わたしとケイと彼とサクラ
---1---
六月の下旬、梅雨のじめじめとした湿気立った空気が教室を支配している。それと反比例するように淡々とした声で講釈を垂れる先生は、「ここテストに出るからな」と念を押す。わたしはその重要極まりない情報を頭の隅に追いやって、視線に力を入れた。
肩肘を付いて見つめる先に、彼はいた。教室の入り口近く、最前列から数えて二つ目の席に藤田くんはいた。真面目そうに先生の話を聞きながら、ノートを取っている。こんな――授業を放って好きな男子を眺め倒している――ことをしているわたしとは大違いだ。
彼との間で、何か特別な出来事があったわけではなかった。
わたしが暴漢に襲われそうになったところを、タイミングよく助けに入って、自身が傷つくのも厭わずに相手をなぎ倒していくだとか、体育の授業中に飛んできたボールが当たって捻挫したわたしを、お姫様抱っこで保健室に運んでくれたとか、そんなメルヘンは決してない。
ごくごく普通の、数人で会話している時の笑顔を見て「あぁ、綺麗に笑うんだなぁ」と、そんな程度だ。
中肉中背であまり特徴のない容姿。友達と一緒にいるのを観察しても、からかわれてばかり。発言は控えめな方で、多数決の意見には絶対逆らえない。そんな彼に恋しているわたしは何なのだろう、といつも思う。人間の心の中はいつだって不可解だ。理屈で説明できるものなんて、実はほんのごく僅かに過ぎないのだと思う。
「おい、戸田。聞いてるのか戸田」
ふいに呼ばれた声に、意識が引き戻される。見上げると数学教師の楠田が、むすっとした表情でわたしを見下ろしていた。
「あ、はい、ちゃんと聞いてません」
咄嗟のことで混乱していたわたしは、慌てて立ち上がりながら早口で支離滅裂なことをいってしまった。現実と建前が脳内で混同した結果だった。わたしの失態に教室中がどっと笑った。
「どっちだよ」
丸めた教科書でぽん、と軽く頭をはたかれた。痛みはなかったが、それよりも恥ずかしさの方が際立った。
横目で盗み見ると藤田くんも少し笑っているように見えた。不真面目で間抜けなわたしは、きっと嫌われたに違いない。そう思うとわたしの心はくすんだ鉛を丸呑みしたように重くなった。
放課後、掃除当番のわたしは他数名の人たちと一緒に清掃を行っていた。当番は二週間ずつ回っていく。
その中には藤田くんも混じっていた。それだけで、誰もが面倒くさがる当番に対して感謝したくなるほど、わたしは浮かれていた。現金な性格なのはとっくの昔から自覚している。
ほとんどの清掃が終わった。後は最後に透明なゴミ袋を、裏庭にあるゴミ置き場に捨ててくるだけだ。
「最初はグー」
わたし達のクラスでは最後のゴミ捨てに誰が行くのかを、毎日じゃんけんで決めるルールになっていた。誰が言い出したのかは定かではないが、いつの間にか定着していて、担任も特に口出しはしてこないようだった。
日によって排出されるゴミの量は異なっていた。それによってゴミ袋は一つで足りたり、三つに膨れ上がったりと様々だった。今わたしの目の前に置かれているゴミ袋は二つだ。故に二人が負けるまでじゃんけんは続く。
「じゃんけんポイ」
当番全員の掛け声が重なって反響する。
妙に綺麗なコーラスの中、わたしはしぱしぱと瞬きを繰り返しながら自分の手を見つめ続けた。どうして一人だけ負ける手を出したのか。タイムマシンがあるのなら、今この時のためだけに時間を遡り、哀れな自分に教えてあげたい。「あそこはパーを出すべきなんだ」と囁くのだ。
「うわ、ついてない」
愚痴が口をついたがやはり現実は変わらず、ゴミ袋がゼロになることもない。
「最初はグー」
隣では二人目を決める儀式が続いていた。あいこが続いて、中々決まらないようだった。興味のないわたしは「早く帰りたいんだからさっさと決まれ」と内心毒づく。
「良かったじゃん、さやか」
