一、雨宿り
さめざめと、宵を濡らして雨が降る。
時は、陰暦五月二十八日。辺りはすっかり暗くなり、女の嘆きのような雨音が空気を澱ませる。
(これは、止みそうにないな……)
夕刻までには、目的の宿へと辿り着くと踏んでいたのだが、険しい街道は思ったよりも彼の足をもたつかせた。
男の息は既に上がり、足は鉛のように重い。それに加えて雨まで降り出したものだから、すっかり気力も奪われてしまった。浅葱色の直垂もぐっしょりと濡れ、寒々しく項垂れる。
今晩は、このまま雨が止むことはないだろう。この辺りで、一夜の宿を探す必要があった。
けれど、逸る思いのまま、慣れない旅路を急いだのが災いした。最後に宿所を目にしたのは、もう随分と前のことだった。今、青年を取り囲むのは、山から立ち昇る霧の合間に見え隠れする鬱蒼とした木々ばかりである。
(引き返すしか、ないか?)
だが、苦心して登ってきた道は濃霧に塞がれ、無情にも青年の退路を断つ。
額に落ちた乱れ髪を掻き揚げ、舌を打った。
度重なる不幸が、彼の心を苛む。まるで、今、その身を濡らす雨粒のように、世の流れは容赦なく青年を呑み込んでいた。
源頼朝によって開かれた鎌倉幕府の血筋は、血族同士の争いにより、僅か三代にして途絶えた。
それを好機とばかりに、朝廷が幕府討伐のために立ち上がったのが約一年前のこと。世にいう承久の乱である。けれど、乱は呆気ないほど簡単に鎮圧された。夢幻、いや、都にとっては悪夢のような、たった一ヶ月の戦だった。
だが、それから世の中は大きく変わった。
乱を首謀した後鳥羽上皇は隠岐へと流され、幕府の手の元、名ばかりの新しい帝が玉座に立った。
京方の公家、武士の所領も尽く没収され、代わりに、幕府方の御家人たちへと分け与えられた。幕府の支配は西国にまで及び、財を失った京方は叛旗を翻す余力もない。
今ではすっかり幕府の、北条家の時代だ。朝廷さえ、今や帝ではなく、執権の顔色を伺っている有様だった。
――腐っている、何もかも。
鬱々とした想いに、青年は奥歯を噛み締めた。頬を打つ雨が、それを更に陰湿なものへと変えていく。
だが、絶望に打ちひしがれる彼の目に、小さな希望の光が掠めた。
田村の大道と中村通りの交わる桑原を越え、更にそこから渋美(現在の神奈川県二宮町)へと向かう途中に、ぽつりと赤い炎が見えた。
朽ちかけた立て札には「曾我」の名が刻まれている。青年は、安堵の息をついた。
(助かった……)
雨に濡れた重い足取りも、何だか軽くなったような気がした。
ぱしゃり、ぱしゃりと、音を立てて走り出す。
それは、小さな草堂だった。
質素な造りの門前には、見事な毛並みの葦毛が繋がれており、賢そうな面構えの背には美しい鞍が乗せられていた。見るからに、名のある武士の持ち物であることが見て取れた。
その絢爛な造りに少しの躊躇いが過ぎったが、このままこの霧深い山道を彷徨う災難を思えば、そんなものは些細な障害でしかない。意を決し、馬の横を通り抜けて戸を叩く。
「――はい」
しばらくして、男に応えるものがあった。
それは彼の予想に反してやけに甲高い――若い女の声であった。
(下女、か……?)
