第1話「聖なる拳と愛しき暴力」
最初に言っておきますが、宗教的儀式を茶化しまくった内容なので、苦手な方は注意してください。
前々作は「兄妹愛」、前作は「恋愛」を描いたため、本作は「夫婦愛」をテーマにしました。
私は──メイ。
高名な資産家を父に持ち、何不自由のない屋敷で育った、いわゆる「お嬢様」なる存在だ。
そして今は、愛する夫パウロと共に、慎ましくも幸せな新婚生活を送っていた──はずだった。
「パウロ様、もう一度……もう一度だけ、私のことを……」
ベッドの傍らに膝をつき、震える声を必死に押し殺しながら、私は夫の顔を覗き込む。
だがその表情は、あの優しかった日々の彼とは別人だった。
焦点の合わぬ目。引きつった笑み。
「キヒヒヒ」と獣のように喉を鳴らし、私の方へ手を伸ばしてくる。
その手に慈しみはない。愛もない。あるのは、底知れぬ邪悪のみ。
──パウロ様は、おかしくなってしまった。
最初は些細な異変だった。夜中に唸り声を上げる。窓辺に立ち、何かと話す。
「誰もいない場所に話しかけてはなりません」と幼い頃から厳しく教わった私にとって、それは恐ろしく、不気味な光景だった。
やがて、彼は物に当たるようになり、言葉遣いも荒くなり……そして今では、私の顔すらまともに認識していない。
それでも私は、彼を見捨てられなかった。
医者に連れて行っても、薬を処方されるだけ。精神科医は「ストレス反応でしょう」などと曖昧に言うばかり。
そんな折、私が出会ったのが、“シスターズ・ジム”と名乗る団体だった。
紹介してくれたのは、街の広場で偶然知り合った老婆だった。「悪魔の仕業かもしれんよ」と、杖をつきながら私に囁いたあの目は、今も忘れられない。
“シスターズ・ジム”──いかにも由緒正しい修道院のような名だった。
私は教会関係の機関かと思い、安心して夫を縄で拘束し、屋敷の馬車に乗せてその場所へ向かった。
だが──
「こ、ここは……?」
辿り着いた建物は、聖堂のようなものでは決してなかった。
重々しい鉄骨造りの建物に、入口の上には大きく光るネオンサイン。“SISTERS GYM”のロゴに、拳とグローブのマーク。教会というより、むしろ……ボクシングジムそのもの。
扉を開けた瞬間、さらに言葉を失った。
「いち!に!さん!しっ!」
「打って!下がって!受けて!打って!」
中では、シスター服を着た女性たちが、スパーリングや筋力トレーニングに汗を流していた。
「……ええと、ここが、悪魔祓いの……」
「ようこそ、シスターズ・ジムへ」
私の疑問を遮るように、奥から現れた一人の女性が、にこやかにお辞儀をした。
シスター服を身に纏いながらも、その下の筋肉の厚みは布越しでも明らかだった。
「私、ジュリアと申します。お連れの方が悪魔憑きとのことで、すぐに儀式を準備いたしますね」
「儀式……?」
何が起こっているのか理解できないまま、私は連れてきたパウロを引き渡し、ジュリアの案内で、建物の奥──大きなリングのある広間へと通された。
「それでは、これより儀式を開始します」
拘束を解かれたパウロが、白いボクシングパンツを穿かされてリングの上に立たされる。
「ちょっ、待って! パウロ様に何を──!」
慌ててリングに駆け寄ろうとするも、筋肉隆々のシスター二人に両腕を捕まれた。
「危険ですので下がっていてください」
「ちょっ、口も……!? むぐっ……!」
口を布で塞がれた私は、そのまま見守ることしかできなかった。
リングの反対側。
ゆっくりとシスター服を脱ぎ、リングインしたジュリアの姿に、私は目を見開いた。
……凄まじい筋肉だった。柔らかな肉感とは無縁の、彫刻のように浮き出た腹筋。張り詰めた肩、引き締まった脚。
