蛇の目に出会うとき
目の前のデスクには自分の肩ほどまで高く積まれた書類の山。少し触れただけで倒れてしまいそうなそれはこれからこの書類にすべて目を通さなければならない大巌仁志の口から重いため息を引き出すのに十分すぎた。
日ごとに少しずつ高くなっていく。それは仁志へ対するほかの局員からの嫌がらせか、それとも実際に仕事が増えているのだろうか。おそらく後者だ。二十五という若すぎる年齢で『変異種対策局副局長』のイスに就いた仁志のことを妬む者も多くいるが、それでも彼の担当した事件とその解決策を知るものは少なからず彼を尊敬している。
本人もそれを自覚しているからこそ、一度は辞退したその役職についていた。
椅子に座り、サイン用の古めかしい羽ペンに手を伸ばす。作業の効率化が進んだ現代では滅多に使われなくなった高級品だ。
積まれた書類の一枚一枚に目を通し、サインをする。たったそれだけの単調な作業を二時間は続けただろうか。ノックの音とともに副局長の部屋にしては質素すぎる小さな部屋の扉が開かれた。
そこには先週局員になったばかりの若い男性が立っていた。
「副局長、『変異種』による事故が発生しました。お忙しいところ申し訳ありませんが少しの時間をいただけないでしょうか」
「分かりましたすぐに行きます」
仁志は間髪いれずに答えると椅子から立ち上がる。副局長に就任して一年、初めての『変異種』による事件である。
初めてと言うのは別に普段仕事をしていないのではなく、『変異種』の存在が根本的に少ないのだ。おまけに、『変異種対策局』は警察内の独立した組織なので、大抵は一般の警察業務や事務に時間をとられている。
変異種というのは、医療の進歩とともに生まれた副産物である。治療のために使われた『融合技術』。これは動物であり植物である再生力の強い生物を自己や病気などでその生命を失いそうな人間に移植するというもので、状況に応じて多種多様に利用されてきた。今となっては、老衰以外で死ぬようなことはまったくなくなったといってよい。
しかし、一見万能にも見えるその治療法にも欠点はあった。副作用も弊害もないと思われたこの技術、しかし移植された生物の遺伝子が子から子へと受け継がれ、何百年と言う時間をかけて人間の体に馴染んでしまったのだ。
そうして生まれてきた人間の中に、『異種』が現れた。異種と呼ばれる人間は体の一部がその生物のものになっていたり、その生物固有の力が備わっていたりする。
現代ではすでに人類のうち九割を超える人間が異種となった。
さらに異種の中でも特別なのが、ごくまれに現れる『変異種』である。彼らはまた特別で、突然変異と言ってもよい。たとえば、犬の異種として生まれたものが、何かをきっかけで満月を見て変身してしまう『狼男』となってしまうようなことである。『変異種』かどうかは大抵生まれつき決まっているという説が有力であるが、彼らは神話や御伽噺に出てくるものたちと同じ能力を持つことが多い。
つまり、社会に悪影響を及ぼす可能性が大きいのだ。
容姿は大抵ほかの異種と同じため、未然に彼らによる事故を防ぐことが出来ず、大抵は何か起こってから発見される。今回の件もその限りだろう。『変異種』により起こった事故は『変異種対策局』が管轄する。そして、その事件は副局長が担当することになっていた。別段そうと決まっているわけではないが、古くからの慣例である。
仁志は年若い局員に連れられて今回の件の当事者の下へと向かった。
「ここです」
彼が手を伸ばすと、機械によって管理されたセンサーが反応して自動ドアが開いた。
小さい窓から少し光が差し込むだけの狭い部屋。中央に置かれた灰色の机とそれを取り囲むようにして配置された三つの椅子が部屋の静けさを余計に感じさせた。
「…………」
「?」
静寂に紛れ、押し殺したような音が仁志の耳に届いた。耳をそばだてる。
すすり泣く声。おそらく、この声の持ち主はきっと今回の事故の張本人だろう。視界の端に映った暗い部屋の片隅に黒い塊がモゾモゾとうごめいているのが見えた。身の丈よりもかなり大きめのフードか何かをかぶっているのか。
「事故の詳細については机の引き出しの中に書類を入れてありますのでご確認ください。では、ここからは副局長にお任せします」
軽く頭を下げると、ここまでの案内役をしてくれていた彼は部屋を出て行った。
