織姫がサボったから彦星と年に一度しか会えないと仰るので、千年分の勤怠記録を織って参りました ――天帝陛下、七夕の裁定に再審を請求いたします
◇
私は千年前から、機織りをサボったことになっている。
断っておくが、千年、無遅刻無欠勤である。
天の川の東で機を織って、千年になる。織姫という。
川の西には牛飼いがいる。彦星という。私の夫だ。
夫なのに、会えるのは年に一度。七月七日の夜だけ。
天帝の――つまり私の父の、裁定である。
しかも雨が降れば川を渡れず、その一度も流れる。
今年は、降った。
夕方から糸のような雨が降って、渡し場が閉じた。
下界ではこの雨を「催涙雨」と呼ぶらしい。
織姫と彦星の涙だと。
風流なことである。泣いているのはこちらなのだが。
私は機の前に座り直した。
濡れた髪も拭かずに、緯糸を打つ。
とん、と一段。
指が、膝の上で経糸の数を数える。
心が揺れると糸を数えるのは、千年たっても治らない癖だ。
鵲のカチが、窓枠で羽を膨らませた。
「カチ。今年で、雨は何回目でしたか」
「カチ」
「ええ。三十九回目です。私も同じ勘定でした」
千年のうち、会えたのは九百六十一回。
流れたのが三十九回。
合わせて千。勘定は合っている。
合っているのに、腹の底だけが合わない。
その晩、私は機の手を止めて、決めた。
再審を請求する。
千年前の裁定を、ひっくり返しに行く。
◇
千年前の裁定文は、たった一行である。
『織女、婚姻の後、機を怠る。牽牛、牛を放つ。
よって二人を川の東西に分かち、逢瀬は年に一度とす』
機を、怠る。
言わせてもらうが、私は織っていた。
新婚のあの一年、人生でいちばん織っていた。
織っていたのが、天衣ではなかった。それだけのことだ。
夫になった男は、着るものにまるで構わない人だった。
野良着の肘が、両方とも抜けていた。
継ぎの上に、また継ぎが当ててある。
見ているだけで、指がむずむずした。
だから織った。夫の野良着を、一から。
牛の角に引っかけても裂けないように、経糸は二重。
川風で冷えないように、緯糸には牛の毛を撚り込んだ。
一年かけて、織り上がった。
渡す前の晩に、役人が来た。
帳面を持った天の主計官は、私の機房を見まわして、書いた。
『納品なし。用途不明の布一反のみ。よって怠業と認む』
用途不明。
夫の野良着です、と言う暇はなかった。
裁定は三日で下りた。
川の渡しは閉じた。
夫は西の岸から、大きな体で小さく手を振った。
あの野良着は、いまも私の葛籠の底にある。
千年前に織り上がったまま、一度も袖を通されていない。
畳み直すのは年に一度、七月六日の夜と決めている。
明日こそ渡そう、と千回思った。
けれど逢瀬の一夜は短い。
天の決まりで、川へは手ぶらでしか渡れない。
千回、渡しそびれた。
千年前に織った野良着を、私はまだ、渡せていない。
――以来、私は布に、すべてを織り込むようになった。
日付。天気。何の布か。誰のための布か。
緯糸の撚りと打ちこみの組み合わせで、布の耳に記録を織る。
天女の衣に縫い目はない。天衣無縫という。
縫えないのなら、織り込むまでである。
「用途不明」の一行に、二度と負けないために。
カチが言うには、これは業というものらしい。
「カチ」
「業でけっこう。業も千年ものになれば、いっそ芸でございます」
◇
星務省は、天の川の上流にある。
白い石の役所で、廊下の長さだけなら天でいちばんだ。
私は織り上げた請求状とカチ、それから葛籠を一つ、
荷車に載せて出向いた。
窓口に出てきた役人の顔を見て、指が経糸を数えた。
主計官シン。
千年前、私の機房に『怠業』と書いた、その人である。
同じ帳面を抱えて、同じ場所に勤めていた。
私は窓口に、請求の一巻きを差し出した。
「……これは、布だが」
「再審の請求状でございます。織っておきました」
「書面で出すものだ」
「織面では、受理いただけませんか」
主計官は布を広げ、耳の織り込みを目で追った。
それから、長い息を一つ吐いた。
「……受理する。読めてしまうのが、癪だが」