だが、深く考える間もなく、引き戸が内から開かれる。ゆらり、と鈍い炎が男の目を焼いた。
手燭を片手に現れた女は、室内だというのに大きな市女笠を被っていた。
笠からは薄い垂絹が下がり、女の姿を覆い隠す。幾重にも重ねた衣を引き上げ、腰の辺りで結い上げたその姿は、壺装束と呼ばれる女の旅姿であった。その名の通り、見た目は壺の形に良く似ている。
「……このような時刻に、何か御用でしょうか」
彼女が首を傾げると同時に、ちりり……ん、と笠の紐に結ばれた鉄鈴が涼やかな音を立てた。
髪に焚き染められた香が、柔らかに漂う。
「申し訳ないが、一夜の宿を頼みたい。主人に、取次ぎを願えるだろうか」
男のずぶ濡れた姿を上から下まで眺め、女は「まぁ……」と同情的な声を上げた。しゃらり、と袖が鳴る。
「普段、人に預けてはおりますが、わたくしがここの主でございます。なにぶん、狭い庵ですから、大したおもてなしは出来ませんけれど……それでも宜しければ、どうぞお上がり下さいませ」
細い指が闇を指し、彼を誘う。
笠の下で女が微かに笑ったように思えた。
女に案内され、部屋へと上がり込む。
彼女の言う通り庵はさほど広くはなかったが、必要最低限の調度品だけが置かれた室内は、良く片付けられていて圧迫感もなかった。
彼女が燭台へと火を移すと、淡い光が満ちる。無人の部屋に人の気配が宿った。
「どうぞ、ご自分の家だと思ってお寛ぎ下さい」
女に促され、青年は腰を下ろす。
その前に、赤々と焚かれた火桶が置かれた。雨で冷えた身体に、じわりと幸福感が広がる。
「わたくしのことは、どうぞ、御前、とお呼び下さいませ。皆、そのように呼んでおりますわ」
音もなく、「御前」は青年に白湯を差し出した。
ゆらりと立ち昇る湯気を辿ると、いつの間に笠を脱いだのだろう、彼女の顔が目の前にあった。
(旅の尼、だろうか……)
身に纏った薄汚れた衣は、墨染めのように見えた。豊かな髪も、肩より少し長い程度で切り揃えられている。
しかし、短い黒髪が縁取る面は浮かび上がるように白く、赤い花のように美しい唇も、夏に咲く蓮花のように清らかで涼しげな目許も、仏に仕える身にしては酷く艶かしい。その姿は、まだ二十歳にも満たず、世を嘆き捨てるにはあまりにも若すぎるように思えた。
くたびれた旅装束の胸元には、鮮やかな色の布で作られた袋がかけられている。守り袋にしてはやや幅の広いそれに縋るように、女の白い指が、撫でたり握ったりを繰り返していた。
青年の視線に気付くと、彼女は誘いかけるように微笑む。男を惑わす、魔性の笑みだった。
(いや……遊女、か)
その笑みに、言葉にならない不快感が胸中を満たした。
だが、青年の素直すぎる視線を受けても、彼女は小さな微笑みを口の端に乗せるだけだった。
「……今宵は、雨が止みそうにありませんね」
気まずい沈黙を破るように、御前がぽつりと呟く。
艶かしい白い素足を晒し、彼女の裾が鳴った。身構える彼の前で、彼女は壁に立て掛けていた黒い塊を引き寄せる。それを大事そうに、ぎゅっと抱きしめたあと、彼女の手が包んでいた布を暴いた。
それは、木を刳り貫かれて作られた一本の琴だった。伏せた睫が、か細く震える。
「こうして、今日という日に出逢いましたのも、何かのご縁。雨宿りの暇つぶしに、ひとつ、昔語りをお聞かせ致しましょう……」
ぽろん……と、彼女の白い指が弦を弾く。
外から聞こえる雨音が、御前の声に耳を傾けるように、小さく鳴りを潜めた。
――然るに、何ぞ、伊豆国の住人伊東次郎祐親が孫、曾我十郎祐成、同じく五郎時宗兄弟二人ばかりこそ、将軍家の陣内をも憚らず、親の敵を討って、芸を当庭に施し、名を後代に留めける……
そう言って、女は静かに語り始めた。