「どうも、ありがとうございます」
仁志は簡単に礼を言うと、手前にあった椅子に腰掛け、机の引き出しの中に入っている書類を取り出した。まずは状況を把握しなければ、目の前で泣いている相手にもどう対応していいか分からない。
取り出した書類は、書類という名に相反してたった一枚の紙にまとめられていた。しかも、一見した限り書かれている内容は相当少ない。
薄暗い部屋の中で、仁志は簡単に並べられた文字を目で追った――
『巳頭蛇子、十四歳。蛇の変異種である。神話にしばしば現れるメデューサやゴルゴンと同じようにその目を見たものを石に変える力を持つ。彼女が力に目覚めたきっかけは不明。自宅にて両親、友人と思われる人物の三名を石に変えてしまったことが確認されている』
――情報が少なすぎる。仁志はこめかみを押さえた。
歴代の副局長たちもこんな必要最低限も満たしていないような情報だけで職務をこなしてきたのだろうか。
しかし、目の前で泣いている人物が女の子であるということと、その泣いている理由については大方予想はついた。これ以上の情報は、直接彼女から聞き出せということだろう。
けれども、泣いている女の子というのは得てして声をかけずらいものである。仁志のような仕事ばかり黙々とこなしてきた男には女の子のご機嫌を取れるなどという甲斐性はなかった。
だが、これも仕事である。意を決して仁志は蛇子という少女に声をかけた。
「えーと、始めまして。僕はこの建物で働いている大巌仁志といいます。僕は結構老けて見えるとか言われるんですけど、まだ二十五歳なのでおじさんではなくお兄さんと呼んでくれてもいいですよ…………あ、すみませんね長々と一人で勝手に喋ってしまって、よければ貴女のお名前をお聞かせいただけただいいのですが…………」
長い静寂が続く。何とか聞き取れるのは鼻をすする掠れた音だけ。彼女はまだ気持ちの整理もついていないのだろう。しかしそれも当然だろう。
資料を見た限り、おそらく彼女は両親と友人を一度に失っている。おまけに今は知らない場所に連れてこられ暗く狭い部屋の中に閉じ込められているのとほとんど同じ状況なのだ。落ち着けという方が無理だろう。
「そんなに急いでいませんから、お話をするのは落ち着いてからで結構ですよ。僕も時間には融通を効かせられますから」
「……………………蛇子」
一瞬の間があいてから、黒いフードに包まれた彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。綺麗で澄んだ声だったが、今にも消えてこの狭い部屋の暗闇に溶けていってしまいそうなか細く弱々しい声だった。
「蛇子さんですか、せめてそのフードをとってお話しすることは出来ませんか?」
「駄目ッ!」
仁志が言い終わる前に、先ほどの弱々しい口調からは想像も出来ないほど強い拒絶の言葉が発せられた。
彼はフードをぎゅっと握り縮こまる少女の姿に困惑した。
「駄目! 駄目! 駄目! 絶対ヤダッ! アタシのせいでお父さんもお母さんも華もみんな石になっちゃったんだ! もう嫌だアタシは生きていたくない誰も不幸にしたくないアタシは生きていちゃいけないんだ!」
真っ黒なフードの上からでも分かる位、蛇子はその身体を折れてしまいそうなほど力強く抱きしめていた。恐怖。不安。絶望。いきなり身についた力への戸惑い。
彼女からあふれ出た負の感情は空気を伝わって仁志にも感じられた。
救ってやれる言葉なんて分からない。そんなものはどんなに考えたって見つからないし、そもそも彼女が救って欲しいと願っているかさえ……
「落ち着いたらお話しましょう」
それでも仁志はあくまで『お話』を求める。知ること以外には状況は進展も後退もしない。
「そうだ、目隠ししてお話しするというのはどうでしょうか。ちょっと窮屈かもしれませんが誤って目を見てしまうこともないし……かまいませんか?」
「でももし目隠しが取れちゃったら?」
「その時はその時です。第一、フードなんかよりよっぽど目を見てしまう確率は低いと思いますよ。それに、僕は貴女とお話がしたいんです」
「でも、話だけだったらフードの上からでも出来るじゃないですか。おじさんはもしかして自殺願望でもあるんですか? それともアタシの目の前で石になってあたしをもっと苦しめたいんですか?」
