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三、別れの途

 そんな中、兄弟たちは、工藤祐経が頼朝の富士野の巻狩に付き添うことを耳にした。

 これまでも、何度も機会を伺っては佑経を狙って来た佑成たちであったが、大儀は未だに果たせずにいた。気付けば佑成は二十二、時宗は二十歳を数えていた。心の何処かで焦りを感じていた。

「この機会を逃しては、もう二度と、あの工藤祐経を討つ機会は巡って来ないでしょう」

 その知らせを受け、真っ先に声を上げたのは時宗の方であった。

 熱に浮かされたように、彼は力強く兄の目を見る。

「兄上。今こそ、我々の大儀を果たすときです!」

「そうだな。もしかすると、これが最後の……佑経を倒す、絶好の機会になるかもしれない」

「っ、はい!」

 佑成の言葉に、時宗は興奮に顔を赤くしたまま頷いた。図体ばかりは大きいのに、その様はまるで子供のように無邪気で、そして真っ直ぐだった。

 だが、弟の喜びようとは裏腹に、佑成の胸中は驚くほど冷め切っていた。

(そこに、本当に大儀はあるのだろうか)

 平家の時代であれば、伊豆や駿河で人を討っても、武蔵、相模、安房、上総へでも逃げ越えてしまえば、やがて月日がその罪を有耶無耶にしてくれた。

 だが、時代は変わった。

 諸国には幕府に恩賞を頂く御家人たちが配置され、咎人が何処まで逃げようとも、探し出されてしまう。たとえ、それが父を殺めた佑経への、正当な復讐だったとしても。仇討ちの先にあるのは「死」だけだった。

 それでも良いと、思っていた。むしろ、武士の誇りですらあると信じて疑わなかった……はずなのに。

(情けない、な)

 佑成は、自嘲気味に笑った。一体、いつからだろう。その決意に、疑問を持ち始めたのは。

 母の言葉を身に浴びながら、せめて、十五になったなら父の仇を取ろうと決めた。それなのに、実際はこの様だ。戦うことが怖いのか、謀叛人として斬首されるのが怖いのか、あれほど願った大儀の瞬間を目の前にしても、彼の心はもう勇まなかった。迷いだけが、佑成の心を黒く塗り潰す。

 自分は、弟のようにはなれなかった。



 その日は、大磯の宿にではなく、曾我の屋敷に虎女を呼んだ。急な出迎えにも関わらず、虎女は少しの荷物だけまとめると、嬉々として佑成の馬へと飛び乗った。

 曾我に着くと、彼女は物慣れた様子で屋敷へと足を踏み入れる。狭い部屋をくるくると動き回り、佑成が止めるのも聞かず、自ら彼の食事や着替えを手伝う。

 そして、すっかり支度が整うと、愛しい男の袖に自らの腕を絡めた。彼女の可愛らしい我侭に応え、その甘い香りを堪能したあと、祐成は小さく微苦笑を零した。

「急な話で悪いのだが、直垂と小袖を縫ってはもらえないだろうか」

「佑成さまの、ご装束を?」

 不思議そうに首を傾げ、虎は佑成を見上げた。

 濡れたような眼差しに、男の姿が映し出される。動揺を悟られないよう、一口だけ息を呑んだ。

「……恥ずかしい話だが、他に気軽に頼める人もいないので」

 そう言うと、彼女は一瞬だけ考えるような素振りをして、けれど、すぐにこくりと頷いた。

 ほんのりと染まった頬を緩ませ、困ったように笑う。

「でも、どうしましょう。思ったよりも下手だったと、嫌われてしまったら……」

 そう言いながらも、彼女は喜んで彼の頼みに応えた。

 白い指が、器用に針と糸を動かし、綻んだ装束を繕っていく。目を伏せた彼女の長い睫と、柔らかな笑みを灯した朱唇を見つめていると、心が騒いだ。

(こうして、彼女に衣装を縫ってもらうことも、これが最後になるのだ)

