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二、傾城

 曾我十郎祐成は、伊豆国の住人、伊東次郎祐親の孫である。

 当時、伊豆では、祐親とその親族である工藤祐経(すけつね)との領土争いが起こっていた。長きに渡る両家の争いは、あくる日、とうとう祐経による祐親暗殺へと発展する。だが、郎党を使い、狩猟を楽しむ祐親を狙って放たれた矢は、当初の目的を外れて息子の祐通(すけみち)へと命中した。

「祐通さま……どうして、どうして……っ……」

 突如、夫を奪われた妻は、残された幼い息子たちを膝に乗せて泣き崩れた。悲しみに咽ぶ涙は、やがて禍々しい怨嗟へと移り変わる。

「わたくしは、祐経が憎い。だから、お前たちがこの母を想ってくれるなら、どうか二十歳になるその前に……一刻でも早く、わたくしに、祐経の首を見せておくれ」

 まるで、呪うように彼女は言った。

 上品な陰をまとった美しい目許は、そのときばかりは、酷く暗い色彩に彩られていた。泣き腫らした目は熟れた柘榴のように赤く、音もなく流れる涙は血の色をしていた。貴船の鬼女にも勝るその姿に、少年の心は黒く震える。


 こんな母など、知らない。

 祐経が、母をこんな姿にした。――祐経が、父の仇が、憎い。


 だから、せめて十五になったなら、仇を討とうと決めた。亡き父の、敵討ちを。

 二所権現、三島大明神、足柄、富士浅間大菩薩、特には(うじ)の大明神、力を合わせて()び給えと、冷たい父の亡骸に縋り付きながら、五歳の少年は復讐を誓った。

 母の再婚相手である義父の庇護を受けながら、いつ何時でも、その想いを抱き続けた。

 年頃になると、父が生きていればと何度も願った。武勇で名を馳せた父さえ存命ならば、馬の操り方を教わり、弓矢の扱いを学び、思うままに物を射ることも出来ただろう。そう思うと、祐経への憎しみは益々、募った。


「――……何を、考えておりましたの?」


 暗い淵に落ちた佑成の意識を、甘い女の声が掬い上げる。

 はっとして声の主を見返せば、まるで幼子を咎めるような優しい眼差しと目が合った。

虎女(とらめ)……」

 呼び慣れた女の名を、呟く。

 強張っていた両肩から力が抜け、佑成はくたりと苦笑した。

「すまない、昔のことを考えていた」

「まぁ、そうでしたの」

 涼しげな浅葱色に袖を通した彼女は、うっすらと化粧を施した口許を綻ばせた。

「でも、わたくしといるときは、わたくしだけのことを想って下さいませんと……妬んで、しまいますわ?」

 その表情は、佑成よりも年下だというのに、妙に大人びた甘さを漂わせている。それは、既に一人前の女の顔をしていた。

 何も言えない恋人の様子に、虎女はそれ以上、深く追求することはしなかった。ただ、甘えるようにそのあたたかな四肢を撓垂れかける。誘われるように、佑成も顔を傾けた。

 綻ぶ唇を啄ばめば、蜜のような唾液が絡み合う。既に何杯目かの濁り酒を呷った身体は、彼女の肢体と、焚き染められた香にくらくらと酔いしれた。

 堪らなくなって、その白い首筋に顔を寄せると、彼女は声を上げて笑った。それは他の遊女たちのような艶かしい嬌声ではなく、くすぐったさに身を捩る、幼い童女のような無邪気な笑い声であった。

(……やれやれ、こちらの気も知らないで)

 ころころと表情を変える彼女に微苦笑を零しながら、佑成は優しい手付きで艶やかな黒髪を梳く。虎女も、甘えるように腕を伸ばし、男の髪をくしゃりと弄った。

 小田原の宿(しゅく)酒匂(さかわ)国府津(こうづ)、渋美の宿、小磯、平塚、三浦、鎌倉に至るまで、一通りの宿へ通った佑成だったが、彼女のような女に出逢ったことはなかった。