頑なに蛇子は首を縦に振ろうとはしなかった。かなり心も疲労してきているのだろう。ただ仁志が起きたのかを本人からただ聞きだそうとしていたなら、すべての言葉を無視されていてもおかしくはない。
けれど仁志は、『お話』をすることを目的とした。『相手の顔を見て話す』というのは彼の信念でもあり、たとえ相手がそれを拒否しても仁志はどうしても彼自身の信念を曲げたくなかった。
「僕は、『顔を見て話をすること』を信念としています。蛇子さん、顔を見て話すということは相手に自分の存在を許してもらうとって事だと僕は思うんです。目なんて別に見る必要ないんです。目を見て相手の心情を読み取ろうなんておこがましいことは親しい間柄だけで十分です。顔を見て、お互いにちゃんと相手の存在を理解してそこからやっとお話は始まるんですよ」
言ってから、柄にもなくいろいろ喋ってしまったなぁなどと仁志は赤面した。
「おじさん、変な人ですね」
「よく言われます。蛇子さんは僕がそんな変な人でも『お話』してくれますか」
「……分かりました。あと、目隠し用にアイマスクとか、なければタオルでも何でも目隠しの代わりになるものが欲しいんですけど……」
「いいですよ。少し待ってくださいね、持ってきますから」
■ ■ ■
蛇子の顔を覆い隠していたフードが取り払われた。手ぬぐいに隠しされた目。そしてまず目に付いたのは蛇の『異種』であるものたち特有の、髪の変わりに存在する何十もの蛇たち。大抵の場合、彼らの蛇は自由に動き回ったりしているものなのだが、彼女の蛇たちはおとなしくまるで本物の髪であるかのように重力にしたがって肩へと垂れていた。もうひとつ、一目で蛇の異種と分かる緑色の肌。蛇子のそれはとても薄い緑で、シミひとつもなく透けるような色をしていた。
造形もかなり整っていたのだが、ただひとつ彼女は人とも蛇の異種とも違う特徴を持っていた。
物語の中のエルフのような鋭くとがった耳。垂れた蛇に隠れてひっそりとその存在を主張していた。
「ふう……。これでやっとお話が出来ますね」
満足げに仁志は蛇子を見た。
目隠しは案外薄い生地で出来ているらしい。仁志の言葉に蛇子も頷いた。
「じゃあこれから僕の立場上聞きたいこと。たとえばプライベートだったり比較的踏み込んだことだったりを聞くことがあるかもしれませんけど、答えたくないことがあれば答えなくていいですからね。むしろ聞きたいこととかあれば何でも聞いてください。僕に答えられることであれば答えますから」
こくり。
蛇子の同意を確認した。しかし、何から聞いたものかと仁志は思案する。ようやく話がちゃんとできるところまで進展したのだ。出来ればこの状態を保ったまま、つまり下手な質問をして彼女の警戒心を高めてしまうという事態は避けたいのだ。
「一つだけ、いいですか?」
仁志がどうしたものかと頭を抱えていると、蛇子が先に口を開いた。その声が少し震えている。
なんだか嫌な予感がした。
「アタシが石にしてしまったみんなを元に戻す方法、知っていますか?」
悪い予感というのは、よく当たる。この質問の所為で会話の主導権は完全に蛇子へと移ってしまったのだ。おまけに、その質問に対する答えは状況をさらに悪化させることが目に見えていた。
「…………僕の知っていることを教えますね」
ここで後悔したところで何もいい方向へは進展しない。それならば、と仁志は腹を括った。
「結論から言わせて貰いますと、まだ石化を説く方法は見つかっていません」
ぎゅううっ……っと音が出そうなほどに蛇子は唇を強くかんでいた。おそらく、彼女自身も分かっていたことだろうが、それでも言葉として突きつけられた現実は受け止めるには少し重過ぎるものだったようだ。
「過去に」
仁志は続けた。
「一人だけ、蛇子さんと同じ力をもった女の子がいました。二百年くらい前だったと思います。僕も資料で読んだことがあるだけなので実際に見たわけではないですし、その頃はまだ『変異種』っていうのがあまり世間に認知されていなかった時代です。彼女――巳月さんという名前らしいのですが、力が現れた際に何十人も石にしてしまったらしいです。ですが、彼女は死ぬ前に一人だけ石から元に戻すことが出来たと資料には書いてありました」
そこでいったん言葉を止め、ちらりと蛇子を見た。
なぜ一人だけ? どうして? どうやって石からもどしたの?