決まらないじゃんけんに手持ちぶさたを感じたわたしは、通学用のバッグに教科書を詰め始めた。するとクラスメイトの愛子が話しかけてきた。快活そうなショートカットが映えるスポーツ少女だった。冗談めいた口調と共におあいにくさまと、皮肉が顔に書いてあるようだった。
彼女も掃除当番だった。つまり、最後の一人が決まったということだろうか。
「何でよ。全然良くないって」
「いや、だって」
「え?」
今までわたしに向けていた首を、にやにやとした顔で横にずらした。彼女の視線の先には――
「あっ」
藤田くんが二つあるゴミ袋の内、一つを掴んで提げていた。それを認めた途端、微かに体温が上昇するのが分かった。
そう。愛子はわたしの恋心を知っている。だからあの笑顔だったのだ。けれどそれは友達としての純粋な応援、というよりも冷やかしに近いような気がする。
「ほら、早く藤田くんのトコ行ってあげなよ」
背中を押しながら愛子はわたしを急かした。
「わ、分かってるって」
そう返すものの、踏み込む足に力を入れて反発を示す。いきなり彼の前に放り出されるなんてごめんだ。心の準備が必要だった。
「自分で行くから」
ようやく背中に掛かる感触が消えて身体が軽くなった。一つ大きく息を吸って、またそれを吐き出す。すぅと空気の抜ける音がした。少しだけ落ち着いた気がした。
藤田くんの隣まで進み、わたしはゴミ袋を手に持った。
「早く行こう」
藤田くんは素っ気なくいった。
声に釣られて顔を見てみると目が合った。締め付けられるような感覚が胸の奥で疼く。けれど彼はすぐに目を逸らしてしまった。
「あっ」
わたしは先ほどと同じ言葉を発した。それは最初のうきうきとした高揚感に満ちたものではなく、落胆するようなそれだったと思う。先ほどの胸の疼きが余韻として残っている。それが逆に痛々しかった。
そして彼はわたしなど存在していないかのように、ずんずんと先に進み始めた。わたしはそれを不安げに追いかけるしかなかった。
仰々しい音をたてて、ゴミ袋が二つ投げ込まれる。これで今日の仕事は完全に終わりだ。後は帰宅するだけとなる。
わたし達はゴミを捨てたその足で教室に戻った。通学用バッグを取りに行くためだ。
ゴミを捨てに行く間と教室に戻る間、どちらも会話はなかった。彼は一人で先を急ぐし、わたしはその背中を見つめながら追いかけるだけだ。コミュニケーションの欠片もあったものではない。まだライブ会場でたまたま相席になった見知らぬ人との方が、会話が発生するのではないか。
教室に戻った彼は、机上へ無造作に置かれていたバッグを引っ掴むと、そのまま教室を出ようとした。
わたしは何か言わなきゃ、と思いつつも、口に出せずにいた。喉が乾燥してうまく動かない。
「ふ、藤田くんっ」
持てる力を総動員した結果、名前を呼ぶ事が出来た。彼はぎこちなく振り返った。その目は無表情を貫いているようだった。
「また……ら、来週ね」
声は震えていなかっただろうか。言葉はつっかえていなかっただろうか。きちんと笑えてただろうか。真っ白なわたしの脳はその時の記憶を留めてはくれなかった。
「……また」
挨拶してくれた。無視されなかった。それだけで天にも昇る気持ちだった。
一人残された教室でわたしは考える。どうしてそんなに素っ気ない態度を取られるのだろう。やはり日ごろの不真面目な態度を知ってるから、嫌われているんだろうか。
「明日から優等生になったら振り向いてくれるかなぁ。でも」
わたしは少し考えて首をふった。長い黒髪がそれに合わせて踊る。
「それでも無理な気がする」とこぼして、教室を出た。
---2---
帰宅して靴を脱いでいると、犬のケイがお出迎えをしてくれた。
「ただいま、ケイ」
ずんぐりとした身体をのっそのっそと揺らして喜びを表現していた。