彼は請求状を巻き直し、眉間の皺を深くした。
几帳面な人である。皺の本数まで千年前と同じだった。
――ちなみに、この人の千年ものの几帳面さが、
のちに私を救うことになる。
この時はまだ、ただ憎らしいだけだったが。
「織姫どの。再審には、新しい証拠がいる。
千年前の裁定だ。いまさら、何の証拠が」
「ございます」
「ほう。どこに」
「千年分」
私は役所の外を指した。
荷車のうしろに、反物の箱が積み上がっている。
石畳の上、塔のようにだ。
カチが塔のてっぺんで「カチ」と鳴いた。
勘定係である。報酬は粟で支払っている。
「私が千年で織った布、九百九十九反。
一反ごとに、日付と天気と用途が織り込んでございます。
すなわち――千年分の、勤怠記録でございます」
主計官は箱の塔を見上げた。
長いこと見上げて、私を見て、また塔を見た。
「……勤怠を、織った?」
「主計官どのが帳面につけるものを、私は布につけるだけです。
道具が違うだけで、勘定は勘定でございます」
「検分に、何日かかると思っている」
「お早いほうだと存じております。
千年前は、私の一年を半日で怠業になさいましたので」
主計官の筆が、止まった。
嫌味のつもりはなかった。事実の確認である。
事実というものは、ときどき、嫌味より強く刺さる。
彼は帳面を閉じ、袖をまくった。
「――検分室を開ける。全部、運び込みなさい。目録は」
「織っておきました」
「だろうな」
◇
検分は、七日かかった。
初日。
シン主計官は、布の耳の読み方を私に習った。
打ちこみの強い段が長い音、撚りの逆が区切り。
のみこみの早い人だった。
半日で、私より速く読むようになった。
千年、数字だけを読んできた指である。
二日目。
彼は最初の百反を検め終わって、妙な顔をした。
「織姫どの。納品の記録と突き合わせたい。
うちの受領台帳を出す」
彼の台帳は、千年分が一冊も欠けずに残っていた。
几帳面も千年ものになると、いっそ芸である。
布の記録と、台帳の日付。
一件ずつ、指で押さえて照合していく。
三日目の夜、彼は筆を置いて言った。
「……合っている」
「はい」
「千年分、一件も違わずに合っている。それどころか」
彼は台帳の余白を、とんと叩いた。
「納期に遅れた記録が、一件もない。千年で、ゼロだ。
ここに千年勤めて、こんな帳尻は初めて見る」
「恐れ入ります」
「恐れ入っている場合か。これでは……」
彼は言いかけて、口を閉じた。
これでは、怠業の実績がどこにもない。
その先は、彼の職分にかかわる一行である。
私は急かさなかった。
千年待った女は、七日くらい待てる。
四日目。
検分は、思わぬものを掘り当てた。
「この反物だが……出来に、波がある」
主計官は反物を年代順に並べ直していた。
白い検分台の上に、千年が帯になって延びていく。
「ほとんど全部が上物だ。それは認める。
だが年に一反ずつ、飛び抜けて上等なのが混じる。
光り方が違う。これは何だ。何かの祝いの年か」
私は答える前に、その一反の耳を読ませた。
彼の指が布の耳をたどり、日付で止まった。
「……七月八日」
「はい」
「毎年の、七月八日。つまり」
「逢瀬の、翌日でございます」
検分室が、静かになった。
カチが窓枠で「カチ」とだけ言った。
「夫に会えた翌日は、糸がよく言うことを聞くのです。
理屈は存じません。手が勝手にそうなります。
千年、毎年、一度も欠かさず、そうなりました」
主計官は光る一反の耳を、さらに読み進めた。
几帳面な指が、末尾で止まった。
「……この、締めの一句は何だ。毎反、同じ句がある」
「夫の言葉でございます」
「千年、同じなのか」
「口の重い人ですので。
別れぎわに、毎年、一言だけ申します。
――『また来年』と。
千年で九百六十一回。増えも減りもいたしません。
もったいないので、毎年、織って取ってあります」
主計官は九百六十一の光る段を見渡した。
そして、しばらく何も書かなかった。
千年、数字だけを検めてきた筆が、宙で止まっていた。
やがて彼は咳払いを一つして、残りの一群に手を伸ばした。