彼女の言いたいことは言葉にしなくてもありありと伝わってきた。不可能と思われた出来事に、わずかな可能性が見つかったのだ。たとえ方法はなくてもいつか元に戻せるということが分かれば、たとえどんなことであろうと試してみる可能性はあるのだから。
「方法は分かりませんけど、いつかきっと戻せるはずですから……蛇子さんががんばるなら、僕も出来る限りの協力をします」
「……ありがとうございます」
仁志は事故に関して触れることをやめた。聞いたところで事態は何も好転しない。それよりも今必要なのは――
「蛇子さん、これからどうします? いえ、どうしなければならないと思いますか? もちろんそれは石になった人を元に戻したいかどうかということではなく、これからどうやって生活していくかというもっと現実的なことです」
蛇子は中学生だ。しかし今の時代は昔とは違い、小・中学校すら義務教育ではない。その代わりに言葉や文字、計算などの生きるために最低限必要なものは生まれたときに機械から身体に情報として組み込まれる。『異種』が増えた現在では実際のところそれぞれの種によっても頭の良さとか、力の強さとか、そういったものが顕著に出てしまうのだ。
そういった世界であるがゆえに、人は一度生まれたときに平等とされ、以降はすべて自分の種や身体能力に合わせて職につくものが多い。もし身の丈に合わない職についたものがいても、長続きできるものではないのだ。
幼い。若い。そんなものもすでに関係ない。
仕事にも困らない。やさしくて、不平等な世界。
仁志は純粋な『人間』であるがゆえに事務に従事している。力だけなら蛇子にすらたぶん及ばない。すでに昔の『人間』しかいなかった世界の仕組みでは成り立たないほどに社会が変化してしまった。
「もし望むのであれば、中学校卒業までは『変異種対策局』で面倒を見ることも出来ます。衣食住には困りません。親戚の家に行きたいというのであれば、そのように手配します」
そして感情のこもっていない目で蛇子を見た。仕事に関しては、徹底的に個を排除する。それが彼のやり方。
「そして、石にした人を元に戻す研究をしたいのであれば卒業後に『変異種対策局』に来てください。僕のコネで入れてあげられます。ただ研究は事務作業の合間にすることになりますが……」
蛇子は何も言わない。
そこには、突然に現れた未来の選択肢への困惑しかない。
「ごめんなさい」
突然に開かれた口からは仁志の想像していなかった否定の言葉だった。
けれど。
「そこまでお世話になるわけにはいきません。親戚にも迷惑をかけたくないし……だから、今からここで働かせていただくわけにはいけませんか?」
■ ■ ■
「はぁ~……」
消えてしまいそうな小さなため息が仁志の横で聞こえた。ため息の主は、かなり疲れた様子の蛇子。
『変異種』としての彼女の力はかなり危険なものだったが、その問題は仁志も予想外の方法で解決した。
彼女の目を見てはいけない。つまり、見えなければ問題ないのだ。蛇子の目と同じ色をしたサングラスにも似たゴーグルをつけることによって、他人からは彼女の目が隠された。色は深く輝く血の色。直接蛇子の目を見たことはないがほかの蛇の『異種』と同じ真紅をしているらしい。普段からゴーグルはをつけることは多少不便ではあるけれど今では日常生活に何の問題もなく過ごしている。
眼鏡に隠されたかわいらしい顔だけが、他人の目からは映るのだ。
だが、彼女の一生に影響する申し出は仁志にとって正直なところかなり無茶なものだった。『変異種対策局』に就職するためには少なくとも中学は出ていないといけないのだ。蛇子の就職には仁志のコネが全力で使われていた。彼女もそれを自覚しているからか、必死に仕事をこなしている。
蛇子に出来ない事務作業に関しては、仁志がフォローを入れているため、余計に仕事が増えたが仕方ない。それでも仕事に慣れていないにしてはかなり出来る方なのだ。蛇の『異種』の血か。
「大丈夫ですか? かなり疲れているように見えるので、少し休憩を入れたらどうでしょう」
蛇子はパソコンの画面を眺めキーボードをカタカタと叩きながら仁志の方を振り向きもせずに答える。