仰向けになったケイのお腹をわしゃわしゃと撫でると、くすぐったそうに目を細める。わたしはそれだけで温かな気持ちになった。
ウェルシュ・コーギー・ペンブローク、通称コーギーと呼ばれているこの犬種の多くは、断尾されている状態でペットショップで売られている。ケイはたまたま断尾されずにいたために、キツネのようなふさふさとした尻尾が感情表現を豊かにしていた。
制服から私服に着替え、リビングに入る。冷蔵庫から紅茶のペットボトルを取り出して、コップに波々と注いだ。
紅茶を飲み干したところで、ケイがリビングに入ってきた。何かをねだるようにわたしを見つめる。わたしはそれに応えた。
「よし。お散歩行こっか」
するとケイは落ち着かない様子で、そこかしこをぐるぐると回った。
散歩に行けると分かって嬉しく思ったのか、まるで人間の言葉が理解出来たかのような仕草だった。
時折首を上に向けて、わたしを見る。早く行かないの?と訴えているようだった。
哀願するような目で見つめられ、わたしの心は瞬時に陥落した。
「分かった分かった」
苦笑混じりに答えて、わたしは早速準備を始めた。
ケイに首輪を嵌めて、そこに付属している輪へリードの金具を装着した。その間ケイは大人しくされるがままだった。こういった場面で利口なのは非常に助かる。
ビニール袋にトイレットペーパーを詰め込み、トイレ対策も万全に、わたし達は外へと躍り出た。
外はこの梅雨の時期に似つかわしくない、かんかんな日照りをみせていた。あまり長すぎる散歩は、体力の心配を危惧する必要がありそうだ。
わたし達の散歩コースはいつも決まっている。家の中心を軸として、円周状に歩いて戻ってくるのだ。公園を通り、図書館の側を横切り、区役所のある広場を通過していく予定となっている。
区役所のある広場に到着した。
庁舎の横にあるこの広場は、面積が非常に広大で子供の遊びにも良く使われていた。噴水や木々の緑も多く、ちょっとした公園に近い様相である。
ケイも開放感溢れる場所で散歩が出来て、心なしか嬉しそうに見えた。
はしゃぐように足を動かすケイにリードが引っ張られた。わたしは少し前のめりになる。中型犬であるコーギーが力を出せば、それは決し弱々ものではない。
「あ、こら」
夏の暑さに手汗を掻いていたわたしは手を滑らせた。するり、とリードが意思をもったように指から離れていく。しまった、と思った。
完全な自由を得たケイは、水を得た魚のように好き勝手に走っていく。
わたしは焦った。もし小さな子供にじゃれ付いて怪我でもさせたらどうするのか。ましてや、それが原因で犬の処分を被害者側から主張されでもしたら、目も当てられない。それが考え得る限りでもっとも最悪なケースだとわたしは思い、早く取り押さえようとケイを追いかけた。
ケイは噴水のそばにいた。そこには他の犬がいて、その匂いをくんくんと嗅いでいた。
完全に受身状態の犬、チワワは大きな瞳をくりくりとさせて、流れに身を任せていたようだった。チワワは時折、耳をぴくぴくと痙攣させるように動かしていた。癖なのだろうか。
何の騒動にも発展しておらず、わたしは胸をなでおろした。
しかし、突然現れた他所の犬に、チワワの飼い主は不快な思いをさせられたのではないかと心配になった。
ひとまず謝ろうか、と思ったがそれは叶わなかった。何故なら――
「戸田……?」
チワワの飼い主は藤田くんだった。
お互いに目を白黒させながら、わたし達はこの突然の遭遇劇に驚きを隠せなかった。
わたしはといえば、口を半開きにしてパクパクと震わせながら、言葉さえも発せずにいた。
わたしよりも平常心に見える彼は「このコーギー、戸田の?」といった。
「な、どうして藤田くんが」
「いちゃあ悪いのか」
「そっ、そういう意味じゃ……」
失敗した、と思った。彼の質問をそのつもりはなくとも無視してしまい、それどころか誤解までされてしまった。