艶のない、目の詰んだ、固くて重い布の一群である。
「では、こっちの固いのは」
「雨の年でございます」
「雨?」
「七夕に雨が降ると、川を渡れません。
その夜に織った布です。三十九反ございます」
「……」
「人は、泣きながら織ると、打ちこみが強くなるのです。
手というのは、正直で」
主計官は三十九反目の耳を、指でたどった。
いちばん新しい、今年の一反である。
織り上げて、まだ七日。
彼はその布を長いこと押さえて、手を離さなかった。
「……固いな」
「今年は、ことに」
「重い」
「ええ。運ぶのに難儀いたしました」
彼は何も言わずに布を巻き直し、五日目の検分に入った。
その晩から、検分室の灯りは朝まで消えなかったらしい。
役所の小者が、そう言っていた。
六日目の朝。
主計官は目の下に隈をつくって、私を呼んだ。
「一つだけ、抜けがある」
来た、と思った。
指が膝の上で経糸を数えた。
「天暦元年。千年前の、最初の一年だ。
この年だけ、納品の記録がない。布の記録もない。
私が『怠業』と書いた、まさにその一年だ。
――織姫どの。この一年、あなたは本当は、何を織っていた」
私は葛籠を、検分台の上に載せた。
七日前から荷車に積んで、ずっと連れて歩いていた葛籠だ。
蓋を開ける。
畳んだ布が一枚、千年分の畳み皺と一緒に、底に収まっている。
「夫の、野良着でございます」
広げた。
肘は二重。襟は三重。緯糸には牛の毛。
千年前の私の、人生でいちばんの一枚である。
「牛の角で裂けないように。川風で冷えないように。
一年かけて織って、渡す前の晩に、裁定が下りました」
「…………」
「主計官どの。あなたの帳面は正しかった。
納品は、たしかにありませんでした。
これは売り物でも納め物でもない。夫のものですから。
ただ――用途なら、ございました。
あの晩、用途の欄をお尋ねくださっていれば、
私は一言で答えられました。
それだけの話でございます」
シン主計官は、野良着の肘の織りを指で確かめた。
几帳面な指が、二重の経糸を数えているのが分かった。
数え終わって、彼は検分台に両手をついた。
「……私の空欄が、千年か」
「あなたのせいだとは申しておりません」
「いや」
彼は顔を上げた。
千年、帳尻だけを見てきた男の顔だった。
「帳面の空欄は、埋めるのが主計官の仕事だ。
私はあの晩、埋めずに閉じた。
七日かけるべき検分を、半日で済ませた。
――織姫どの。再審、受理する。
御前の審理に、私も出る」
「証人として、ですか」
「いや」
主計官は、千年分の受領台帳を胸に抱えた。
「証拠として、だ」
◇
審理の日は、よく晴れた。
天帝の御前である。
玉座の父は千年前と同じ顔で、左右には天官が居並んだ。
口火を切ったのは、星務省の長官だった。
「畏れながら。裁定の趣旨は、今も正しゅうございます。
機は天の要。情に溺れれば、手は鈍る。
げんに婚姻の年、織女の納品は途絶えました。
愛は、機を怠らせまする」
愛は、機を怠らせる。
千年前と、一字も違わない言い分だった。
私は一礼して、申し出た。
「では、実物にてお答えいたします。
――みなさま、川辺までご足労願えますか」
天の川の東の岸に、私は千年を広げておいた。
九百九十九反。
岸に沿って、上流から下流へ、年の順に。
今朝までかかって、カチと二人で並べた千年である。
天官たちが岸に立ち、言葉が途切れた。
どこかで、誰かが筆を落とした。拾う者はいなかった。
千年の帯は、川に沿ってどこまでも延びていた。
もう一本の、川のようだった。
そして帯の中に、一年に一段ずつ、ひときわ光る段があった。
九百六十一。規則正しく、並んでいた。
「光っている段が、夫に会えた翌日の布でございます。
千年で九百六十一。一段も欠けておりません。
記録は、星務省シン主計官の台帳と突き合わせ済み。
納期遅れ、千年でゼロ。
出来は、逢瀬の翌日が毎年いちばん。
――申し添えます。私、千年、無遅刻無欠勤でございます」
私は長官に向き直った。
「長官どの。愛が手を鈍らせるとおっしゃるのなら――
