1 VRゲーム〈オメガ〉
主人公の異常さは8話あたりから顕著になります。
殺しとか全く躊躇らいません。
ご注意ください。
俺は真っ白な空間を漂っていた。
見渡す限りの白い世界の中、俺は浮かんでいる。あるのは目の前の〈NOW LOADING〉という文字だけだ。
データの転送処理中はいつもこの文字が現れる。これはV・R・N、アルカディアのどのコンテンツでも同じだ。
白かった視界が、不意に鮮やかになる。賑やかな西洋風の通りが俺の前に広がった。
巨大な噴水、澄んだ川。中世を思わせるレンガ作りの建物の数々。どこかの国にある街をイメージして作られたらしい。
ここはアルカディアの中にある仮想現実。〈オメガ〉の街だ。
アルカディアが実施された直後からサポートが開始されたVRゲーム〈オメガ〉は、全世界で根強い人気を誇っている。日本を含め、世界的に見てもプレイヤー数は他のVRゲームと比べて群を抜いていた。
5000種類以上の能力と武装、そして魔法を駆使して戦う。ソロでも多人数でも可能。
最低でも月に一回は新しいクエストデータの大幅な更新が行われるし、新しい武器や防具データも更新される。ようは、やってて飽きないんだ。
通りには出店がいくつも並んでいる。売ってるのはもっぱら、消費アイテムや武具だ。
その中を多数の鎧を纏った人々、アバターが歩いている。鎧の種類は多種多様で、デザイン重視、機能重視、あるいはその両方。アバターによってさまざまだ。
俺の前がいきなり淡く、光輝いた。それは次第に人へ、少女へと形を作っていく。
「やった、これで素材がそろいました!」
少女の、アルの転送が終わったようだ。俺の目の前では今。金の髪をしたポニーテールのアルが、笑顔で喜んでいる。
目当てのクエスト報酬アイテムが手に入ったのだろう。俺も試しに空中に浮かぶアイテムアイコンを、つまり俺にしか見えないメニュー画面のそれをタッチして確かめた。
「あー、俺の方はダメだったみたいだ」
俺がお目当てにしていたアイテムは手に入らなかった。
けど、そんなのどうでもいい。本当の目的は、それじゃない。
「ふふっ。じゃあもう一回クエスト行きますか? もうあいつのパターンは大体覚えましたよ」
「そうだな、それもいいけど……」俺は空中に浮かぶ時計のアイコンを見て時間を確かめた。「そろそろ飯だから、ちょっと席外していいかな」
「ええ、構いませんよ」
「悪いね、勝手にこんなこと言っちゃって」
「いえいえ。いつもソーマさんにはいつもクエスト付き合ってもらってますから。気にしないでください」
アルは優しい笑顔を俺に向けると、元気に街の人ごみの中へと駈け出して行った。
「じゃあ私は装備強化とかアイテム買ったりして時間潰してますね!」
アルが俺に手を大きく振ってくる。俺はそれに軽く手を振って応えた。それからすぐに、アルの姿は見えなくなってしまう。
もういいか、と俺は手を振るのをやめた。そして小さく、こう呟いた。
「……ログアウト」
俺が呟いた瞬間、鮮やかな景色が急速に色褪せていく。意識がどこかに引き寄せられるような感覚があり、そして──俺は、俺の部屋の中に引き戻された。
「んん……」
俺は神経接続用のメットを取ると、軽く背伸びした。
コネクトシステムと呼ばれる、灰色をした大仰なソファーから身を起こす。足元ではコンピューターが唸りを上げていた。
アルカディアの接続にはこのコネクトシステムが必要不可欠だ。人間の意識をネットワークにダイブさせるには、超高速の演算能力と、そして膨大な量のセキュリティが必要となる。コネクトシステムはその両方を兼ね備えていた。
発表されたのは2005年。当時の科学ではありえないような技術──量子コンピューターと最新式の脳理論、つまり量子論と脳科学の論文が発表された。それは、膨大な処理能力を持つ電脳空間に、人の意識を送り込むというもの。つまり、V・R・Nだ。
当時の科学よりも数段先に進んだその論文は、たちまち世界の注目の的となった。それのお陰でアルカディアの実装が可能になったのだが。
俺は、このコネクトシステムが嫌いで嫌いで仕方がない。親父の送ってきたこいつのせいで、あいつは今も俺の前に姿を見せないんだ。
俺は部屋を出た。廊下に出て、妹の、香凜の部屋へと向かう。
部屋の前にはお盆に乗った食器が放置されていた。今朝の朝食が半分以上残っている。いつものことだ。
俺はお盆を持ち、階段を下って一階に降りる。
家には今、俺と香凜しかいない。母さんは香凜を産んですぐに死んだ。親父は研究に没頭して帰ってこない。そして香凜は……
廊下の電気をつけないまま、台所に向かった。
台所の明かりをつけ、俺は朝食の残りを生ゴミの袋に棄てる。食器を台所に置いて、晩飯を作る準備を始めた。
俺は冷蔵庫から食材を取りだし、料理を始めた。
今ごろあいつは装備の強化をしているのだろうか。いや、もしかしたらクエストに誰かと行ってる頃か?