それでもいつもの学校よりは会話が出来てるかも、と斜め上の思考が進む。
もしかして、このまま仲良くお喋りが出来るかもしれない。そんな予感がする。だからわたしは慎重に言葉を選びながら会話を始めた。
「ごめんね、ウチのコが邪魔しちゃって」
何でもないように装うが、内心では心臓がばくばくと五月蝿いくらいに暴れていた。
「いや、別に。サクラも嫌がってないし」
「あ、サクラっていうんだ」
「……うん」
「……」
「……」
そこまでが限界だった。
正常稼動しないわたしの脳は、更なる会話をさせようとはしてくれず、何も思いつかないまま微妙な空気が流れる。
先ほどの予感など、ただの幻想だったのだ。自分勝手で都合の良い作り物だ。
逃げるように視線をサクラへ移した。
屈託のない澄んだ瞳がわたしを見返す。全てを見透かされそうな、大きくて綺麗な瞳だった。
ふいにサクラが動いた。いや、リードに引っ張られたのだ。
「じゃあ、もう行くから」と藤田くんは、その場から立ち去ろうとする。
引き止めたかった。もっとお話したかった。
臆病なわたしは別れの言葉しかいえずに彼を見送るのだ。
「うん、また来週」
今日は金曜日。あと二日間も会えないのか、と本人を目の前にして思う。
泣きそうな顔をしながら、遠ざかる彼の背中をいつまでも見つめ続けた。
飼い主の手から勝手に離れるという粗相をしたケイは、そんなことはどこ吹く風、はっはっ、と舌を出しながら涼しげな顔をしていた。
それから自室に戻り、ベッドへ倒れ込み、タオルケットを頭まで被った。猫のように丸まりながら不貞寝をした。
この世なんて全てなくなってしまえ、と思った。そうしてダメな自分もろとも消え去ればいいのだ。
---3---
お腹を撫で回されている感触がした。
わたしには兄弟がいないので、起してくる相手がいるとすれば必然的に父か母であるはずだった。仮にも年頃の娘であるわたしは父にそんな態度に出られれば当然に怒るだろう。
眠っていたわたしは、その無粋な起し方に不快感を覚えながら、うつらうつらと目を開けた。
そこには覆いかぶさるような格好でわたしを見下ろす男性がいた。しかしそれは曖昧な風景のようにぼやけて見えて、誰だか分からなかった。
眠気にモヤが掛かった視界は、覚醒と共にしっかりとした像を結んでくる。
わたしの目に飛び込んできたのは、さえない表情で見つめてくる藤田くんの姿だった。
驚きのあまり心臓が飛び出るかと思った。一瞬の間を置いて、わたしは思い出したように悲鳴をあげる。
しかし喉から震え出たのは、きゃん、というあまりに場違いな悲鳴。それはおよそ人間が発するような声ではなく、そう、まるで犬が尻尾を踏まれた時に出るような――
両脇の部分に圧迫感が走った。すると、わたしの身体が宙に浮いた。
わたしの眼前に、視界一杯に広がった藤田くんの顔が近づいてきた。ずいずいと迫りくるそれは普段の三倍以上の大きさに思えた。
自分の頭がおかしくなったのだと思った。
いきなりクラスメイトの男の子が自分の部屋に来て、わたしのお腹をこねくり回し、気づいたら巨大化しているさまなどわたしは正気の沙汰と思わない。思えない。歪んだ脳がわたしに幻覚を見せているのだ。
片思いの相手ではあるが、有り得ない状況にわたしは恐怖感の方がはるかに勝っていた。
必死に叫ぶ。喚く。もがいて身を捩って頭を振り乱した。けれども発声された音はどれも人間のそれではなく、家畜のようなそれだった。
「わっ、いきなり暴れんな」
困った声をあげながら、藤田くんはわたしを鎮めようとする。
決死な反抗の甲斐あってか、わたしの身体は藤田くんの手を逃れてベッドへこぼれた。
ぼふ、という音と共に落下の衝撃が身体を襲った。
多少の痛みを感じるが、今はそれどころではない。早くこの場所から逃げなければ。
逃げる?
藤田くんから?