ジュリアは聖水を染み込ませたという赤いグローブを手にはめ、軽く構えた。
「悪魔よ、貴様のような下劣な存在が、この地に身を置く資格などありません──さあ、“恥”を思い知りなさい!」
そう言うやいなや、試合は始まった。
「ぬおっ!? な、何を──っ」
パウロの顔に容赦のない左ジャブが突き刺さる。
「これでも男ですか? グローブの匂いに泣き出しそうな顔、かわいらしくてゾクゾクします♡」
「ウ、ウグッ!」
右アッパー、左フック、ワンツー。
ジュリアの連打が容赦なくパウロを襲う。
そして、それを囲むシスターたちの──口撃。
「もっと腰使いなさーい! 男でしょー?」
「ギャハハッ! 殴られてる時の顔、かわいー♡」
「アーメン、彼の尊厳に永遠の安らぎを──」
「むぐっ……むぐうぅううう……!」
何が何だか分からない。分からないが、明らかにパウロ様が痛がっている。嘲られている。
この地獄絵図から逃れさせたくとも、私は何もできなかった。
シスターたちの手は強く、私の声は届かない。
やがてジュリアの拳が再びパウロの顔面を撃ち抜いた瞬間──
「ぐはっ……!」
パウロが、リングに沈んだ。
……そして、静寂。
私は、泣き崩れる寸前だった。だが──
「メ、メイ……?」
その声は、確かに……パウロ様の声だった。
私の名を、正気の瞳で呼んでいた。
「……戻った! 意識が……!」
ジュリアが、グローブを外しながら深く頭を下げた。
「本当に、申し訳ありませんでした。事情をご説明させていただきます」
ジュリアの口から語られたのは、あまりにも常識外れの真実だった。
曰く──悪魔は人の精神に取り憑く存在であり、物理的攻撃では祓えない。
だが“屈辱”という精神的ダメージには弱く、特に「女性に力で敗北する」という行為は、雄の悪魔にとって甚大な苦痛であると。
そのため、女性シスターたちがボクシングで悪魔憑きを打ちのめし、悪魔を祓うのがこの“儀式”だというのだ。
「そんな……!」
正気に戻ったパウロ様は目を伏せ、顔を赤くしていた。
「あの……えっと……ごめんなさい。先ほどの挑発は、あくまで悪魔を刺激するための演技で……その、傷つける意図は一切ございません……っ」
ジュリアは、土下座せんばかりの勢いで謝罪した。
それでも、パウロ様は気まずそうに頷く。
「……分かりました……でも、できればもう、ああいうのは……」
「……申し訳ありません。実は、今回の悪魔は非常に強く、完全に祓うには何度も試合を行う必要がありまして……」
その言葉に、パウロ様はげっそりと顔を青くした。
──そして。
その夜、屋敷に戻った私は、執務室のソファでぐったりしているパウロ様に声をかけた。
「パウロ様、新しく雇いましたメイドをご紹介させていただきますわ」
「メイド……?」
静かに扉が開き、現れたのは──あの、ジュリアだった。
シスター服ではなく、クラシカルなメイド服を纏い、軽く頭を下げて微笑んだ。
「本日より、お屋敷に仕えることとなりました、ジュリアでございます」
「な、なんであんたが──!?」
「悪魔祓いが完了するまで、常に様子を監視し、発作が起きた際は即座に対応できるよう、住み込みでメイドとして働かせていただきます」
パウロ様が絶望の色を浮かべたその時、ふと部屋の隅に目をやった。
──そこには、簡易ボクシングリングが設置されていた。
「……地獄じゃん……」
ジュリアが、にこやかに微笑む。
「これから毎日殴りますので、よろしくお願いします♡」
私はパウロ様の手を握り、真っすぐに見つめた。
「一緒に頑張りましょう……わたくし、絶対にあなたを救ってみせますわ」
パウロ様は、無言で私たちを見つめ──やがて、顔を引き攣らせた。
(つづく)