「もう少し経ってからにしましょう。もう夕方なのに今日片付けなければいけない仕事の半分も終わっていません」
彼女が仕事を始めてから一週間。いまだに彼女の研究に打ち込む時間は取れていない。ストレスもかなりたまっているはず。
住む場所も結局決まらず、何故か仁志が引き取ることになった。社員寮で空き部屋が出たらすぐに蛇子にはそっちへ行ってもらうことになるが、知る限りしばらく空き部屋は期待できないだろう。
「ここの書類ですが、これでよろしいのでしょうか?」
「ああ、大丈夫。僕がやっておくよ」
「……やっぱり仁志さんほとんど自分で終わらせるつもりじゃないですか。アタシの立場はどうなるんでしょう。それに、他人に迷惑をかけたくなくてすぐにこの仕事に就いたのに、いまだにアタシ仁志さんに大変なことやってもらっている気がします」
そんなことないよ。と仁志は蛇子をなだめる。
「みーちゃんさんにも僕の分の仕事をしてもらっているからちょうどトントンですよ。前に比べれば僕の負担はかなり減ったと思います」
仁志の言葉に蛇子はやっと視線を画面から仁志へと向けた。
「どうして仁志さんはいつもそういう不思議な敬称になるんでしょうね。普通にみーちゃんでいいのに」
仁志が蛇子をみーちゃんさんと呼ぶのには別段深くもない至極単純な理由がある。
ただ蛇子がそう呼んで欲しいと言ったからだ。仁志の呼び方とは少し違うが……
「華……アタシが石にしてしまった友人のことですけど、アタシが蛇子って呼ばれるのがヤダって行ったら『じゃあみーちゃんねって』って行って呼んでくれて・・・・・・・・・・・・絶対に元に戻すっていう覚悟を薄くしたくないからそう呼んで欲しいんです」
仁志はいままで誰に対しても『~さん』という敬称をつけて会話をしてきたので『~ちゃん』という敬称は身体に馴染まなく、どうにも苦手だったのだ。
そうして出た結論はこの通りである。
蛇子は何度か訂正を求めたがこの違和感のある敬称が元に戻ることはなく、半ばあきれ気味に受け入れてしまった。
「すいません。やっぱりちょっとふらふらしてきたので休みます」
それがいいと思いますよ。と蛇子の言葉に仁志は新調したソファーを示す。
「ふぅ……」
倒れるようにソファーに横になると蛇子はそのまますやすやと寝息を立てて眠ってしまった。仁志はまた自分の書類と向き直る。
自分の分はほとんど終わらせていたため、少しだけ彼女の分もやってしまおうかなと彼女のデスクの上に書類に目をやったとき。
わしゃ。
異様な音が聞こえて仁志は音の聞こえた方に目を向けた。
先ほど蛇子が寝転がったソファー。寝ているはずの彼女の頭部が不自然なほど異様に動いている。
蛇。
蛇子の頭に髪のように生えている蛇たちが自由気ままに彼女の頭の上で動いているのだ。
この一週間蛇子を見てきて、こんなことは一度もなかった。だが本来蛇の異種であれば頭の蛇たちはどんなときでも自由に動き回っている。どちらかといえば、ほとんど蛇が動かない蛇子のほうが異常なのだ。
「それにしても、元気な蛇さんたちですね。まるで普段動かない分も今この場で動いてやろうとか、そんな感じの執念めいたものを感じますね」
その動きがなんだか魅惑的とでも言うのだろうか。仁志は立ち上がりもっと近くで見ようと蛇子に近づいた。
ぴたり。
あと一メートルぐらいにまで近づいた頃、まるでコンピューターでプログラムされた機械のように蛇たちはその動きを止めた。
仁志はまるで中年のおじさんがひげを気にするようにあごに触れた。
「うーん。嫌われてしまったのでしょうか、それともただ警戒されているだけなのかも。一週間も顔を突き合わせている……みたいなものしょうに」
一度動きを止めてから、静寂が場を支配する。
聞こえるのは蛇子のかすかな寝息だけ。
とても長い時間が経った気がする。こういうときはせいぜいほんの一、二分程度なのだろうが、本当に何もせず動きもしない時間というのは終わりの見えないマラソンのように苦痛にしかならないし、ほんの少しの時間でもとてつもなく長い。
無駄な時間を省くことが普通となった現代人の典型的とも言える仁志にはそれが常人以上に途方もなく長く感じるのだ。
「仕事しますか……」