こちら、千年分の反証でございます」
岸が、静まり返った。
長官が何かを言いかけて、閉じた。
九百六十一の光る段は、どんな弁よりも雄弁である。
シン主計官が進み出て、台帳を捧げ持った。
「星務省受領台帳、千年分。織り込みの記録と全件一致。
……付け加えるなら、陛下。
臣が千年前に書いた『怠業』の一行は、
本日ここに、根拠を失いました。
空欄を検めなかったのは、臣の落ち度でございます」
父は玉座を下り、岸を歩いた。
千年の帯に沿って、上流から、ゆっくりと。
光る段の前で足を止め、固い段の前でも、足を止めた。
「……この、目の詰んだ黒いのは」
「雨の年でございます。三十九反ございます」
父は三十九反のうちの一反を、手に取った。
今年の分である。まだ新しい、いちばん固い一反。
千年、天を統べてきた手が、布の重さを量って、下がった。
「重いの」
「濡れてはおりません。そういう織りに、なっただけです」
父は長いこと、その布を持っていた。
それから娘の顔を見ずに、審理の声で言った。
「裁定の根拠は消えた。天暦元年の七を破棄する。
――だが織姫よ、川はどうする。
渡し舟を毎日出すには、川幅が広すぎる。
鵲の橋は、年に一度が限度じゃ。
橋を架けるとなれば、百年がかりの大工事になるが」
待っていた問いである。
私は袖の中から、かねて織っておいたものの端を出した。
「橋なら――織っておきました」
「……なに?」
「雨の年の布は、固く、重く、水を通しません。
三十九反、織りつないで一本にいたしました。
経糸は二重、耳には牛の毛。
人が渡って千年もつ織りです。
会えなかった夜の布ですから、丈夫さだけは請け合います。
――泣いて織った布ほど、雨に強いものはございません」
カチが合図に鳴いて、対岸から鵲の群れが飛び立った。
群れは畳んだ布橋の端をくわえ、川の上に広げていく。
黒く固い千年の涙が、東の岸から西の岸へ。
一本の橋になって、渡っていった。
橋の向こうの岸に、大きな影が立っていた。
千年、年に一度しか見ていない影である。
見間違えようがなかった。
彦星は布橋の袂に立ち、足元の織りをしげしげと眺めた。
それから川越しに、遠慮がちに声を張った。
「……渡って、いいのか」
千年ぶりの第一声が、それである。
「裁定は破棄されました」
「そうか」
「そうか、ではございません。千年ぶりの平日です。
早くお渡りくださいまし」
夫は橋を渡ってきた。
一歩ごとに、橋を確かめる足取りで。
真ん中あたりで一度しゃがみ、織り目を撫でて、また歩いた。
岸に着いた夫は、私の前に立って、頭を掻いた。
「いい布だ。
……牛で言うと、うちのいちばんいい牛くらい、いい布だ」
「存じております。私が織りましたので」
天官たちの居並ぶ前である。
夫は千年分の言葉を探して、
結局いつもどおり、いちばん短いのを選んだ。
「ただいま」
千年分の『また来年』の、次の一言がそれだった。
九百六十二言目にして、初めての新語である。
私の指は、経糸を数えなかった。
数える糸が、なかった。
「おかえりなさいませ」
千年、言う機会のなかった言葉は、するりと口から出た。
毎年七月六日の夜に、畳み直しながら練習していたのだ。
野良着と一緒に。知らないうちに。
◇
裁定は、その日のうちに書き改められた。
『天の川に布橋を常設す。両岸の行き来を許す。
ただし七月七日は、二人の最初の逢瀬の日として、
天の祝日と定む』
「年に一度しか会えない日」では、なくなった。
「最初に会えた日を祝う日」に、なった。
下界には申し訳ないが、七夕の由来は今年から、
少しだけめでたいほうに変わる。
新しい裁定文の写しを届けに来たのは、シン主計官だった。
彼は写しと一緒に、真新しい帳面を一冊、差し出した。
「星務省の、新しい台帳の様式だ。
布の耳の記録を、正式な帳簿として認めることになった。
ついては監修を頼みたい。……謝礼は、規定で出る」
「『規定で出る』は、よい言葉でございますね」
「あなたの千年が作った規定だ」