野菜が切り終わった。同時に、電子レンジから終了のブザーが鳴る。肉の解凍が終わったみたいだ。あらかじめ温めていた鍋でそれを炒める。ある程度時間が経ったところで、野菜を投入した。
炒め物の合間に、電子ジャーの中からご飯をよそう。電気ポットのお湯を器に注いで、インスタントみそ汁を作った。
そうやって20分はしただろうか。晩飯が完成した。俺は二人分の食器によそって、そのうち一つをお盆に載せて二階に向かう。
香凜の部屋の前で、俺は立ち止まった。
「晩飯、ここに置いとくから」
そうは言ったものの、あいつは今、アルカディアに接続しているはずだ。だから多分この声は無意味だろう。
俺は香凜の食事を部屋の前に置き、台所に戻った。リビングのテーブルに自分の晩飯を運び、そして食べる。
静かだ。
食器のぶつかる音がリビングに響く。
他に音はない。
まるで、この世界には俺しか存在していないかのようだ。
もう、二年間はこれを繰り返している。
香凜が引きこもり始めたのは、俺が交通事故にあった少し後からだ。
二年前、当時中学二年だった香凜は、いじめにあって学校にいかなくなった。
いじめの内容は知らない。いじめられていた理由も知らない。一言、香凜が、いじめられてるんだ、とそう小さく呟いたことがあるから、それが理由なんだと勝手に思っているだけだ。
その時親父は海外にいて、家には帰ってこなかった。母さんはもう、とっくの昔に死んでいた。俺は、何もしてやれなかった。何をしてやればいいか、わからなかったんだ。
そして、香凜は引きこもった。それからずっと、俺は香凜の顔を見ていない。俺が外にいる間や寝ている間に、あいつはトイレや風呂に行っているんだと思う。直接見たことはないから、わからないけど。
それより前は、何故だかよく思い出せない。交通事故の後遺症かもしれない。ただ、香凜が笑っていたことは覚えている。もう、リアルじゃ二年間ずっと、見てないが。
俺は食事を終えて台所で食器を洗う。十分もかからなかった。
部屋に戻る途中、横目で香凜の部屋のドアを見る。まだお盆がそこにあった。手はつけてないみたいだ。
俺は自分の部屋に入って、コネクトシステムに身体を埋めた。
これは俺が中三の頃、つまり二年前に親父から送られてきたものだ。
せめてもの親父らしいことを、とでも考えていたんだろうか。だとしたら、父親と言う存在をはき違えてる。
こんなものが、あるから。
俺はメットを被り、コネクトシステムを起動させた。
視界がぼやけ始め、真っ白に。〈NOW LOADING〉の文字が浮かび上がり、そして今度は視界が鮮やかになっていく。
アルカディアのネットワークに接続が完了した。近未来的な街並みが視界に広がっている。無数のアバターが街に溢れ、各々の目的地に向かっていた。
全世界的に広がる電脳空間。ヴァーチャルのその世界には、情報があふれかえっている。十数年前のネットワークの比ではない。アルカディアは、ここ十数年の発展の象徴だ。
だが俺は、こんなところに用はない。
フェイバリットメニューを起動させ、〈オメガ〉の項目をタッチした。また視界が白くなり、あの言葉が浮かび上がる。