やっと搾り出した言葉は、このよどんだ空気をぶち壊そうとする仁志の精一杯の言葉。
独り言のような言葉が聞こえたのか、もそもそと蛇子が動き出した。
「んっ…………ふぁーあ。少し寝すぎた気がしますが、だいぶすっきりしました――どうして仁志さんがこんなにアタシの近くにいるのですか? てっきり書類の整理を続けているとばかり思っていたのですが」
「それがですね、普段動かないみーちゃんさんの髪の毛が動いていたので、気になったのですが、生憎近づいたらまた動かなくなってしまったんです……蛇さんたちには嫌われてしまったのでしょうか?」
「え…………」
何を言っているんだこのおじさんはといった顔で蛇子は仁志を見た。しばらくして寝起きのぼんやりとした頭が、はっきりと働くようになったのか、急に赤面し金切り声ともいえる高い声で叫んだ。
「ええええなんで動いちゃったの? 普段から動かないようにって言い聞かせてたのに、今まで勝手に動いたことなんてなかったのに……仁志さん忘れてください恥ずかしいので!」
「いえ、僕は蛇が動かないみーちゃんさんのほうがほかの人と比べて不自然だと思うのですが……」
「なんだか知らないけどアタシの髪は昔からあたしのいうことを聞いてくれるんです。付き合いの長い友達……というか家族というか、一心同体なんですから。それよりも仕事しましょう仕事! アタシにはまだやらないといけない書類がいっぱい余っているんですから。早く華やお母さんたちを元に戻してあげたいんです」
彼女の言うことももっともだと思い仁志は頷いた。自分の分もほとんど終わったとはいえ、まだ少し残ってはいるのだ。
「そうですね。僕も自分のが終わったらみーちゃんさんの分も少しは手伝いますよ。協力するって前に言ったっきりでまだ何もやっていませんしね」
「ありがとうございます」
蛇子は耳まで顔を赤くしたままお礼だけ言って、仁志と目を合わせることはなかった。
■ ■ ■
「たまの休日なんですから、ゆっくりしたらどうです? 一生懸命なのも早く華さんを元に戻してあげたいのも分かりますが、そんなに根をつめていたら倒れてしまいますよ」
「大丈夫です。昨日も寝ました」
「寝たっていっても一時間くらい布団に横になっただけじゃないですか。本当に大丈夫ですか?」
「それよりも仁志さんは本当に人間ですか? いつも私より寝ている時間も少ないですし、起きているときもずっと仕事ばっかりしていますよね。それでいて顔色一つ変えずに……おかしいですよ」
なぜだか憤りを示す蛇子。若い子は分からないなと仁志はため息をつく。
「そんなことを言われても、僕だってほら疲れているからこうやって寝られるときに寝ているわけですし」
「疲れたように見えませんよ。仁志さんの疲れたアピールはたまにするため息しかないじゃないですか。あとはアタシが疲れているとかなんとかいって休憩を勧めてくるときくらいしか休憩しないじゃないですか」
休憩を進めるのは本当に彼女を気遣っての行動なのだが、それはいう必要のないことだと思い仁志は何も言わずに言葉を飲み込む。余計な言葉は、人を余計に傷つける。
「とにかく」
ゴーグルをかけていても睨まれた事を感じ取れるほどの迫力で彼女は言った。
「アタシは『変異種対策局』の地下にある図書館に行って石にしてしまった華や両親を戻す方法を探してきますから。仁志さんは惰眠でも何でもむさぼっていてください!」
相当ストレスが溜まっているのか、蛇子は部屋を出るときにバンと音を立てて扉を閉めて部屋を出て行った。
一人残された仁志はやる気なく寝転がったまま。もともとは所詮男の一人暮らし、ただでさえあまり大きい部屋ではないのだ。
それでも二人いた人が一人いなくなるだけで一瞬にして部屋が閑散となる。一人暮らしの時には感じなかった静けさと寂しさだ。
みーちゃんさん、迷子にはなりませんかね。
などと少しだけ心配する。
それよりも一つ、仁志には不安があった。けれどその不安を否定するように。
「たぶん大丈夫ですよね」
独り言を呟く。
普段仁志が独り言を呟くことはあまり無かった。独り言を言っているといった瞬間に猛烈なむなしさに襲われるから、意識してしないようにもしているし、なるべくほかの事、大抵は仕事に意識を向けて独り言を呟かないようにいろいろと努力もしている。