自分の部屋から?
受け入れがたい現実から?
分からない。分からない。
混乱する頭で周囲に首を巡らせてみる。
まず目を引くのは全ての景色が広大に見えることだった。家具らしきものは全て、自分の知っているスケールより一回りも二回りも大きい。
そう見えるのは、つまりわたしは小さくなっていて、それからそれから――ダメだ思考が細切れになる。毛むくじゃらに見える自身の手足を見なかったことにして、わたしは考えることを放棄した。
そして重大なことに気づいた。
そこはわたしの知っている、狭苦しくも愛着のある自分の部屋ではなかった。
自分の視点や位置が異なっていたために、分かりにくかったのかも知れない。
ようやく、といってよいのか少し冷静になりつつある自分がいた。
おぼろげながらも自分の状態を予想する。
「なに逃げてんだよ、サクラ」
ほら来た。
その言葉は明らかに、わたしへ向けられたもの。
この見上げるばかりの景色たち。クリーム色の毛並みに覆われた自身の手足。発することの出来ない人語。そして止めに藤田くんの一言だ。
理解が出来たって、納得なんてするものか。
部屋の隅にパソコンラックが設置してあった。黒い巨大なタワーのようにそびえ立つそれの横には、わずかに潜り込めそうな隙間があった。
黒いタワーの隙間めがけて走ろうとした。しかし足が上手く動かせなかった。
耳をぴくぴくと感覚だけで動かせる人が稀に存在するが、わたしはそれが出来なかった。動かない手足はその感覚に似ていた。神経の伝達方法が分からないというのだろうか。
上手くいかなかった足はほつれて、ぽてり、とつまづいてしまう。
わたしの周りが影に包まれた。上目遣いに見上げると藤田くんの手が迫る。ぞぞぞ、と背筋に悪寒が走った。
妹を見遣る兄のような目をして、「馬鹿だなぁ」と藤田くんは笑った。
恥ずかしくて消え入りたかった。けれど、そんな表情はわたしの顔からは微塵も発せられない。
彼は笑顔のまま、「ほら、おいで」とまたもや、わたしは抱き上げられた。
少し口先を突き出せば唇が触れる距離で、あの藤田くんが極上の笑みを浮かべてわたしを見ていた。
普段のわたしには決して向けてくれない笑顔。
ドキドキ、と胸が痛むように震える。自身に起こった異常など棚に上げて、わたしは我を忘れてその笑顔に見惚れた。
そして。
拾い上げられたわたしはそのまま、彼の腕に納まった。
暖かい腕に包まれ、胸部を通して遅々とした鼓動が聴こえてくる。
ハイペースで刻む心臓とくすぐったいような気持ちが混ざり合う。それが妙な居心地の良さを与えた。幸せとはこういうことなのだ、と一人前に悟った気になる。
突然、ドアが開かれた。
それに気づいた藤田くんはドアへ向き直ってから、「遅かったじゃん」といい、わたしをベッドへ下ろした。
「ごめん、ちょっと手間取っちゃって」
どうやら来客のようだった。口振りからして友人なんだろう。
突然の来訪者を見てみる。知らない顔だった。正確にはどこかで見たことがあるような気がしたが、思い出せなかった。もしかしたら同学年ではあるが、別のクラスの人なのかも知れない。
二人は暫くの間、取り留めのない会話を続けていた。声が大きいのか、聴こうとしなくとも会話が耳に入ってくる。
その間、意味もなく藤田くんを眺めていた。そこにはわたしの知らない藤田くんの表情がたくさんあった。
「そいえばさ」
神妙な顔つきで藤田くんの友人がいった。
「うん?」
「俺見たちゃったよ、今日」
何を、というように藤田くんは彼を見た。
「戸田と一緒にゴミ捨てに行ってるところ」
「なっ」
藤田くんは息をのんだようにぎくりと肩を震わせ、嘆声をもらした。それと同時に、わたしはギョっとしてその友人を見やった。まさかここで、そんな話題になるとは思わなかったからだ。
耳を塞いで全ての情報を遮断したかった。一体何を言われるのか。