主計官は帳面を機房の棚に置いた。
それから、葛籠のほうをちらりと見た。
「……渡したのか」
「本日、渡します」
「千年、寝かせた布だ。虫は」
「主計官どの。私の倉に虫が住めるとお思いですか」
「思わん。失礼した」
几帳面な人は、几帳面な一礼をして帰っていった。
彼の台帳がなければ、私の千年は証明できなかった。
記録というものは、書いた日ではなく、
読まれた日に、味方になる。
◇
布橋ができて、天の暮らしは静かに変わった。
「ただいま」
最初の晩、夫は橋の袂で言った。
門にも入らないうちから。
千年ぶりの二回目は、練習がいるものらしい。
「ただいま」
三日目には、機房の戸口まで届くようになった。
手には牛の乳の桶。毎晩である。
私が乳粥を炊くと、夫は椀を両手で包む。
そして湯気の向こうで、
世界の一大事のような顔をして食べる。
千年、一人の鍋で食べてきた男の食べ方だった。
直させていただく。時間はもう、いくらでもある。
「ただいま。……これは、うちの牛の毛だ。冬の分に」
七日目には、土産に説明がつくようになった。
袋いっぱいの牛の毛は、よく揃えて梳いてあった。
緯糸に撚り込むと上等になる。
それをこの人は、千年前から覚えていたのだ。
私が一度、野良着の話をしただけなのに。
朝は、私が橋の織り目を検分する。
露を払い、耳の緩みを指で確かめ、
異常なしと帳面につける。
橋の上では、天官たちとすれ違う。
東西の役所の行き来が、千年ぶりに徒歩になったのだ。
シン主計官は毎朝渡ってきて、橋のなかほどで一礼していく。
「本日も帳尻は合っている」という顔で、だ。
あいさつとしては妙だが、あの人なりの最上級である。
天帝からは、羽織の注文が届いた。
あの橋と同じ織りで、と仰せである。
千年娘を引き離しておいて、ちゃっかりしたお方だ。
お代と納期のご相談には、規定どおりにお答えした。
夕方には、対岸から口笛が聞こえる。
下手な口笛である。
千年前より下手になっている気さえする。
カチが窓枠で「カチ」と鳴いて、私は機の手を止める。
勘定係の報せは、今日も正確だ。
「ただいま」
「おかえりなさいませ。――夕餉は乳粥でございますよ」
「牛で言うと」
「はい」
「……いちばんいい日だ。毎日」
牛で言わなくてよろしい、とは、言わないでおいた。
◇
夕方、西の岸から夫が橋を渡ってくる。
橋ができて、まだ十日。
夫は律儀に毎日、牛の乳と下手な口笛と一緒に渡ってくる。
千年分の平日を、一日ずつ埋めるように。
今日は、机の上に葛籠を出しておいた。
「お座りくださいまし」
「……あらたまって、なんだ」
「千年、遅れた納品でございます」
蓋を開け、野良着を広げて、夫の肩に当てた。
肘は二重。襟は三重。緯糸に牛の毛。
千年前の寸法のままである。
そして千年前の寸法のまま、夫の体に、ぴたりと合った。
この人は千年、変わらずに牛を飼っていたのだ。
肩幅の一寸も、変わらずに。
夫は袖を通し、両腕を広げ、しばらく黙っていた。
それから袖口を目の高さに上げて、長いこと眺めた。
「……肘が、二重だ」
「牛の角対策でございます」
「襟が、あったかい」
「川風対策でございます」
「千年前の、俺の寸法だ」
「ええ」
夫は袖口を下ろして、それきり何も言わなかった。
言わない代わりに、その日は夜まで野良着を脱がなかった。
寝るときも脱がない構えだったので、そこは止めた。
◇
機房の窓から、布橋が見える。
今朝は小雨が降っていて、橋は濡れて、黒く光っている。
雨の年の布は水を通さない。
渡るのに、傘一本で足りる。
下界では今日も、あの雨を涙と呼ぶのだろうか。
呼びたければ呼ぶがいい。
こちらはもう、雨を勘定に入れていない。
カチが窓枠で「カチ」と鳴く。
「ええ、分かっております。本日の分ですね」
私は機の前に座り、経糸を確かめ、緯糸を打つ。
とん、と一段。
布の耳に、今日も記録を織り込む。
日付。天気は小雨。出来は上等。
用途――夫の野良着、二着目。
今度は、千年かけずにお渡しする予定である。
おしまい。




