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泳ぐ蜻蛉

作者: Yoi


「山奥にあるトンネル知ってる?」


「ああ、レンガのトンネルでしょ? 知ってる、行ったことはないけどね」


「それがさ、出るって噂だよ」


「出る? 何が? まさか幽霊とか?」


「私は恐ろしい村に続いてるって聞いたよ」


「違うよ、怪物の住処なんだって」


「冥界への入り口だって噂もあるよ」



「良い子の皆さん、五時になりましたよ。そろそろお家に帰りましょう。市民の皆さん、明日を担う子どもたちを、暖かな目で見守りましょう」


 防災行政無線から流れる夕焼け小焼けのメロディが、午後五時を知らせている。


 学生鞄を背負った背中の汗ばみと、帰り道に聞こえてくるトンネルの噂話に、妙に気が立っていた。

 見れば、僕より三歳ほど年下に見える女子中学生たちが、楽しそうに話をしている。


 馬鹿馬鹿しい。


 僕は登下校のために、毎日そのトンネルのそばを通っているが、幽霊や怪物などという物騒なものはおろか、不気味な雰囲気すら感じたことがない。


 それよりも、七年前に産婦人科のある病院へ向かう途中の事故で亡くなった両親に代わって、僕を育ててくれている祖父母の家が山奥にあるため、毎日山を上り下りしなければならない苦労のほうが、よほど深刻な問題だ。


 だからその日も、いつもと変わらず、滴る汗を拭いながら山の中を歩いていた。


 しかし、その日はいつもと違った。


 どんな因果で罰となったのか、噂のトンネルのそばには、見慣れない小さな少女がひっそりと立っていた。


 異様に長い黒髪と透けるような肌から、その存在が人間でないことは想像できた。


 白いワンピースを着た小柄な少女は、こちらに顔を向け、唇を微かに緩ませている。


 僕を見ている。

 そう捉える他なかった。


 僕の足はすくみ、山を登って上がった体温からは考えられないほど、手足は冷たく、小刻みに震えている。


 僕は気が動転していた。

 動転していたが故、いや、動転していたにもかかわらず、僕は思いがけず声をかけてしまった。


「君は誰」


 するとその少女は、ただ一言、冷たく凍るような声色で言った。


「こっちへおいで」白く細長い手は、僕のことをトンネルの方へ招いている。


「トンボがね、泳いでいるの」唇が小さく動く。


「トンボ?」


「そう、トンボが泳いでるとこ見たくない?」スローモーションのように口が動き、少女の声がこだましている。


「トンボは、泳がないよ」


「トンボは泳がない。けど、こっちにいるトンボは泳いでるの」


 支離滅裂な会話の内容から、不気味さは残るものの、小学生くらいの女の子と話をしている気分だった。


「君はトンネルの向こうから来たの?」僕の問いに対して、少女はこくりと頷いた。


「トンネルを抜けた先には、何があるの?」


 そう尋ねた瞬間、少女は長い前髪の隙間から、恐ろしい目を覗かせた。


「あなたの知らない世界」


「僕の知らない……?」恐る恐る繰り返す。


 すると少女は、僕の言葉をかき消すように、目を見開いて、淡々と言葉を述べ出した。


「あなたが知らない世界の終わり。訪れなかった、存在しなかったあの日の出来事。滅びなかったあの日の記憶」


 切迫した状況に、焦燥感はさらに増し、再び僕を襲う。


 それでも、僕は口を開いた。


「世界は——終わっていないよ」


 時が止まった。


 静かで、夏の音が全て消え去るような、そんな異様な静寂が訪れた。

 同時に、少女の弛んだ口元は強張り、顎先に数粒の涙が集まった。


「あなたが見た未来に、私はいた?」


 溢れた涙は、少女を崩していくようだった。

 震え出した声は、最悪な予感を募らせた。


「あなたと見たかった」少女がゆっくりと歩き出した。


「僕と……?」体に動けと命じ、石のように固まった足を懸命に動かして、後退りをする。


「あなたに知って欲しかった」少女がゆっくりと迫ってくる。


「僕に……何を……?」逃げなければ、逃げなければ。


「私がいたことを!」


 耳を裂くような奇声と白い影が、勢いよく僕に覆い被さった。

 僕は情けない悲鳴をあげ、地面に倒れ込んだ。



 夢を見ていた。


 白い病室で、健やかな産声が、透明なガラス越しに響き渡っている。

 幼い瞳に映るのは、両親の喜びの表情と、柔く弱々しく愛おしい赤子の姿だった。


 僕の隣にいる看護師が、僕の肩に手を乗せて「よかったね」と微笑む。


 僕は、もう一度、その光景を目にする。

 そして、その看護師に向かって笑い返した。


 嬉しかったから。 ——嬉しい?  一体、何が?



 目が覚めると、玄関先の庭に倒れ込んでいた。


 顔は汗だくで、呼吸は浅く、視界には青く純粋な大空が広がっていた。


 恐怖や不安は微塵もなく、まして世界が滅亡するような予感など、これっぽっちも存在しない。

 その爽快感は、恐ろしい悪夢から解放された後の、一種のカタルシス効果とも言えるようだった。


 それほどまでに青く、美しく、どこか薄っぺらい空だった。


 忘れてはいけない何かを、思い出せなくなってしまうような。

 心に留めておくべきことを、見失ってしまうような。


 人々が願った何もない天国を夢見ているような。


 そんな白昼の空だった。

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