好かれていないのは分かっていても、いざ本人の口から酷い言葉が出てこようものなら、わたしはもう立ち直れないだろう。びくびくとどうする事も出来ずに怯えて待つ被告人のような気持ちで、わたしはその場でへたり込んでいた。
二の句が継げない藤田くんを尻目に、彼の友人は「なんかさ」と続けた。
「お前……結構嬉しそうだったね」
「あれを見てそう思えるんなら、有村は眼科に行った方がいいよ」
呆れるような口調で藤田くんはいった。どうやらあの友人は有村というらしい。やはり記憶にはなかった。
「ふーん。そっかそっかー」
「何が言いたいんだよ」
「べっつにー」
有村の含みのある言い方に、藤田くんは若干苛立ったような声をあげる。
ほんの少しの間。二人は静かな時間に身を任せていた。
「俺だってさ」
藤田くんが口火を切る。
「冷たくしたいわけじゃないんだ」
「じゃあどうして?」
あんな態度なの、と有村は笑った。そのにやついただらしない顔は、全てを分かった上で訊いてます、というように見えた。
「え、いや、それは……」
そういって、藤田くんは言い難そうにした後、黙ってしまった。そしてすぐにきりっとした顔に戻り、何か決意めいた表情でぽつりと返した。
「緊張する、から」
かな、と彼は最後に疑問系を付け加えた。
「よく分かんないけど。何か話しづらいというか……まともに顔が見れないというか」
そういって、ぷいとそっぽを向いた。その向いた先にわたしがいて、視線がぶつかった。身震いするような恥ずかしさが込み上げてくる。同じ部屋に居ても、ちっともこの身体は慣れてくれなかった。わたしはどうにかなってしまう前に、視線を逸らせた。
「まぁ、戸田って可愛いもんな」と、有村はいった。藤田くんは返事をしない。諦めたように有村は溜息をついた。
「つまり」と、有村は得意げな口調で、まるでまとめにでも入るかのように声を荒げた。
「俗にいうツンデレってやつ?」
「……知るか」
妙に冷静なわたしがいる。
二人のやり取りは、解釈の仕方にもよるが、わたしは好意的に思われているということだろう。いくら鈍感なわたしでも、それくらいは分かった。
けれど本当に? わたしの誇大妄想ではないか、と心配になってくる。
普段のわたしがその場に居たのなら。
ねぇ、今のどういうことなの、と嬉々として問い詰めたかった。いや、実際目の前にしたら尻込みしていたと思う。
「多分あっちは傷ついてるんじゃないの?」
有村の言葉は微かに責めるような色を帯びていた。藤田くんは、意外なものを見るように目を丸くした。
「どうして?」
「だって、お前冷たいじゃん」
やりきれないような表情で彼は俯き、そんなこといったって、と呟く。それに向かってわたしは、そんな事ないよ、と言ってあげたかった。
気づいたら、わたしは藤田くんの目の前まで移動していた。一体何をするつもりなのか自分でも分からない。
一歩また一歩と距離を埋める。藤田くんが顔を上げて、わたしを見た。
知らず、わたしは四肢の筋肉に力を込めているが分かった。わたしはこのまま飛びつこうというのか。
「どした、サクラ」
愛でるような瞳に吸い寄せられながら、わたしは四肢の力を解放した。バネのように身体全体をしならせて宙を舞った。
彼の胸に飛び込む衝撃とともに、わたしの視界は暗転した。
---4---
差し込む明かりに目を細めて、わたしは呻くような声をあげた。
「あ……れ」
跳ねるように身体を起したわたしはまず、自分の身体を確かめた。ぺたぺたとしたもち肌がその弾力を返してくる。その感触がここは現実なのだ、と教えてくれるようでわたしは安心した。
わたしは確か、散歩から帰ってすぐ不貞寝をしたはずだった。寝ていたのならば、やはりあれは夢だったのだろうか。
そばに置いてあった携帯電話に手を伸ばし日付を確認した。土曜日朝の八時、と液晶は表示した。翌朝まで寝ていたことになる。
先ほどまでの出来事に記憶を巡らせてみた。