それでも今日は不安や、ほかに集中できることが無い所為かもしれないが、気付かないうちに独り言を呟いてしまう。
「あの図書館にある本や資料の中で過去に彼女と同じ力を持った『変異種』の女の子の資料はすべて隠してありますし……」
絶対に見つかるわけありませんよね。
まるで自分に言い聞かせるように繰り返すのだった。
■ ■ ■
「みーちゃんさん、仕事には慣れましたか? 最近は仕事のあとに図書館や過去の事件のファイルなどを見る時間も出来ているようですし、少し余裕が出来ているように見受けられますが」
仕事中、そろそろ蛇子が疲れる頃だろうなと思って仁志が声をかけると案の定蛇子は大きく息を吐き、いすにもたれかかるようにして大きく伸びをした。
「いっぱいいっぱいですけど、前に比べれば慣れましたね……そうそう仁志さん。昔仁志さんが見たって言っていた私と同じ力を持った女の子の資料よければ貸していただけませんか? 図書館とか結構探したんですけれど全然見つからないんですよ」
蛇子は困ったように眉にしわを寄せた。
「……さあ。僕も若い頃に読んだだけですから、どこにあったか覚えていませんね」
「そうですか……そうそう、まったく関係ないんですけれど、あの図書館寒くないですか? いくら地下にあるからってあれは酷いと思います。今度上層部の人たちに改善して欲しいと頼んでみようかなぁ」
今の時代、最先端の科学技術によって地球上のどこへ行っても気温はほぼ一定に保たれている。さまざまな種類の人間がいるため、どこでも過ごせるようになっているのだ。建物も例外ではなく、機械によって管理され外気と同じになるように構造されている。
寒いとか暑いといった感覚を感じることの方が稀なのだ。
「そうですねー……あそこは結構冷えますからね。本や紙が傷まないような最適な環境を保つようにしていますから、結構乾燥してたりしますし」
考えておきますよ。と仁志は答えた。
「あっ……いつも忘れてしまいますけど、仁志さんって『変異種対策局』の副局長なんですよね。偉い人ってもっとふんぞり返っているイメージがあったので、仁志さんを見ていると偏見だったのかなーなんて思っちゃいますよ」
明るく語る蛇子に仁志は苦笑いを返す。
「大体あっていると思いますよ。僕も昔はそんなイメージを持っていましたし、今だって中学生の頃の同級生たちと連絡を取ることがありますが、大抵仕事をしない上司の愚痴ばっかりです。そう思うと、僕のところは結構仕事がいっぱいある部類なんじゃないでしょうかね」
会話をしながら、蛇子は立ち上がって紅茶を入れようと電機ポットでお湯を沸かし始めていた。
仁志はそれを見てお茶菓子を用意しようと自分も席を立って、いつもお菓子を置いてある棚へと向かう。
最近は前よりもお菓子のバリエーションが増えた。最近と言っても、蛇子が来てからだ。特に甘いもの、もともとは来客用の高級な羊羹と仁志がたまにかじる程度の氷砂糖しか置いていなかったが、蛇子がよく飴やドーナツなどを買ってくるのだ。
「みーちゃんさんは今日は何がいいですか?」
仁志は沸いたお湯をティーカップに注ぐ蛇子に尋ねる。
「今日はさっぱりしているのがいいですね、あんまり甘いものを食べてしまうと後々眠くってしまいそうなので」
こんなやり取りをしていると、彼女の機嫌も和らぐらしい。
けれど、そんな平和はちょっとしたきっかけで一瞬に壊れてしまうのだ。
数日後。
仁志が目覚めると、枕元に紙の切れ端が置いてあった。寝起きの重い体を無理やり動かして、その紙を手に取る。
まだ目覚ましが鳴る時間にもなっていない。おそらく蛇子の書置きだと思われるそれに仁志は横になったまま目を通した。簡潔に『昨日の分の作業が終わっていないので、今日は先に行きます。朝食はいりません』と書かれていた。
昨日は『変異種対策局』の局長が倒れたとか何とかで自分たちのところに回ってきた仕事が多かったのだ。仁志は何とか昨日のうちに片付けたのだが、蛇子はさすがにすべて終わらせることは無理だったらしい。余った時間を資料探しや研究に使いたい蛇子にとってはかなり迷惑なものだっただろう。
