3 目を覚まし、そして……
目が覚めるとそこは、柔らかいベッドの上だった。
天井が白い。ここは俺の家じゃない。それなのに、どこか懐かしいような感じがする。
辺りを見回したが、ベッドの周りはカーテンに囲われていて何も見えなかった。俺はこんな風景に見覚えがある。ああ、そうだ。あれは中学生の時の、交通事故にあった時のことだ。
そうか、ここは病院なんだ。けど、なんで俺は病院にいるんだろう。
昨日は、そうだ。いつものようにアルと、香凜とオメガをプレイしていて。
そうだ、あのノイズ。あれは一体なんだったんだ?
わからないことばかりだ。とにかく、動かなければ始まらない。俺はベッドから起き上がろうとして、直後。
「う……っ」
頭が、いや、全身がふらつくような感覚が俺を襲った。俺はそのまま、ベッドに倒れる。
なんだこれ、気持ちが悪い。何といえばいいんだろう、身体が言うことを聞かない。俺の意思とは関係なく、身体が蠢いているみたいだ。そう、まるで自分の身体が自分のものでないような──
俺は強烈な苦痛に耐えきれず、ナースコールを押した。
それから何がどうなったかは、よく覚えていない。すぐに看護婦が来たような気もしたし、ずいぶん苦しんでから来たかのような気もする。俺は自分の力で歩けたのかもしれないし、担架とかで医者のとこまで運ばれたのかもしれない。
ともかく、俺が気が付いた時には不快感は治まっていて、そして俺は医者の目の前に座っていた。
「特に異常というものがあるわけではなかったよ。ストレス的なものか、身体に疲労がたまっていたんだろうね。無理もないよ。一週間も眠りっぱなしだったんだから」
まだ若いその医者が、言う。近くにある時計を見てみると、2017年の6月7日を示していた。確かに、俺の記憶から一週間が経過している。
「一週間も、ですか?」
「ああ。そうだね。ともかく、目が覚めてよかったよ」
その後、医者に入院費はいらない、と言われた。国から補助金がでるから、というようなことを言っていたが、とにかく俺は金を払わなくていいらしい。
俺は何が何だかわからないまま、病院の待合室に向かった。
家に帰ろう。香凜が心配だ。あいつはちゃんと飯を食っているだろうか。インスタント食品ならいくつか台所にあったから、食おうと思えば食えたはずだけど……
ふと、待合室のテレビが目に映った。
いつものテレビ画面と違う。特番をやっているんだ。一体何の?
「……アルカディアに接続していたユーザーが集団昏睡を起こしてから一週間が経過し……全国の病院では今なお意識不明の患者が……」
なんだって?
俺は食い入るようにテレビ画面を見ていた。
「……アルカディアで生じた大規模な通信障害は……ユーザーの脳に多大な負荷を与え……アルカディアに接続していた約九割以上のユーザーが意識不明に……」
あのノイズが脳裏に再生された。俺の聴覚と視覚を埋め尽くした、あの灰色のノイズ。耳障りな音。それに混じった悲鳴と叫び。
そして、アルの──香凜の震え。
俺は受付に向かって走っていた。何度か人にぶつかったが、そんなことはどうでもいい。
「すいません、この病院に俺の妹は入院してませんか!?」
俺の声が、病院の待合室に響いた。受付の女性がやや引き気味に俺の顔を見ている。
それから少し間をおいて、女性が作り気味の笑顔を俺に見せて口を開いた。
「あの、すみませんが身分の確認できるものをお持ちでしょうか? 患者さんの情報は、個人情報に当たりますので、身分が確認できないことには……」
そんなもの、持っているわけがない。俺はアルカディアに接続していたんだ。外に出歩いていたわけでもないのに。
「八雲香凜です。あの、アルカディアの集団昏睡で運ばれていると思うんです。俺と同じ家に住んでいて、あいつはずっとアルカディアをやってたから、だから……」
「すみませんが、お答えすることはできません」
やんわりとした笑顔で否定された。俺は舌打ちをしてしまう。こっちは妹の安否が知りたいってのに、こんなことで足止めくらうなんて。
俺は、先ほどのテレビの声を思い出す。
そうだ、昏睡状態になったのはアルカディアに接続していた約九割以上。つまり、残りのユーザーは無事だったんだ。確率的に低いことだとしても、それはありえないことじゃない。
家に行こう。もしかしたら、香凜は家にいるかもしれない。それに、香凜がここにいるかどうかを聞くには、家にある保険証が必要だ。
受付の女性に一応の礼を言うと、病院を飛び出した。
俺が眠っていたのは、家の近くの総合病院だったようだ。ここからなら家まで走って10分で着く。
いつもの見慣れた街並み。だが、いつも以上に人が少なかった。太陽の位置からして、今は十六時ごろ。なのに、買い物帰りの主婦も帰路につく学生も見えなかった。そうか、アルカディアの通信障害のせいだ。アルカディアは一般家庭にも普及している。そう、一昔前のインターネットのように。
そんなアルカディアに接続していたユーザーの九割以上が、意識を失ってしまったら。
俺は人の少ない街を走った。
足は重い。なんだか、身体が思い通りに動かない。〈オメガ〉のアバターとは勝手が違うからか。あの世界のような、疾走感がない。
いや、そうじゃない。それだけじゃないんだ。決定的に俺の身体の何かが違うような気がする。
俺は街に対しても、どこか奇妙な違和感を感じていた。
いつも見慣れているはずの、小さい頃から過ごしていたこの街。なのに俺は、この街がどこか違う、と感じている。
──違う? 一体、何が?