息づかいが聴こえるほどの近い距離、恋人にでも向けるような笑顔、少し角ばった優しい手、そのどれもがリアルに思えるくらいに鮮明だった。あれが夢や妄想であるなら、わたしは自身の卓越した想像力を褒め称えたい。
しばらくベッドの上で横になっていると、早鐘を打っていた鼓動が落ち着いてきた。
次に込み上げてきたのは悲しさだった。あの笑顔はわたしに向けられたものではないんだなぁ、と思ったからだ。あれはあくまで飼い犬であるサクラへの愛情表現だ。でも――
そんな仮想体験で満足か、と自問自答した。結論なんて分かっている。
わたしは意を決するように頷いた。
翌週の月曜日。教室に入ると愛子がおはよう、と声を掛けてきた。わたしもそれにおはよう、と返す。
「で? どうだったの?」
「どうって?」
愛子の好奇心に満ちた目を見てうんざりした。首を傾げて一応はとぼけてみたものの、何を問われているのかは分かっていた。
「だからー」と楽しそうに笑って、「あの後一緒に帰ったとかさぁ」と彼女はいった。予想通り、先週のゴミ捨て後についてだった。
「有り得ないね」わたしはにべもなく一蹴する。
「なんだつまんない」と落胆する愛子に、朝から元気だな、と見当違いなことを考える。
がらり、と音がして目を向けると藤田くんが登校してきた瞬間だった。周りの友達と挨拶を交わしてから、すぐに自席に着いたようだった。
「お、噂をすれば」と愛子がいった。更に「今日も普通だね」と彼への批評を追加した。
「なによ、普通って」わたしは愛子を睨んだ。しかしすぐに吊り上げていた顔の筋肉を弛緩させ、「まぁ、間違ってないけど」といった。
「あれ? いつもはもっと怒るのに」期待通りの反応が得られず、愛子が戸惑いの声をあげた。わたしをからかって楽しむのは、彼女にとっては日常茶飯事のことだった。しかし今日は違う。
その日の放課後、掃除が完了し、後はゴミ捨てを残すのみとなった。
「最初はグー」
「じゃんけんポイ」
こだまする声の中わたしは小躍りしたくなった。
「やった」わたしは一人抜けの優越感に浸る。先週の一人負けが廻り廻って還ってきたようだった。
「はあ、負けちゃった」愛子がいう。
「残念だったね」わたしは鼻歌でも歌いだしそうな勢いで、慰めの言葉をかけた。説得力など皆無に等しい。
「はいはい、また明日」愛子の顔は苦笑混じりだった。早く帰れ、とでも言いたげに見えた。
今日のゴミ袋は四つと、いつもより多かった。今週の掃除当番は六人であるため、ゴミ捨てをしなくてよいのは二人だ。
教室を見回すと藤田くんがこちらを見つめているのに気がついた。ゴミ袋は持っていない。
腰が引けそうになるのを堪えながら、わたしは彼の元へと駆け寄った。
「先週と真逆だね」と声をかけてみた。
うん、と小さな声で返事があった。やはり目は逸らされている。心が折れそうになる。
夢の中の出来事を思い出しながら、わたしは続けた。あの夢がわたしの背中を押してくれる。あれが夢でも幻想でも妄想でも、何でもよかった。
「この前のお散歩だけど」と切り出した。「いっつも、あそこ通ってるの?」
逡巡するように一拍置いてから「気に入ってるんだ」と返事があった。その一瞬の間にわたしは、また無視されるのかと思ったが、意外にも会話は続いた。
彼はわたしの問いかけに、時に押し黙り、時に考え込み、時に停滞し、つまり途切れ途切れに返事をしてくれた。
半刻ほど会話した後、わたしは一種の賭けに出た。
「あのね」
改まった雰囲気を感じ取ったのか、藤田くんはわずかに身構えるように背中を伸ばした。
「今度、一緒にお散歩しようよ」
息を呑む気配がする。ついに言ってしまった。照れくさい気持ちがして目を伏せた。
「サクラちゃんも連れてさ」
祈るような想いで顔を上げると藤田くんは困った顔をしながら、「いや、そういうのはちょっと」と言葉を濁した。
「あ……」