 胸中に、ふつふつと湧き上がる熱情が、押し殺していた感情をも引き上げる。

「佑成、さま……?」

 その視線に顔を上げた虎女は、驚きに目を見開いた。言葉もなく、佑成が静かにその頬を涙で濡らしていたのだ。

「どうなされましたか。いつもより、物思いにわたくしをご覧になって、お泣きになるなんて……どなたか、何か思ってもみないことを告げ口して、お聞かせにでもなられたのですか?」

 顔をぽっと赤く染めて、愛らしい声で彼女が尋ねる。

 自分が佑成以外の男を通わせていると、誰かが噂しているのではないか――そんな愚かな勘違いさえ、愛しかった。

「そうでは、ないよ」

「そうですか? それなら、良いのですけれど……」


――でも、何となく恐ろしい。


 ぽつりと落とされた呟きに、佑成は「悟られた」と思った。

 涙を抑え、彼女の眼差しから逃れるように胸の内を騙り聞かせた。心音が、少しざわついた。

「僧に……僧に、なろうかと思って」

「僧、に……?」

「出家して、父の後世を弔おうと、思ってね。僧になったら、わたしは、もうこの曾我の里へも帰ってこないだろう……虎女に逢うことも、今日限りだと思うと哀しくなるのだ」

 仇討ちのことを話してしまったら、佑成の母に打ち明けてしまうかもしれない。

 弟の言葉を借りれば、女という生き物は情に流されやすいという。ゆえに、どれだけその姿に憐憫を覚えても、長年、秘めてきた大儀のことを打ち明けるわけにはいかなかった。

 そう自分に言い聞かせながら、佑成は唾液と共に込上げる苦さを何度も呑み込んだ。胸中に沸き起こる、疑問さえも、流し込むように。

「……わたくしが尋ねなければ、仰って下さらないつもりでしたのね」

 虎女が、消え入りそうな声で彼を詰った。

 彼女の涙が、雨のように手元の装束を濡らす。

「わたくしは遊女で、賤しい身分だから、人並みの女には数えてもらえないでしょうけれど……もう、あなたに通って頂いて、三年になりますわ。今更、恨み申し上げることはありません。本当に、そのように決心なさったというのなら、わたくしも共に髪を下ろしましょう」

 自身の豊かな髪に指を絡め、彼女はふわりと微笑む。

「髪を剃り、あなたとは別に庵を建てて、佑成さまの袈裟や衣を洗い、佑成さまが薪をお取りになるなら、わたくしは花を摘んで、同じ極楽浄土に生まれる(えにし)とします」

「虎女……」

「あなたが出家なさったあと、こんな姿のまま、俗世に居続けることなどありませんわ」

 涙に濡れた、けれど一片の迷いすらない虎女の双眸に、佑成は嗚呼と声を漏らした。

 感情を押さえ込めていた堰が、音を立てて崩れ去る。僅かでも疑った自分を、愚かだと思った。

「――あなたには負けるよ……」

 虎女は賢い。時宗などは、賤しい遊女だと侮蔑するかもしれないが、彼女は思慮深く、分別もある。

 何より、佑成にはその真心を裏切ることなど、到底出来そうにはなかった。

 濡れた瞳を瞬かせる彼女の白い御手を取り、佑成はその目を真っ直ぐと見つめる。

「あなたを騙そうとしたわたしを、許して欲しい。虎女、あなただけには、本当のことを話したい……母上にも、誰にも口外しないと誓ってくれますか」

「……はい。誰にも、口外致しません」

 彼女が慎重に頷くのを確かめたあと、佑成は虎女に語った。

 己の父が工藤祐経に討たれたこと、その敵討ちを望んでいること、そして、このたびの富士野の巻狩でその宿願を果たそうとしていること。

 じじっ……と、揺れる灯台と、愛しい男の眼差しが彼女の言葉を待つ。千の言葉の代わりに、閉じたふたつの眼からぽろぽろと涙が零れ落ちた。

 そんな彼女の姿に、胸の奥へと押し込めていた願いが音もなく浮き上がる。

(……このまま、仇討ちを諦めてしまえたら)

