抗しようと、祐成が足を踏み出した――そのときだった。
御免、という第三者の声と共に、右肘の外れに衝撃が走る。太刀捌きが乱れたところを、すかさず新田が切りつけた。瞼の裏が赤で塗り潰される。
(――もう、これまでか)
佑成は、自分の最期を悟った。
もう立ち上がることすら出来なかった。けれど、彼にはまだ成すべきことがあった。血で詰まった喉をげほげほと鳴らし、それでも、彼は力の限りに叫んだ。
「五郎、五郎はいないかっ。……祐成は、新田四郎の手に、かかって討たれた……!」
本当は、何処へでも逃げろと思った。
祐経を討った今、自分たち兄弟の大儀は果たされたのだから。
けれど、弟はそれを拒むのだろう。祐成のように、このまま何処までも逃げて「生きたい」とは、思わないのだろう。思うことすらも、彼は拒むのだろう。
見事、仇討ちを成し遂げて、兄と共に同じ場所で果てていく――それが、弟の望む終焉。
「もし、まだ……手負わぬ、の、ならば……」
だから、祐成は最後の力を振り絞る。
最期くらいは、彼の望む兄を演じてみようと思った。
「鎌倉……どの、の……御前、へ……はい、え、っ、…………を……――」
己が流した血溜まりの中、空へと掲げた腕がどさりと落ちた。
白袴が見る見るうちに同じ色へと染まっていく。その上にも、雨は優しく降り注ぐ。甘く香る銀糸は、彼女の白い指に弾かれる琴の弦を思い出させた。
(虎女、虎女。わたしを想って、あなたはこの雨のように泣いてくれるだろうか……)
ゆっくりと、意識が遠のいていく。
赤の咲いたその口許には、雨では流しきれない仄かな笑みが浮かんでいた。