わたしは理解した。それはつまり拒否の意ではないか。
今のわたしの顔は、泣きそうな表情ではないと思いたい。そんな情けない姿は見せたくなかった。
これ以上いたら、きっとわたしは泣いていた。だから立ち去ろうと思った。
「でも」
背中を見せた瞬間、声が掛かった。わたしは静かに振り返る。
「今度また。散歩中に出会ったら、一緒に歩こう」
はにかむような笑顔がそこにあった。
わたしは耳を疑った。キツネにつままれたような顔をして本当に? と、繰り返す。
偶然会ったらだからな、と彼は念を押す。あくまで『偶然』を強調したいようだった。
「うん、絶対に」
わたしは目を細め、頬を緩ませた。偶然を装う彼に対して、『絶対に』という返答は矛盾しているとわたしは自分でも思ったが、そんなことはどうでもよかった。
「ちなみに」と舞い上がるわたしに声が降ってきた。
「サクラは雄だから」
「そ、そっか」
嫌われていたと思っていた彼と一緒に歩ける。その事実だけで胸が一杯だった。
やっとスタート地点に立ったのだ、と思った。
恋人として隣に寄り添えればそれに越した事はないのだろう。
けれど今のわたしにそんなものは高望みに思えた。
------
わたしは帰宅後、自室での休憩もそこそこに、早速散歩の準備に取り掛かった。
ケイが尻尾をぶんぶんと振り回して、期待の篭もった目でわたしを見上げていた。
「すぐ準備するからね」
首輪のある玄関まで行くとドアが開き、母が顔をのぞかせた。
「あ、お母さんおかえり」
「ただいまー」
わたしは首輪の置いてある棚の戸をスライドして開く。そこにはいつも通りの顔で、待ってましたとばかりに首輪が置いてあった。
首輪を持ちその場所から離れようとした時、「ねぇ、さやか」と母がいった。わたしはその声の主を見た。
「あんた、耳動かしてみてよ」
「……え?」
「やっぱり寝ぼけてただけなのかな」と母は視線を斜め上へと移動させた。何かを思い出しているようだった。
「だから何が。気になるじゃん」
「いやぁ、金曜日さ、あんた夕飯前に寝ちゃったじゃない? 私起しに行ったの」
起された記憶などこれっぽっちも無かった。それで、と先を促す。
「揺すっても声をかけても起きなくて。でもなんか、しきりに耳をぴくぴく動かしてた」
「出来ないって、そんなの」
ほら、といって耳に全神経を集中してみせるが、小振りな耳は微動だにしなかった。
耳を動かすだなんて普通は出来ないのではないか。つい最近どこかでそれを見たような気がしたが、どこで見たのか思い出せない。
「そんなことよりお散歩に行かなくちゃ」
そういって首輪を掴んだまま、わたしはケイのいる所へ戻った。
ども。作者です。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
さやかと藤田くんはその後どうなったのでしょう。皆様のご想像にお任せします。
そいえば短編書いたことないなー、と思ったので練習がてら書いてみました。楽しんで書いたので、皆様も何か感じ取っていただけたのなら幸いです。
テーマは恋愛とワンコ(犬)ですね。
犬が好きなので、それに絡めて何か作ってみたいと思いました。
劇中にある「子供に怪我させて、被害者側が犬の処分を主張」というくだりですが、実際にそのように処分させる強制力は存在しないらしいです。きちんとしたソースがあるわけではないので、自信を持って断言出来るわけではないですが。
何にしてもお散歩中は注意が必要ということですね(汗
あ、あと、私は耳をぴくぴく動かすことが出来ません。
弟と父は出来るみたいで、見せてもらったことがあります。
凄いんですよ。本当に手も使わずに動いているんですから。耳が独自の意思を持っているみたいに見えます。
どうでもいいですか。すみません。
ご意見、ご感想ございましたら、是非お願いいたします。
それでは、改めてありがとうございました。