 虎女、或いは虎御前と呼ばれる少女は、傾城――東海道のひとつ、大磯の宿に侍る遊女であった。



 虎女の母は、平塚宿の遊女であった。その名を、夜叉王といった。

 父の名は諸説あるものの、ある一書には宮内判官家長だと伝えられている。五歳のときに父が死に、母御前の傍で暮らしていたが、幼いながらも美しい顔立ちの彼女は、大磯宿の長者・菊鶴に望まれ、引き取られた。

 東海道の駅には、それぞれ遊女宿が立ち並んでいる。その宿主であり、多くの遊女たちをまとめあげていたのが「長者」と呼ばれる女性だった。彼女らもまた、元々は、遊女として旅人たちをもてなした芸能者である。その元で養育された虎女は、まるで早咲きの桜のように、瞬く間にその才能を開花させた。

 虎女はその美貌だけではなく、和歌の道に秀で、また『源氏物語』や『伊勢物語』にも通じる教養を持っていた。才色兼備で心栄え優れた遊女とくれば、男たちが放っておくはずもなく、幕府の恩恵を受けた御家人たちは競うように彼女に金を投じた。

 けれど、彼女が愛したのは、決して裕福でもない、下級武士にしかすぎない曾我佑成であった。

 虎女はただ、彼を一途に愛した。そして、佑成もまた、彼女を妻のように大切に想った。佑成が一月に四、五度、十度も通い詰めても、虎は一度として嫌がる素振りも見せず、その関係は三年も続いていた。


「――まさか、あの遊女を引き取りたいなどとは、申しませんよね?」


 佑成の意識を、固い声が掠める。

 その声に、着替えの小袖に腕を通したまま、振り返る。そこには、兄の背を睨むようにして問いかける弟・時宗の姿があった。

 今年で二十歳を迎える体躯は、同じ年頃の男たちと比べても大柄で逞しい。凛々しく生え揃った眉は太く、精悍な顔立ちをしていた。

「お前は、虎女が嫌いか」

 佑成は問いかける。その口調には、隠し切れない苦笑が混じっていた。

「虎女は、優れた女人だ。……お前も、間近で見てそうは思わないか?」

 まるで、身に添う影のように、時宗は大磯へ通う兄に付き従っていた。虎女とも、何度か言葉を交し、その姿を間近に見ている。だが、時宗は頑として首を縦には振らなかった。

「遊女は、遊女。所詮、大勢の男たちに媚を売る、賤し女でございます」

「……お前は、相変わらず頑固だな」

 けれど、祐成は特に気分を害するでもなく、からからと笑った。

 そんな兄の様子に、時宗はこっそりと下唇を噛んだ。口内に苦い鉄の味が広がる。

(兄上は、もう、仇討ちを望んではいないのだろうか……)

 父が亡くなった当時、数え三つだった時宗も、人の語るのを聞いて父の無念を知った。成長していくにつれて、その憤りは増幅する一方だった。或いは、幼き日より復讐を心に誓った兄よりも、その思いは強固であった。

(俺が、お山に籠もっている間に、兄上は変わってしまった? 復讐を望み続けたのは、俺の独り善がりだったのか?)

 幼い頃、母や屋敷の者たちの目を盗み、父の仇を夢見て語り合った日々が、まるで虚像のように遠い。母の膝に乗せられ、厭魅のような言霊をその身に浴びた兄の目は、いつだって、仇を想っては血に燃えていた。それなのに、貧しい暮らしが兄の血肉に宿った闘志さえ、腐らせてしまったと言うのだろうか。

(そんなはずが、ない。兄上だって、今でも仇討ちを望んでいるはずだ……俺と、同じように。あの遊女が、それを惑わせているだけなんだ)

 時宗はそう信じて疑わなかった。全ては、あの賤し女が悪いのだと。

 彼は兄よりも、虎女を疑った。


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