しかし、具体的にそれが何かはわからない。漠然としたイメージでしかない。
とにかく、俺は走った。香凜の無事が知りたい。家にいればそれでいい。ただ、もしも香凜が違う病院に入院でもしていたら? 警察にでも聞けば、わかるのか?
家の前に、着いた。
俺はズボンのポケットをまさぐった。しかし、鍵は見つからない。当たり前か。アルカディアに接続しているときに、そんなものは必要ないんだ。
一応、と俺はドアノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。キィ、と金属の擦れる音を立て、扉が開く。
「香凜!」
俺は玄関に入ると同時に、叫ぶ。だが返事は帰ってこない。
靴を脱いで二階に駆け上がる。もし香凜がいるのなら、自分の部屋にいるはずだ。鍵が開いたままだったのがこの家に誰もいない証拠になるかもしれないが、しかし万が一の可能性を俺は信じたかった。香凜は自分の部屋から出ようとしなかっただけかもしれない。
香凜の部屋の前についた。
「香凜、いるのか!?」
またも返事は聞こえない。
俺は一言開けるぞ、と言って、ドアノブを回した。こちらも鍵がかかっていない。ドアが開く。
部屋の中には、誰もいなかった。
「そんな……」
数年ぶりに見る香凜の部屋は、想像よりもずっと綺麗だった。何故だろう、もっと汚れているようなイメージがあったのに。
中学のころと置いてあるものはわかっていない。外に出てないのだから当たり前だ。けれど、綺麗に整理されていた。香凜がかわいがっていたベッドの上のクマのぬいぐるみも、しっかりと手入れされているのがわかる。
──違う。
また、不思議な違和感が俺の中を駆け抜けた。さっきからのこれは一体、なんだ? 俺は香凜の部屋の中なんてずっと覗いてなかったじゃないか。違うとか正しいとか、そんなことわかるわけないんだ。だったら、何故?
俺はこの不快感を押しのけるようにして、香凜の部屋に背を向けた。ともかく、ここに香凜がいないってことはわかったんだ。だったら近所の病院を駆け回って探さなくちゃ。
その時、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。
──香凜か?
俺は声を上げてその名前を呼ぼうとする。しかし。
「ああ、ヤベェな。鍵かけ忘れちまってるじゃねーか」
玄関から聞こえ来たのは、男のかったるそうな声だった。
香凜じゃない? 親父の声でもない。じゃあ、誰だ?
足音が聞こえてくる。階段を上がってくるのがわかった。
心臓の鼓動が早くなる。息が荒くなった。今から隠れるか? いや、もうそんな時間はない。
そいつが、姿を現す。手にはビニール袋を持っていた。コンビニかどこかに行ってきた帰りなのか。
「ああ? 誰だ、お前」
そいつは俺に気が付くと、気だるそうにそう口にした。
お前こそ誰だ。俺はそう言おうとしながら、その男の顔を見る。
──は?
そして俺は、呆然として呟いていた。
「俺……?」
そう。
その目の前の男は。
顔も、背も、体格も何もかもが。
俺と、一緒だった。
そいつは、俺だった。