 仇討ちなど果たさずに、このまま虎の元へと通いながら……もし願わくば、彼女を家に迎え入れることが出来たなら。子を儲け、育み、母や義父に孫の顔を見せてやる。そんな平穏を望んでも良いのではないか、と。

 一度浮かんだ明るい未来は、佑成の惑う心を甘く揺さぶる。だが、それは同時に弟を裏切る行為でもあった。

「わたしは、怖いものだらけだな」

「佑成さま……」

「最後まで、こんなに情けないわたしでは、あなたに愛想を尽かされてしまうだろうか」

 己の感情に板ばさみにされたまま、佑成は縋りつくように虎の手に触れた。その震えを慰めるように、ぬくもりが指を絡め取る。彼女は何も言わず、ただ自分の熱を分け与えるように彼へと身を寄せた。

 その無言が、今はどんなに美しい別れの言葉よりも、彼の心を慰めた。


 最後の逢瀬になるかも知れないというのに、夏の夜は無情にも短く過ぎる。

 白み始めた空は朝の到来を告げ、名残惜しむ(いとま)も与えずふたりを切り裂いた。

「どうぞ、形見になさって。我が身から離さないで」

 そう言って、虎女は自身が纏っていた綾の小袖を手渡した。

 彼女の残り香が胸を突いた。

「行かないで、と、泣いて引き止めてはくれないのですね。……少しだけ、寂しい」

 冗談っぽく佑成が言うと、虎女は微かに笑った。

 彼女の白い指が、彼の頬を這う。涙に濡れた瞳のまま、虎女は妙に大人ぶった顔で囁いた。

「本当は、袖に縋りついてでも、お止めしたいですわ。恨み言だって、あとを絶ちません……けれど、大儀を止める女は、お嫌いでしょう?」

 まろやかな四肢が、(しん)の上に熱を重ねる。

 朱唇から零れる甘い吐息が、静かに、彼を責めた。

「お慕いする殿方に好かれるためならば、女は必死になって、本心さえ繕うものですのよ?」

 そう言って、彼女はまた少しだけ泣いた。

「……もう少し、傍にいたい。……そこまで、見送らせて欲しい」

 その言葉に嬉しそうに頷く彼女を抱き上げ、美しい貝鞍を置いた葦毛に乗せる。

 大通りは避け、人の行き来の少ない中村通りへと出る。馬の歩くのに任せて道を行けば、曾我と中村の境にある山彦峠に出た。北に不動山、南に高山を望むその峠には、点々と大きな松の木が植わっている。

 曾我の人々は、六本松峠と呼んでいた。懐かしい曾我の里が、ふたりの眼下に広がる。実を成した梅の香りが、朝の風に漂い鼻腔を撫でる。

「この馬は、あなたに差し上げるよ」

 名残惜しさで足が止まらぬように、佑成は少し早口で告げる。

 彼らの心中を真似るように、五月下旬を数えた空は何だか憂鬱な色をしていた。ふたりを見守る山の木々も、暗く沈んだ葉擦れの音を響かせる。

「三年間、この鞍と、この馬で、大磯にいるあなたの元へと通い続けた。どうか、わたしの形見だと思って受け取って欲しい」

「佑成さま……」

 別れの涙に、頬を濡らし合う。

 いざ別れを告げようにも、何度も、何度も足を止めては、互いの姿を見つめ合う。言葉すら、出なかった。しかし、ゆるゆると昇る朝陽に、佑成は涙を抑えて手綱を離した。

「あなたの言葉が、嬉しかった。あの言葉のように、同じ浄土に生まれ変わって、再会することを願っています」

「祐成さま。……祐成、さま……っ」

 涙に噎び泣く彼女を乗せ、馬は何もかも察したように、静かに走り出していく。袖を押し当て、それでも眼差しは愛しい男を振り返り、振り返り、しかし次第に彼女の姿は遠くなっていった。


 その姿を見送りながら、朝陽の中で、佑成は声を押し殺して泣いた。



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