せっかく目が覚めたのだから、と仁志は立ち上がり、自分の分の朝食の準備を始める。
熱したフライパンに、片手で殻を割った卵を落とす。黄身がどろどろしているのはどうにも苦手なので、頃合いを見てひっくり返した。そして棚の中に封を切らずに置いておいた食パンを取り出して、その上に乗せた。
蛇子がいないので、一人暮らしをしていたときのように簡素なものになってしまった。
そういえば昨日の夜お米を炊いていたなと、時間を設定するだけの簡単な炊飯器の方を向く。
「みーちゃんさん、朝食を食べていっていないんですよね……」
独り言を呟いて、釈然としない寂しさに襲われた。ここ最近は、特に独り言が増えてきている気がする。前と比べて、一人でいることが少なくなったからかもしれない。だから余計に、一人でいると誰かに話しかけてしまうような独り言を言いたくなるのだろう。
癖にならないように気をつけないといけないなと仁志は思案する。
「冷める前におにぎりを作ってみーちゃんさんにおにぎりをもっていってあげましょうかね」
もう癖になってしまったのか。
仁志はため息をつく。
■ ■ ■
『変異種対策局』はその仰々しい名前のわりには小さな建物である。実際に『変異種』の絶対数が少ないためにあまり事件は起こらないから、必要とされることはほとんどないのだ。おまけに、『変異種対策局』はあくまで警察組織の一部であるため、普段から回ってくる仕事も警察の事務関連が多い。
それでも、建物は都心のビル程度の大きさは持っているし、組織として独立しているため副局長である仁志の権力も局内では大きなものである。だからこそ、蛇子を就職させることが出来たともいえる。
仁志は階段を上り副局長室の前に立った。この副局長室も、もともとは質素だったのだが蛇子が来てからだいぶ華やかになった。
飾りつけとかは無くとも、女の子が一人いるだけでだいぶ変わるものだ。
「おはようございまーす」
間延びした声で、ノックをして、仁志は部屋に入る。
いつもなら蛇子と同時に出勤するので、ノックすることも部屋に入るタイミングで挨拶をすることもまず無いから、こういうのは少し新鮮だった。
しかし、蛇子からの返事は帰ってこない。どうしたのだろうかと仁志は入り口からあまり広くない部屋を見渡した。
どこにも見当たらない。
この部屋で物陰になっているのは入り口から見たら書類の積み重なったデスクの裏側だけだ。いるとすれば、そこしか考えられないし、そもそもいるのであればなぜ彼女が返事をしないのか不思議だった。
仁志はデスクにつかつかと歩み寄ると、机の引き出し側を身を乗り出すようにして覗き込んだ。
動く何か。
それは光沢のある深い紫色をしていた。
最近は見慣れた、蛇子の髪の毛たち。普段は髪のように垂れているのに今日は珍しく動き回っている。
「みーちゃんさん、こんなところにいましたか。いったいどうしたのですか? 隠れたかったんですか?」
尋ねる。
「こっち来ないで!」
帰ってきたのは、初めて会ったとき以来の拒絶の言葉。蛇子が声をこんなに荒くするのもあの時以来か。
「いったいどうしたのですか?」
「これ……なんなの?」
蛇子の指差したものは、彼女の目の前に散らばる紙の束。
まずかったか。
仁志は焦る。それは彼が蛇子に対し隠していたもので、絶対に彼女に見られてはいけないものだった。
「これ、アタシが探していたものですよね。過去にアタシと同じ力を持った女の子の資料ですよね!」
「読みましたか?」
「はい……全部読みました」
「じゃあ、『石になった人を元に戻す方法なんて無い』って事は分かりますよね……いえ、正確には、元には戻らないって事も」
蛇子のゴーグルの隙間から、あふれた涙が彼女の薄緑の頬を伝った。
昔書いたものを改稿して載せてみました。作者にしては珍しくネタだったりGLだったりしません。
本当はこの続きもあります。あったんですけど、友人とかからあんまりに不評だったのでやめました。
どちらにしろハッピーエンドではありません。
半端に終わることに対して賛否両論あると思いますが、少しでも楽しめていただけたら幸いです。